…芝居はここで、二度目の転機を迎える。
『マリー』たちが帰国した日から数日後、マキシミリアンはなかなか寝付けなかった。窓辺に座って月を眺めていると、不意に窓を叩く手が彼を呼び止める。
それはあの日、島を出ていったはずの『マリー』だった。彼女は、今度はモルビアン上の小間使いに変装して残っていたのだ。
二人は再び巡り会い、あの日の嘘を互いに許し合った。
しかし、マキシミリアンは『マリー』と結婚しようとはしない。銀鉱から銀が出なくなった以上、彼女の両親…トゥルアの公爵達が結婚を許すはずはないのだ。
『マリー』はしかし、迷いのない表情で首を横に振る。
「わたくしは、あなたと手を取り合いたいのです。あなたでなければ、全ての意味が失われるのよ、マキシミリアン」
切実なマリー姫の言葉に、マキシミリアン(ジタン)はしかし、迷う。
「…あなたはそれでいいのか。オレはただの貧乏な男に過ぎない。一国の王女であるあなたとは、到底釣り合うことはない…たとえ、どんなにあなたを想っていたとしても」
ジタンはこのセリフを言うとき、いつも心の底で小さい痛みを感じていた。練習の時もそうだったし、通し稽古のときもそうだった。
ついつい、自分の感情がこもってしまう。観客を切なくさせるための言葉が、ジタン自身の心を締めつける。
…一国の王女であるあなたとは、到底釣り合うことはない。たとえ、どんなに想っていたとしても。
これは芝居だ。だから、現実ではどうとでもなるのかも知れない。ジタンだってそんな身分の差をひっくり返したいと思っている。それでも、そのセリフは浅く、ごくごく浅くではあっても、ジタンの心に痛みをもたらすのだった。
台本では、『マリー』がこのあと優しくマキシミリアンの手を握り、「自分を犠牲にしても家族と島を守ろうとしたあなたは、何に気後れすることはない立派な伯爵です」と励ます。
しかし目の前の『マリー』は、逆にジタンから一歩離れ、綺麗な笑みを作ってこう言った。
「いいえ、そんなことはもう関係ないわ。わたくしがたとえ一国の王であろうと、そしてあなたが何者であろうと、わたくしがあなたを愛していることに変わりはないのだから」
ジタンの全てを包み込もうとするかのように、『マリー』はその両手を大きく広げる。
「わたくしたちの心がそうと決めたのなら、後にはもう何も、心配することなどないわ。あなたの身分について何か言う者がいるのなら、わたくしがあなたを守ります」
わたしがあなたを守る――そう言ったその声には、やはり覚えがあり、その言葉には既視感があった。
台本にない展開に戸惑うジタンを横目に、『マリー』はもう一度口元で微笑んで見せた。そうして、広げた両手をゆっくりと頭に被ったフードに掛ける。
その指先が、ゆっくりとフードを取り去っていく。月明かりに晒されたのは、濡れたような艶やかな黒髪と、見慣れた美しい笑顔。
ガーネット・ティル・アレクサンドロス八世、その人だった。
「だから、どうかわたくしの手を取ってください、ジタン」
フードを取った彼女が、今度は満面に優しい微笑みを浮かべ、その細い手を差し出す。
ジタンは一瞬何が起こったのか分からずに、立ちつくした。
…声に聞き覚えがあるとは思った。彼女の声に、酷く似ているとも思った。でも、ガーネットがこんなところで、自分の相手役を務めているなんて誰が思うだろう。
だって彼女は、いくらジタンと親しくても、責任ある一国の女王なのに。
「な、なんで、ガーネットが…」
もう芝居のことなんて一つも頭に入ってこなかった。自分でも間抜けな構図だとは思うが、やっと口から出てきたのは、そんなありきたりな問いかけだけだ。
対するガーネットはとても落ち着いた様子で言う。
「フォード・エイヴォン卿のお誘いをお受けしたの。チケットを頂いた日の夜、お城に会いに来て下さったのよ。突然ヒロインを演らないかと言われて驚いたけど、ジタンと一緒だって聞いて、どうしてもやりたくて」
だって「あの時」以来だものね、とガーネットはとても嬉しそうに付け足した。
あの時、というのは思い出すまでもない。【君の小鳥になりたい】…ジタンとガーネットが初めて出会った時の、あの芝居のことだった。
ガーネットはまだ驚いた顔のままのジタンを見つめ、悪戯っぽく笑いながら、上目遣いにジタンを見上げた。
「…それに、今日は特別な日だもの」
「え?」
また間の抜けた声を上げて、特別な日? とジタンは反芻した。
…少し考えたが、思い当たる節はない。もちろん、ガーネットの誕生日ではない。何かの記念日…だっただろうか?
するとガーネットは驚いたような顔をした。
「忘れてるの? でも、きっとあなた以外はみんな知っているわ。…そのつもりで、みんな集まったはずよ」
謎掛けのような、ヒントのような、意味深な言葉に、ジタンは再び首を傾げる。やはり思いつくものはない。
しょうがない人ね、と、ガーネットは苦笑する。思いつかない、そんなところもまた、彼らしいところなのかも知れないが。
ガーネットはジタンの返事を待たず、その手を自分から握りしめた。
「誕生日おめでとう、ジタン。これからも私と、ずっと一緒にいてね」
ガーネットの言葉が、すうっと胸に染みこんでいく。握りしめられている手が、ほんのりと温かい。
ジタンは暫く茫然として黙り込んでいた。そして苦笑のような、泣き出しそうな表情を浮かべたあとに、たまらずにガーネットを抱き締める。
ガーネットは一瞬驚いたように目を見開いたものの、ジタンがそっと、彼女の耳元で囁いた言葉にふわりと微笑む。
その言葉はとても小さく、舞台の下までは届かない。けれどそれでいいのだ。ガーネットのために囁く言葉なのだから。
ガーネットは小さく頷いてから、ジタンを抱き締め返した。
途端、盛大な拍手が辺りを満たす。
客席の誰もが立ち上がり、舞台袖に引っ込んでいた団員達までが姿を現し、ジタンとガーネットを歓声が取り囲む。
その歓声は、長く長く、いつまでも続くかのように、宵闇に響いていた。