2011年発行 演劇物
その日も、日差しが心地いい小春日和だった。
外側の大陸の秘境…森の中にある黒魔導士の村にも、そんな日差しの恩恵は降り注いでいる。日当たりのいい場所に置かれたベッドに身を預け、上半身だけを起こしたクジャは、さながら特等席に座っているようなものだ。
療養中、ということで、彼は普段こうやってベッドの上に居ることが多い。それでも、黒魔導士の村に来たばかりの頃よりは、ずいぶんよくなった方だ。
「こんなところまで逃げてきて、ご苦労なことだね」
絹のような銀髪を日差しに透かしながら、クジャはため息混じりにそう言った。
視線の先には、傍らの椅子に身を預け、むくれ顔になっているジタンが居る。
「それだけしつこいんだよ、あのフォードとか言うやつ。…いっぺん追っかけられて見ればわかるさ、うんざりだぜ」
「君が特定の人間をそんなに嫌うのも珍しい。逆に興味がわくよ」
他人事だと思って…とジタンはため息をつく。クジャはくすくすと笑うだけだった。
「あいつ、どっか変っていうか…色々あり得ないっていうかさ。最初は全権委任なんて、口だけで無理だろうって思ってたんだ。けどこれが! 全部こなしちまうんだよなぁ。ちょっと薄気味悪いくらいだ」
ジタンは、フォードが劇団タンタラスの全権を握ってからのことを思い出す。
劇というのは大人数が動いて作るものだけあって、一つの芝居を作り上げるまでには様々な仕事が発生する。
たとえば脚本を書く仕事。用意された脚本の演出を考える仕事。考えた演出を実現する仕事。もちろん、芝居を演じる役者の仕事に、舞台を裏から支える裏方、小道具、大道具、音響…数えてみると、両手の指ではとても足りない。
たいていの劇団は、脚本や演出の仕事を除けば一つの仕事を二、三人が担当して回している。タンタラスもまたしかりだ。
しかしフォードは、脚本はもちろん、演出や舞台装置の提案・作成、配役の決定に演技指導、芝居に使う音楽の作曲に、音響の指導など、ほとんど全てに関わってこなしている。
一体いつ寝てるんだ、と思っているのはジタンだけではないはずだ。
「それに、何がなんでもオレを主役にしたいみたいで…すごい執念だぜ。不思議なことに、オレ以外誰も文句言わないしさ。一体どんな風に丸め込まれてんだか」
先日のリンドブルムでのことを話して聞かせると、クジャは可笑しそうに笑った。
「なるほど。実力には文句の付けようがなく、数日かそこらでタンタラスを掌握できるだけのカリスマ性もある、と」
ついでに、君をこれだけ困らせる実績もある。とんでもないね、とクジャは端的に感想を述べた。
「要するに、君は君の居場所に、無遠慮に踏み込まれたのが気に入らないわけだ」
相変わらずの自信たっぷりな物言いで、クジャはジタンの瞳を見据える。
ジタンは言葉に詰まった。その指摘は、そんなんじゃない、と突っぱねるには少々的確過ぎる。
「……そうなのかな、オレ。そんなに心狭かったかな」
椅子の背もたれにもたれかかり、うつむくジタン。クジャはその反応を見て意外そうに目を丸くしてから、やがて苦笑してみせた。
「それを『自分の心が狭い』と評する辺りが、君が君たる所以(ゆえん)だねえ」
なぜ笑われているのかよく分からず、ジタンが不思議そうに眉をひそめる。しかし、クジャはそれ以上答える気はないらしく、ついと視線を逸らした。
そして、クジャはベッドの上に置かれた紙束を持ち上げた。
「それで、これがその台本か」
表紙に大きく『イル・ドゥ・モルビアンの結婚式』と書かれたその束は、クジャの言うとおり、くだんのお芝居の台本だった。ジタンのものとして渡されたのだが、まだ稽古に使ったことはない。
クジャは台本をぱらぱらめくりながら、流し読みしていく。
「フフ、なるほどね…確かに劇作家としての腕前は、かのエイヴォン卿並というわけだ」
流し読みでも分かるらしい。ジタンは少し面白くなくて、ぶすっとした表情でその様子を眺める。
こういう好評価はタンタラスでも他でも飽きるほど聞いていたので、「またか」という感じもする。
しかし、滅多に他人を褒めないクジャにまで言われると、やっぱり面白くない。
クジャはそんなジタンに気づいているのかいないのか、台本を閉じて顔を上げた。
「世界というのは不思議なものだね…時々、悪魔と天使が手を組んだみたいに、とんでもない人間が生まれることもある」
いわゆる『天才』というものさ、とクジャは言った。
「例を挙げるとすれば、エイヴォン卿…もちろん、これは大昔の劇作家の方だけどね…あるいは僕とか」
「自分で言うな」
ジタンがジト目でつっこみを入れると、クジャは意にも介さずくすくす笑った。
食えないやつだ。というか、食われる気もないのだろう。敵同士だった頃からそう言うタイプだったけれど、改心した(とジタンは思っている)今でも、その性質は変わっていないらしい。
「まあ、そう言う人間はまた大変だよ。どんなに愛想良く招待状を送っても、嫉妬も一緒に招待することになる」
彼らは歯牙(しが)にもかけてくれないのにね、と続けてから、クジャはふいに黙り込んだ。心なしか、表情も曇っているような気がする。
嫉妬も一緒に招待することになる。
ジタンはその言葉の意味がよく分からないながらも、何か嫌なものを感じて聞き返した。
「…どういう意味?」
「わからないか。でも、君にも全く無関係な話というわけじゃなかったはずだけどね…」
クジャはゆっくりとジタンの方を振り返りながら、苦笑した。
…苦笑といえどクジャは笑っているはずなのに、笑っていないような気がした。まるで古傷に気づかず触れてしまって、鈍い痛みを感じているような表情。
「…たとえば」
少し沈黙したあと、クジャはその青い目を伏せて、続けた。
「僕はずっと君に嫉妬していた。僕よりも強い力と才能を持つ君にね。…でも、君はそれを自覚していたかい?」
どきりとした。まるで、氷で出来た手のひらで、直接心に触れられたような感覚だ。
「僕は嫉妬のあまり、君の成すこと全てが気に入らなかったし、君の成そうとすることを全て潰してやりたいと思っていた。君のやっていることが正しいのか、間違っているのかなんて問題じゃない。ただ、君の全てを否定したかった」
ぽつりぽつりと話すクジャの表情を見つめながら、ジタンは思う。
…かつてクジャがジタンに執着し、そのトランスの力を越えたがっていたことを、ジタンは知っている。その凄絶(せいぜつ)な意志の強さを思い出すと、今でも背筋が伸びるほどだ。
しかし、そのことを自覚していたかと言われれば、少し違う。
もちろん、幼い頃の記憶を失っているジタンが、クジャの嫉妬心やその理由について知ったのはずいぶん後…テラを訪れた時のことだ。自覚しようもないと言われればそれも正しい。
しかし仮にだ。もっと早くに記憶を取り戻していたとして…ジタンは、クジャの嫉妬心に理解を示せたのだろうか?
ジタンにとっては、トランスの力も、クジャが羨むジェノムとしての才能も、あまり重要なものではなかった。手の届く範囲の守るべきもの…仲間や周りの人たちを守るために必要なだけあれば、それで十分だった。それ以上の力は、正直もてあましてしまう。
全てを手に入れたいと願ったクジャとは、価値観が根本的にかみ合わないのだ。
クジャが羨むものの価値を、理解しようとすることは出来る。しかし、完全に理解することは、ジタンには出来ない。
…嫉妬を知らずに招待する。歯牙にもかけてもらえない、というのは、つまりはそういうこと。
「天才は普通の人間にとって『天災』なのさ。自分が成し遂げたいことを軽々と成し遂げてしまう。努力して努力して手に入れた力を、最初から当たり前のように持っている。振りかざす。…本当に奇跡みたいな確率だけれど、居るんだよ、そういうテンサイはね」
求められることもあるだろう。しかし、過ぎた天才たちは、そういう理由で疎まれることもある。疎まれる場所が、日陰か日向かはわからないが。
「そうやって、天才は孤独になっていく。彼らは総じて理解されにくく、そして、不幸なことに独りでも…ある程度は、生きていける」
独りでも生きていける、と断言しなくなったのは、彼なりに紆余曲折あったからだろうか。
クジャはゆっくりと顔をジタンの方へ向けて、言った。
「そしていつか、忽然と世界から消える」
その言葉に重みは無かった。しかし、軽くもなかった。クジャの表情にも声にも色はなく、それはただ淡々と、事実であると言う意味だけを帯びていた。
「消える…って、そんな」
ジタンは自分でも無意識に呟いた。
誰にも理解できず、誰にも理解されず、独りになっていく「テンサイ」たち。それは誰のことなのだろうか。
かつてのジタンか。かつてのクジャか。…それとも今の「彼」か。
「そんな顔をするくらいなら、ちゃんと彼と話をしてくればいいのに」
言われて、ハッとなった。気が付くと、クジャはおかしそうに微笑を浮かべ、ジタンを見つめていた。
「わからないなら尋ねればいいだけのことさ。なぜ彼が君を主役にしたいのか? そんなことも思い至らないなんて、君も案外ぬけてるんだね」
言われて、ジタンは思いっきりばつの悪そうな顔をした。
返す言葉もない。思い至らなかったのは事実だった。訳が分からないままにフォードがタンタラスに入り込んできて、訳が分からないまま追いかけ回される毎日だったからだ。
「ちゃんと話を聞くのも必要ってか」
ジタンはやれやれ、と言うように椅子から立ち上がる。
長いこと座っていたせいか、身体がだるい。猫のように大きく伸びをしてから、ジタンはくるりときびすを返し、クジャの部屋のドアに手をかけた。
短く挨拶でもしてから外に出ようかと思ったそのとき、クジャが言った。
「そうそう、それともう一つ」
まるで、手のかかる弟に忠告するように。大人びた口調で言うクジャに、ジタンはうるさそうに肩ごしに振り返る。
「なんだよ」
「君の怒りと戸惑いはもっともだ。だから、君は君の感情を恥じることはないよ。…いくら、テンサイたちが不幸な人種だと言っても、そこを譲る必要はない」
一瞬何を言われたのかわからず、ジタンは振り返った体制のまま固まるしかなかった。
クジャもそのことが分かったのだろう。さらに言葉を重ねる。
「誰だって、自分の“かえるところ”に知らない奴が紛れ込んだら戸惑うし、それが不作法者なら追い返したくもなる。…今回の件に関しては、君の心が狭いんじゃないよ。そのフォードとかいう『天才(テンサイ)馬鹿(バカ)』が、あまりに空気が読めないだけさ」
…一番初めの話の、続きだ。そのときジタンはようやくそれに気づいて、にやりと笑った。
「何、慰めてくれてんの?」
「さあどうだか。とにかく答えは出たみたいだし、そろそろ読書の邪魔だから、また今度」
クジャはジタンの方を見もせずに、手のひらを「しっしっ」とでも言いたげにひらひらさせた。
ジタンは相変わらず素直ではない兄を横目に見ながら、小さくため息をついてドアを閉めたのだった。
*
…ジタンの足音が遠ざかってしまうと、クジャはおもむろにドアの方を一瞥し、少し身体を動かして、傍らにあるチェストの引き出しを開けた。
木製のそのチェストの中には、上品な封筒が入っている。そしてその封筒の中には、お芝居のチケットが入れられていた。
タイトルは『イル・ドゥ・モルビアンの結婚式』。
クジャはその薄っぺらいチケットを陽にかざし、微笑んだ。
「『この世は舞台。男も女もみな役者』、か…」
さて、この芝居の主人公は誰になるのだろう? そしてヒロインは誰になるのだろう?
…この世という舞台で繰り広げられる芝居も、なかなかに面白い。
死ぬのが未だ惜しいくらいには。