シド大公考案の最新式飛行艇に乗れば、アレクサンドリアとリンドブルムなんて目と鼻の先だ。
…科学とは凄いものなのね、と改めてガーネットは実感する。
やがて飛行艇がリンドブルム城のドックに降り立ち、出口のドアが開いた。
「さあ! タンタラスのアジトに行くわよ!」
そうね、というや否や、エーコはガーネットの手を引いて走り出した。
ちょっとエーコ、と口を挟む暇さえない。目指すは劇場街だ。
リンドブルム城を出て、久方ぶりに訪れたリンドブルム城下は、アレクサンドリアに負けじと活気づいている。
人々の合間を縫ってエアキャブのステーションにたどり着き、そこから劇場街行きのエアキャブに乗り込んだ。
「劇場街行き、発車します!」
車掌が明るく号令をかけると、やがてエアキャブが揺れて、窓の外の景色が流れ出す。
…ふと周りを見渡してみると、劇場街へ向かう人々は、皆華やかな服に身を包んで座っていた。
ある人はこれから見るお芝居に思いを馳せ、ある人はお芝居よりもそれを演じる俳優に夢中のようだ。ある人はお芝居のパンフレットを眺めながら、家族や友人達と期待の言葉を交わしている。
そんな人々を見て、ああ、そう言えば最近お芝居を見ていないわ、とガーネットは思った。
女王に即位してからは、引継ぎや公務であちこちを飛び回っていたし、暇が出来たら出来たで、仲間達に会いに行ったりジタンと過ごしたりしていた。
特に芝居を見たいと強く思っていたわけではないが、一旦意識してしまうと、なんだか酷く懐かしくなった。
「(そう言えば、ジタンと初めて会ったあの日も、お芝居を見ていたのよね)」
エイヴォン卿の【君の小鳥になりたい】。ガーネットの中で、一、二を争うお気に入りの芝居だ。
エイヴォン卿の芝居はどれも好きだが、悲劇では一番気に入っている作品だった。今となっては仲間達との思い出の芝居として、また別の位置を占めてもいる。
「(スタイナーに追いかけられて、仕方なく二人で舞台に上がって…なりゆきで、わたしがコーネリアをやって…)」
ハラハラしたけれど、とても楽しかった。もう一度、あんな風にジタンとお芝居に参加出来たらいいのに。
そう言ったら、ジタンは困ったような顔をするだろうか? それとも、「それはいい」と一緒に笑ってくれるだろうか?
…劇場街です、と告げる車掌の声で我に返って、ガーネットは回想を止めて席を立った。
お芝居に出たい云々はさておいて。さて、これからジタンに会って、どんなことを言ってやろうかしら?
でもきっと、大抵のことはエーコが言ってしまうわね…
なんて考えていた、その時だった。
「そ、そのエアキャブ、乗ります!」
ガーネットの隣をすり抜け、折り返しのエアキャブに乗り込もうとした者がいた。
酷く慌てたその声を辿って、彼の顔を見たとき、ガーネットは思わず驚いて目を見開いてしまった。
すれ違ったのは、金髪に青い目、髪と同じ色をした尻尾を持つ男性。…言うまでもない、見慣れた「彼」の顔だ。
「ジタン?」
名前を呼ばれて、ジタンも初めてガーネットの方を見た。そして、ここに居るはずのない恋人を見て、ぎょっとしたような顔になる。
「ガ、ガーネッ…じゃない、ダガーっ?」
ガーネット、と言いかけて、ジタンは自分の口を塞いだ。
アレクサンドリアとは懇意(こんい)なリンドブルムとはいえ、こんな町中をアレクサンドリア女王が歩いているとなったら、大騒ぎになる。
「あーっ! ジタン、見つけたわよ! ちょっと話を聞かせて貰うわ、あなた最近ダガーに寂しい思いさせてるらしいじゃない? どういうことなのっ?」
まさにその時、ようやくエーコがエアキャブから出てきた。
彼女は、エアキャブに出入りする人々をやっとかき分けて(彼女の背丈では、長身の大人達をかき分けるのは大変そうだ)、叫ぶ。
さすがの大音量、といった感じの声に、エアキャブの乗客や車掌、通行人までが「なんだなんだ」とこちらに注目した。
「うわ、ちょ、ちょっと待てエーコっ!」
「そうはいかな…むぐ!」
人々の視線が自分に集中したのを見て、ジタンはさらにぎょっとした。そして何を思ったか、素早くエーコの口を塞ぐ。
塞がれた方のエーコはたまったものではない。突然のことにビックリしつつも、途端に不満を爆発させてモゴモゴ言っていた。
「あ、あの、ジタン?」
一体何が起こっているのだろう。もう何がなにやら分からずに、ガーネットは茫然とジタンの名前を呼んだ。
そうしてこちらを向いたジタンは…かなり焦った顔をしていた。恐らくだが、それはガーネットの正体がバレたらヤバイ、という種類のものとはちょっと違う気がする。
例えばそう、誰かに追われていて、見つかりたくないとかそういう種類の――
「し、静かにしてくれ! 頼むからっ! 話はあとでいくらでも聞くから! な! ダガーも頼む!」
「え、ええ…いったいどうしたの? 何かまずいことでもあった?」
ジタンの口調ににじむあまりの必死さに、ガーネットは反射的に頷いてしまった。
さっきまで「何を言ってやろうか」なんて考えていたことは、もう全部吹っ飛ばされていた。
ガーネットは小さい溜息をつく。…なんだかエーコといいジタンといい、今日はこんなのばっかりだわ。なんだか釈然としない。
浮かない顔をしたせいだろうか。ジタンはガーネットを見て、慌てて言いつくろった。
「あの、事情を説明したいのは山々なんだけどさ、早く逃げないと見つか――」
「ああ、ここに居たんですか、トライバルさん」
「ギャーーーーッ!」
と、突然ジタンが叫び声を上げた。
…自明の通り、ジタンというのは格好つけたがりな性分だ。そんな彼が女性の前で…特に意中の女性の前で、手放しで叫ぶなんてことはそうない。現に、ガーネットもエーコも目をぱちくりさせている。
しかしジタンはいつものように余裕をかます余裕すらないようで、恐る恐る、後ろを振り返った。
よく見ると、ジタンの肩には細い手が乗っている。誰かがジタンの肩を叩いて呼び止めたらしい。
「僕の舞台から逃げ出す役者なんて、貴方が初めてですよ。普通はみんな、涙を流して『出演させてくれ』と言うのに」
その少年は美しい銀髪を靡かせ、仕立ての良い服を身につけていた。そして洗練された仕草で肩を竦めて微笑んでいる。異様なのは顔につけられた仮面だ。
すぐに、ジタンがこの前言っていた人物だと分かった。
…不思議な雰囲気を漂わせる少年だった。表情が仮面の向こうに隠れて見えないことも、そう感じさせる要因の一つだろう。
だけど綺麗なひとだわ、とガーネットは思った。
男性に向かって「綺麗なひと」というのも可笑しいだろうか。しかしエーコもその姿に見とれているようで、ジタンに言うはずの文句も忘れて立ちつくしている。
ただ一人、少年に食ってかかっているのはジタンだ。
「冗談じゃない、とにかく俺は嫌だ!」
「まあまあそう言わず。アナタでないと僕も嫌なんですよ」
ジタンがまくし立てるのだが、少年はどこ吹く風でにこにこしている。
「のれんに腕押し」または「ぬかに釘」の例を挙げよ、と言われたら、ガーネットは迷わずこの光景を挙げるだろう。
二人は尚も言い合いを続けている。
嫌だ、冗談じゃない、まあそう言わず。
会話の中からは、二人が何の話をしているのかさっぱりだ。時折、舞台や役者という言葉が入っているから、芝居のことで口論しているのだろうか?
「もう…いったいどうなってるの?」
思わずガーネットが呟くと、その時初めて銀髪の少年が興味を持ったようにこちらを見やった。
仮面の向こうから覗く知的な瞳が、ガーネットを見つめる。それはどきりとするほど深い、ディープブルーをしていた。
「おや、トライバルさんのお知り合いですか?」
「え、ええ、まあ…」
「それはそれは。わたしはフォード・エイヴォンと申します。トライバルさんとはお仕事仲間、というところでしょうか。以後お見知り置きを」
フォード・エイヴォン。ジタンの仕事仲間で、舞台や俳優のことを話しているのだから、芝居関係の人だろうか。そう言えば、エイヴォン卿とおんなじ名前だわ、とガーネットはぼんやり思った。
「ご丁寧にどうもありがとう。わたくし…いえ、わたしはダガーといいます」
ガーネットが軽い会釈でそう応えると、フォードはにっこりと笑みを浮かべる。そして、ガーネットの言葉に聞き入るように少し黙ってから、
「ダガーさん。とても美しい声をお持ちですね。なかなかそういった声をお持ちの女性はいらっしゃらない。素晴らしい天分です、大切になさってください」
まるで詩を暗唱するように、フォードはそう褒めた。
ガーネットは驚いて目を見開く。いったい、この人は突然何を言い出すのかしら。そう思う反面、何故かとても嬉しくて、ガーネットは思わず頬を赤らめた。
と、そこにエーコが割り込んできた。
「ちょっと、わたしを無視しないでちょうだい!」
ガーネットを守るように立ちはだかったエーコは、やる気満々、といった様子で(一体何に対するやる気かはわからないが)、フォードを睨み付けた。
フォードは一瞬驚いたようだったが、すぐに美しい微笑みを戻して頭を下げる。
「これは失礼致しました、お嬢さん」
「お嬢さんじゃないわ、エーコはもうちゃんとしたレディなんだから!」
腰に手を当て、胸を張るエーコ。
まだまだ、その仕草はお嬢さんという感じだけれど…と、ガーネットは思う。
しかしフォードはまた少し微笑んだだけで、少しも苦笑したり、バカにしたりはしなかった。かわりにエーコの視線まで自分の視線を下げ、恭しくその手を取る。そして、まるで妙齢の令嬢にそうするように頭を下げた。
…それは完璧な宮廷式の礼だった。
「これは重ね重ね失礼を。お許し下さい、レディ。そして更なる失礼を承知で申し上げますが、わたくしには大切な仕事が残っております。この辺りでお暇を頂いても宜しいでしょうか? …そろそろここを立たねば、大事な俳優が逃げていってしまうので」
恐ろしいほどに魅力的な笑みでそう言われ、エーコとガーネットは急に現実に引き戻された観客のような顔をした。
そして顔を上げると、確かにエアキャブはとっくに出発していて、ジタンの姿が跡形もなく消えている。
「い、いつのまに…!」
しゅうしゅう、ともう蒸気の名残しか残っていないホームを凝視して、エーコは言った。
フォードも少し困ったような顔をしていた。しかし一つため息をついただけで、けろっとしている感じだ。
困ったような顔をしていても、本当は困ってなんかいない。彼には代案などいくらでもある…そんな気にさせる表情だった。
そして、彼はおもむろにポケットからチケットを数枚取り出した。
「名残惜しいですが、わたくしはトライバルさんを追わなければ。…先ほどのお詫びと言っては何ですが、これをどうぞ、レディ」
差し出されたチケットを手にして、エーコはしげしげとそれを眺める。
どうやら芝居のチケットのようだった。開演場所はリンドブルム。王宮内に最近建設された舞台だった。日時もちゃんと書いてある。
「(あら、この日付…)」
ガーネットはエーコのチケットを覗き込んで、その日時にふと目を留めた。それは彼女の中で、いくらか特別な意味を持つ日だったからだ。
「あの、このお芝居…」
ガーネットが次に顔を上げたとき、そこにはジタンどころか、フォードの姿も見えなくなっていた。
しゅうしゅう、という蒸気の音が、劇場街ホームに響いていた。
後日、エーコはその日のことを「ああいうのをキツネにつままれたっていうのよね」と語った。
キツネ呼ばわりされたフォード・エイヴォンには悪いが、ガーネットもおおむね同意見だ。それくらい、仮面を付けたあの少年は不思議な人物だった。
しかし、あれが幻でなかった証拠はしっかりと手元に残っている。エーコとガーネットに渡された、数枚のおしばいのチケットだ。
芝居のタイトルは【イル・ドゥ・モルビアンの結婚式】。
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