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Gemini

Posted in 再録

もしもの国のアリス

 時刻は三時をまわったところだった。昼過ぎの強すぎる日差しは柔らかさを帯び、心地良い風が吹いている。空は青々とした晴天だった。
 …なんとも過ごしやすい日だ。そう思いつつ、昼寝を楽しむ猫のように、ジタンはゆったりと欠伸をかみ殺した。
 そんなジタンの隣には、一人の青年が座り込んでいた。蒼い瞳の彼はジタンを無感情に一瞥し、岩壁もたれ掛かって、何やら難しそうなタイトルの本をめくっている。
 「夜、眠ると人は夢を見る」
 もちろん、昼間に眠るのならば昼間にも。
 …手にした本の一節だろうか。彼は唐突にそう言った。ジタンはその言葉に、心の中でだけ「ああそうだな」と相づちを打つ。
 「夢で、普段抑圧されている願望や、憂いを見てしまうこともある」
 ぱらぱら、とページの繰られる音。
 彼は…クジャは難しいこと言うな、と少しうるさそうに寝返りを打った。やがて、パタン、と、本が閉じられる音がした。それはどこか遠い世界の音のようで、現実味が薄い。黙っていると、また声がした。
 「半分起きている時に見るのは、大抵がいい夢」
 そうなんだ、とやっぱり心の中で返事をする。なんだか声が遠い。
 「逆に、深く眠っているときに見るのは、悪夢だ」
 さわさわと、風が樹を揺らしていた。芝生と陽光の心地よさがあった。ジタンを眠りから遠ざけるものは、何一つ無かった。

***

 がさり、がさり、と足を踏み出すたびに草が抗議の音を立てる。
 「クジャー、おーい!」
 ジタンはクジャを呼びながら、ひたすら森の中を進んでいた。心なしか、その足取りはいつもより速い。
 何か、変な感じがする道だ。ジタンは眉を顰めてそう思った。
 何か障害があったわけではない。嫌な気配がするわけでもない。それどころか、草むらも林も、思った以上に歩きやすい道だった。
 しかし、手入れが行き届いている…というのとは、少し違う。例えるなら、それは絵本の中に出てくる森のようなのだ。木々は青々とし過ぎていて、全てが均等に、あつらえたように真っ直ぐ伸びている。もしも小さな子供に「森ってどんなの?」と尋ねて絵を描かせたら、きっとこんな絵を描くだろう。そんな、現実味のない景色だった。
 そして、木々に囲まれた視界は唐突に開ける。
 「まぶし…」
 思わず呟いて、掌を目元にかざした。
 目映いばかりの陽光に目が慣れると、森の中にぽっかりと出来た、芝生の広場が見える。広場には木々は一本も生えていない。ただただ、整然と並ぶ芝があるばかりだ。だから、そこに座る人物は、ただ上を見上げるだけで晴天を眺めることが出来るだろう。
 綺麗に敷かれた芝生の真ん中に、彼はいた。目の覚めるような青空の下で、真っ白いテーブルクロスが敷かれたテーブルにつき、ぼんやりと、紅茶に口を付けながら。
 銀色の髪と、まるで女性と見紛うような顔立ち。その人物を、ジタンが見間違えるはずもない。
 「クジャ?」
 ジタンが名前を呼ぶと、彼はぼんやりと、気だるげな仕草でそちらを見た。
 しかし、それだけだった。ジタンをちらりと見ると、クジャは何も言わないまま、再び紅茶を一口すする。
 おいおいどういうことだ、とジタンはまた、その場に立ちつくした。
 いや、クジャが見付かったのは良かったのだけれど…まさかこんな形で、こんな訳の分からないシチュエーションで見付かるとは思いもしなかった。…と言うか、なんでいきなり芝生で、テーブルと椅子? そんでティータイム?
 脳内がクエスチョンマークで埋まる一歩手前で、ジタンはやっと正気を取り戻した。こんなことをしている場合ではなかった。クジャが元気そうなのは何よりだが、それなら早くここを出るべきだ。
 「おいクジャ! 何やってんだよ、探したんだぞ」
 ぐい、とクジャの肩を掴んでこちらを向かせた。クジャは抵抗らしい抵抗もせず、されるがままにジタンに向き合う形となった。すう、と細められた青い瞳が、ジタンを見据える。
 「…誰?」
 そして、不思議そうな表情でそう問われる。
 はぁ? と思わず言いそうになるのを堪え、ジタンはぽかんと口を開けるしかなかった。
 まさか、ジタンの知らないところで頭でも打って、記憶喪失にでもなってしまったとか? それともオレをからかって遊んでるとか? …などと、色々な想像がジタンの中を駆けめぐる。
 「じょ、冗談キツイぞ。何言ってんだ? ジタンだよジタン」
 「…ジタン」
 無造作に、クジャは繰り返す。その反応は普段のクジャからして、随分子供っぽく感じられた。ああやっぱり頭でも打ったのかな…と、ジタンは内心頭を抱える。
 クジャは困惑しているジタンを一瞥すると、興味を失ったようにまた紅茶のカップを手にした。蒼を基調にした、金の縁取りが入ったティーカップだ。いかにも、クジャのような人間が好んで使いそうな高級品だった。
 「なんで、こんな所でお茶なんて飲んでんだよ。早く帰ろうぜ」
 尚もゆっくり紅茶をすするクジャに、ジタンは眉を顰める。しかしクジャはつい、と視線だけをジタンに向けて、首を横に振った。
 「駄目だよ」
 「なんで」
 「まだそういう時間じゃないから」
 そういう時間って、どういう時間だよ…ジタンは今度こそ、内心ではなく実際に頭を抱えたくなった。
 すると、やれやれ、と言った感じでクジャがティーカップを置く。そしておもむろに自分の背中側を指差した。その指先を辿ると…いつの間にあったのだろう。そこには大きな柱時計があった。
 それは、まさしく「大きなのっぽの古時計」と歌われるような柱時計だった。いくらクジャの背中側にあったとは言え、そんなものがあれば気付くはずなのに。ジタンは、クジャが指差すまでその時計の存在に気付かなかった。
 「まだ、三時になったばっかりだよ。だからティータイムも始まったばかりだ。君も、喚いてないで座れば?」
 カチコチと几帳面に時を刻む音。それを背中に負いながら、クジャは自然に微笑む。そして、ジタンに向かいの席を勧めた。その微笑みが、あまりにクジャに似つかわしくなくて、ジタンは一瞬言葉に詰まる。
 …オレの知っているクジャは、こんな風にしてオレに笑って見せたことはない。
 ふと、クジャが勧めたその椅子に触れる。それは、クジャの座っている椅子とよく似ていたが、少し装飾が豪華になっているようだ。
 座る気にはなれなかった。自分には過ぎている…直感的にそう思った。
 「オレは…いいよ。それより、今が駄目ならいつ帰るんだ」
 その問いかけに、クジャはつまらなそうな顔で、「さて」と呟いた。
 「あの時計は長いこと止まったままだからね。いつになったら帰れるのやら」
 まるで他人事のようにそう言って、クジャはまた紅茶をひと飲みする。
 さっき三時になったばかり、とクジャは言った。しかし、時計は長いこと止まったままだとも言う。
 「意味わかんないぞ、もう…」
 思考が矛盾に絡め取られるのは、時間の問題だった。ジタンはくしゃりと自分の髪を掴むと、お手上げと言った感じで黙り込む。
 キツネにつままれたような、とは、きっとこういう状況のことを言うのだろう。とにかく、全てが不自然だった。整いすぎた森に、ぽっかり空いた穴のような広場。そこに忽然と現れた、机と椅子と柱時計。全てに現実感はなく、ジタンにとって唯一「現実」であるはずのクジャでさえ、現実味をごっそり失っているような気がした。
 なあ、お前は本当にクジャなのか? ここはどこなんだ? 一体何が起こってるんだ?
 ジタンの困惑など素知らぬ顔で、クジャは優雅に椅子に座っている。カチコチ、と、時を刻まない時計だけが、音を立てていた。
 やがて、クジャは険しい顔をしたジタンを一瞥して、小さく笑う。
 「…この時計が直ったら。僕は君と帰ることが出来るかも知れないね」
 「この時計が動いたら、ってことか?」
 「まあ、そうなるね。その先に進むことが出来れば、ね」
 でも、とクジャは柱時計を一度だけ振り返る。
 「この時計、君じゃないと直せないんだよ」
 「はあ? …まあ、直せないことは無いだろうけど…あんまり難しいのは無理だぞ」
 タンタラスに居た頃は、直せる物はなんでも直して使ってきたし、時計だって例外ではない。けれど、こんな大きな柱時計を拾ってきて直す、なんてことはしたことがない。
 「そう難しいことでもないさ。君なら」
 しかしクジャは全く心配していない様子で、微笑んでいた。
 その笑顔は、やはり失礼ながらクジャらしくない…素直な、笑顔だった。
 そして、クジャは染み一つないテーブルクロスにそっと掌を重ねつつ、こう続けた。
 「君はちゃんと、あの星の…テラの時間を前へ進めただろう? まあ、過程としては僕が滅茶苦茶にしてしまったんだけれど」
 「…え?」
 何のことを言われたのか、一瞬分からなかった。
 テラ。ジタンのことを知らない、と言ったこのクジャは、二人の故郷の名前を呟いた。
 そう言われてみれば、確かに、あの星の時は止まっていたのかも知れない。ジタンが訪れたことで、ひいては、クジャが自我を持ったことで、あの星は少しずつ前に進み始めたとも言える。
 ぽかん、とするジタンを残し、クジャは立ち上がる。気が付けば、彼のティーカップの中はカラだった。
 「さて、じゃあ僕はそろそろ行くよ。裁判に赴かなくちゃいけないんだ」
 「ちょ、ちょっと待てって! 裁判って何だよ! そうじゃないだろ、帰るんだろ!」
 言って、ジタンはクジャの腕を掴もうと手を伸ばした。
 しかし、その手は僅かに届かずに空を切り、それに気付く様子もなく、クジャは森の向こうへ歩き出した。まるで、もうジタンのことなど見えていないかのようだ。
 「おいクジャ! 待てよ! オレも行く!」
 何も言わずに歩き出したクジャを、ジタンは追った。クジャは森の中へゆっくりと消えていく。ジタンは必死に追い付こうと走っている。それなのに、いつまで経っても追い付かない。タチの悪い冗談か、と思うような、嫌な感じ。気味が悪いくらい整った森は、ジタンを排除したいかのように、クジャとの間を広げていく。
 追いつけない。追い付かなければならないのに。…どうしようもない焦りとジレンマが、ジタンの心を焦がす。
 視界の端にかろうじて在ったクジャの姿が、消えていく。
 ダメだ、と反射的に思う。何故か、クジャはそちらへ行ってはいけないと思った。
 「クジャ!」
 必死で叫んで草をかき分けた。しかし、その先にクジャの姿はない。
 視界に広がったのは、先ほど、クジャが居たような森の中の広場。しかし違うのは、そこにあるのがテーブルでも椅子でもなく、むき出しの裁判所であること。
 むき出しの、と言うのは、そこに天井がないからだ。青空教室というものもあるが、これでは青空裁判所だった。
 正面には、木製の証言台らしきもの。そこにクジャは立っていた。その両側には、弁護人と検事が立つ場所があるのだが、そこに人影はない。そこに存在しているのは、たった三人だけだった。
 証言台に立つクジャと、それを後ろから見つめるジタン。そして、裁判長の席にもう一人。
 裁判長の席に座っているのは、自分とさほど変わらないであろう年齢の少年だ。しかし、顔は見えない。仮面を付けているのだ。そして仮面の少年は、玉座のようにも見える豪奢な椅子に、どっかりと尊大に座っている。
 たった二人だけの裁判所。ジタンはさしずめ、傍聴席に居るようなものなのだろうか。しかし、そこは恐ろしいほどの緊張感が支配していた。
 「クジャ」
 その裁判長の席に座る少年が、クジャの名前を呼ぶ。張りつめた緊張の糸を、指先で弾くような感覚に、ジタンは思わず身を震わせた。
 少年の声が重かったわけでも、厳かだったわけでもない。むしろその声は、無邪気とも取れるくらいに明るかった。しかし、何故かその声は人の不安を煽る。
 しかし、証言台に立っていたクジャは、無表情のままに少年を見上げていた。
 「…お前は有罪。よって首をはねる」
 次に放たれた鋭利な言葉に、ジタンは戦慄した。
 仮面の下から覗く口元が、にっこりと綺麗な笑顔を作っている。まるで、とびっきりのプレゼントを見つけ、それを手にした時のような笑顔だった。
 しかし、その笑顔で、コイツは殺せと言った。
 「止めろっ!」
 そう思った瞬間、叫んでいた。仮面をつけた裁判長と、証言台のクジャがジタンを振り返る。
 恐ろしいほど張りつめていた緊張が、ブツリと途切れたようだった。ジタンは注がれる視線に一瞬怯むが、すぐに思い直して姿勢を正す。
 くすくすくす、と、緊張が途切れたその後に、少年の忍び笑いが響いた。
 「…へえ、オレの判決に文句があるってか。面白い。おいお前、証言台に立て。話くらいは聞いてやる」
 笑っているのは裁判長席の少年だった。彼は玉座の肘掛けに頬杖をついて、小馬鹿にしたような視線でジタンを見つめている。何か含みのあるその笑い声は、ジタンの苛立ちを加速させる。
 もうなるようになれ、と、ジタンは腹をくくって証言台に立った。
 「こんなに簡単に人の命を奪って、いいと思ってるのかよ!」
 開口一番、ジタンは証言台の柵に手を突いて言った。少年は、はは、とまた小馬鹿にしたように笑う。
 「もちろん。それがオレの役割だからな。仕方ないだろ?」
「役割って何だよ! そんなのどうだっていいだろ! 自分の頭で考えろよ! 人が死ぬとか生きるとか、そんなものを役割とか、役目とか、運命とか、そんなのでやりとりしていいわけないだろ!」
 「自分の頭で?」
 少年はそう尋ね返した後、堰を切ったように笑い出した。まるで、ジタンがその言葉を言ったのが可笑しくてたまらない、と言ったように。
 肩を振るわせ、少年は笑う。その様子はどこか狂っているようで、ジタンは思わず後ずさった。
 やがて、その笑いがくつくつと言う忍び笑いに収まった頃、少年は仮面の顔を上げた。
 「考えてるさ、もちろん。殺すことが、壊すことが。オレの生きる意味だって、ちゃんと分かってるさ」
 がた、と言う音がした。少年が、玉座から立ち上がった音だった。
 …そこで初めて気がつく。少年の髪色は、目の覚めるような金色だ。仮面の向こうから覗く瞳は、サファイアのような青をしている。そうしてその可能性に気付いたとき、ジタンは無意識にもう一歩、もう一歩と後ずさっていた。
 少年の口元が、聞き覚えのある声で言葉を紡ぐ。
 「元々オレたちはそのために生まれたんだろ? なあ…」
 やめろ、ちょっと待ってくれ、そんな。
 そう思いながらもう一歩、後ろに下がる。どん、と背中が何かにぶつかった。クジャだろうかと思って振り返ると、そこには仮面を付けた「少年」が、立っていた。
 少年の細い指先が、その仮面にかかる。口元は、やはりにっこりと笑みを形作っていた。

 「ジタン」

 少年が、オレの、ジタンの、彼の、名前を呼ぶ。
 仮面が外れる。するり、と少年の手を放れ、そのまま芝生に落とされる。その下には、金髪と青い目に彩られた、自分と全く同じ顔が在る。
 「自分の生まれた意味を。忘れたわけじゃあないだろう?」
 ジタンと同じ顔が、ジタンと同じ声が、ジタンにそれを囁く。まるでそこに鏡があるかのように向かい合って、ジタンと彼は目を合わせる。
 一方の目には戸惑い。もう一方の目には追求。同じ顔をした同じ人間であるはずなのに、彼らの表情には差がありすぎた。
 それは確かに自分の顔なのに。相手は自分が浮かべたこともないような意地の悪い笑みで、ジタンを追求した。
 「なんだよ、何とか言ったらどうだ? お前だって思ったんだろ? もしかしたら自分が、って。お前の大事な、大切な世界を滅ぼそうとしてたのは、クジャじゃなくて自分だったかも知れないって!」
 それでいいんだよ、それでこそだろと、もう一人のジタンは笑った。
 「だってそのためにオレたちは生まれたんだから」
 掌を自らの胸に当て、その生まれた理由を噛みしめるように。その仕草は芝居がかっていて、自分と言うよりは、本当にクジャに重なって見えた。

 …そう。その可能性を、全く考えなかったわけじゃない。目の前の彼に絆されたかのように、ジタンは思い出していた。
 テラに降りた時、ガーランドに洗脳装置にかけられ、朦朧とする意識の中で、確かに考えたのだ。
 自分の力は…仲間のために使っていた力は、仲間の世界を滅ぼすためのものなのだと実感した。いままで培ってきた信念とか願いとか、そういうものが全部ぐしゃぐしゃにされた気がした。
 自分をガイアに繋ぎ止めていた、仲間とか、大好きな世界の人々とか。そういうものから全部切り離されて、独りぼっちになったような気がした。
 もう駄目だ、と思った。
 駄目だと、そう思った自分を繋ぎ止めてくれたのは、仲間だった。
 彼らが、そして彼女が迎えに来てくれなければ、自分は一生あの闇の中を彷徨っていただろう。

 「その力を否定するなよ。クジャさえも越える、星さえも支配できる! その身のうちの強大な力を否定するなよ! 否定出来やしないだろ!」
 その闇を。闇の奥底に出来た傷口を、抉るように。もう一人のジタンは言う。
 違うと叫びたかった。しかし、身体は重く、口は震えるばかりで言葉が出てこない。まるで、ジタンの命令を身体が拒否しているかのようだ。
 ジタンは何も言えず、怒りと、そして恐怖を携えて、彼を見つめるしか出来なかった。
 「クジャだって、お前が殺すはずだった。殺したいほど憎かったくせに。お前の大事な世界を、壊しに壊されたんじゃないか」
 相変わらずの笑みで、もう一人のジタンは言った。
 証言台に立ったままのクジャは、再び無表情になって、二人を見下ろしている。まるで生気の抜けた人形のようにも見える。
 全てを諦めたような、その表情。ジタンはそれを、どこかで見たことがあった。
 …そう、あの時イーファの樹で見たのだ。生きる意味が分かった気がすると、そう言いながら、生きることを諦めようとしていたクジャの目だ。
 その瞬間、ジタンの心を鋭い悲鳴が駆けた。
 「違う…」
 「違わない」
 「違う!」
 最初は心の叫びに押されるように、か細く。しかしもう一度否定されたときは、本当に叫んでいた。
 違う。オレはクジャを殺したかったわけじゃない。殺したいほど憎いって思ったことはあるけれど、イーファの樹で、横たわるクジャを見たら、そんな思いは全部吹っ飛んだ。
 自分の手の届く場所に横たわって、疲れたように笑って見せたクジャを、どうして見捨てることなんて出来ただろう。
 気が付けば、腰にあるダガーを抜いていた。そして、もう一人の自分に突きつける。
 「もう黙れよ、どうだっていいんだよ、そんなことは! オレはコイツを見捨てない! 誰も見捨てない! そう自分で決めたんだ!」
 それ以上何か言えば、容赦しない。
 そう言う代わりに、ジタンはダガーを振りかざして相手を睨み付けた。キラリ、と切っ先が陽光に反射し、もう一人のジタンを映し出す。
 もう一人のジタンは、一気に冷めた表情になって、溜息を付いた。そして、力無く笑う。
 「そう…やりたいならやればいいさ。けど、その力だって壊すために与えられた力」
 クジャを殺して、その後世界を壊すために与えられた力だ。
 そう、彼は耳元で呟いて、さっと虚空へかき消える。
 瞬きも出来ないほど一瞬の出来事だった。ジタンは一瞬、目標を失って戸惑う。その刹那の間に、彼はクジャの背中側へ回っていた。ジタンがそれに気付いて、振り返ったときにはもう遅い。
 もう一人のジタンは、憐れむような表情で、自らの手にもダガーを握りしめ、クジャののど元に突きつけていた。
 「さあ、お別れを言えよ」
 首をはねろ。さっき、裁判長席で冷酷に言い放つ声が、繰り返された。
 やめろ、と、叫んだような気がして、それから、

 ばしゃあ。
…という、水音。

***

 「ああ、やっと起きた」
 ぽた、ぽた、と、定期的な水音が耳に付いた。なんだろう、と思ったら、自分の髪から、水滴が落ちているのだった。
 「冷た…」
 「当たり前だろう? 頭から水をかけたんだから。冷たく無かったらおかしいよ」
 思わず呟いた独り言に、答える声があった。顔をあげると、さらりと銀髪が零れるのが見えた。
 「いくら揺すっても起きないから、実力行使させて貰ったよ。良かったね、起きられて」
 嫌味だと分かっていて言っているのだろう。銀髪の青年…クジャの表情は、からかうような笑みだった。
 しかしジタンはそれには答えず、ゆっくりと冷えていく頭と、むき出しの肩の冷たさに息を吐く。ぼんやりしていた思考が、ゆっくりと戻ってきた。

 イーファの樹から命からがら脱出したあと。ジタンは、クジャの体力が回復するまでと、黒魔導士の村で生活を始めたのだ。生活を始めてから数週間。クジャの体力は元通りとはいわないが、普通に生活するのに困らないくらいには回復した。
 しかし、クジャは相変わらず外に出たがらなかった。それじゃあ健康に悪い、今日は天気がいいからと、ジタンは強引に連れ出して…そのまま、あまりの天気の良さに眠り込んでしまったのだ。

 「あー…サンキュ、助かった」
 夢、と言う単語を心の中で繰り返す。
 「…何? 気味が悪いね。寝返りの時に頭でも打った?」
 てっきり文句を言われると思っていたのだろう。クジャは怪訝な表情で言う。ジタンは苦笑して首を横に振った。
 「ものすごく嫌な夢だったからさ」
 「ふうん。どんな?」
 さして興味もなさそうに、クジャは尋ねる。
 …ついさっきまで見ていた夢を思い起こす。まだ、鮮明に思い出せる。しかし、ジタンは言うか言うまいかと少し悩んでから口を開いた。
 「オレが…お前がしたみたいに、全部、ぶち壊す夢」
 明るくしようとした口調は、途中から尻すぼみで小さくなっていく。クジャがさすがにジタンの方を見て、目を細めた。
 少しの沈黙の後、フフ、とクジャは微かに笑った。
 「それはまた、分不相応な夢を見たものだ。安心しなよ、君に僕は勤まらないから」
 クジャに笑い飛ばされて、ジタンはきょとんとして彼を見上げた。クジャは立ち上がり、手にした時計に目を落としている。
 どうでもいい、あり得ない夢だ。ともかくクジャが言外に、そう言ったらしいことは分かった。
 「さっさと帰ろう、夕飯の時間だ」
 時計の蓋を閉じ、クジャが言う。彼は時間にうるさい。ジタンも腰を上げた。
 「…時計、直ったんだな」
 思わずそう呟いてしまったのは、まだ半分くらい夢の中にいたからなのか。
 クジャはもう一度怪訝そうな顔をして、こう返す。

 「何を言ってるんだい?…最初から、壊れてなんかいないよ」

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