2011年発行 演劇物
…くたくたになった台本を手に、フォード・エイヴォンと名乗っていた少年は、おもむろにその仮面を外す。
銀の前髪がふわりと瞼の上に落ちて、フォードは顔を上げた。
この仮面を自室以外で外すのは久々だった。彼の容姿はそれこそ信じられないほどに美しいが、むやみに晒すと面倒だと言うこともわかっている。
しかし、このすばらしいフィナーレを仮面越しに見るなんて、あまりに勿体ないと思ったのだ。
【イル・ドゥ・モルビアンの結婚式】は喜劇だから、フィナーレでは人々が笑顔になる。しかし、こんな見事なフィナーレは彼も見たことが無かった。
「とても、素晴らしい芝居でした。…彼らも、きっと喜んでくれているだろうな」
そっと呟いたフォードの言葉は、舞台を覆う歓声に掻き消されて聞こえない。
照れたように笑いながら、ガーネットや仲間達に囲まれているジタン。その姿を見つめながら、フォードは幸せそうに…そして、どこか羨ましそうに目を細める。
「晴れて大団円、というところだね。気は済んだかい?」
そのとき、舞台袖のさらに奥…フォードのちょうど真後ろから、不意に声が投げられた。
フォードは驚いた様子もなく、素顔のままで振り返る。
「はい。ご協力ありがとうございます、クジャさん」
素顔で微笑んだフォードの視界には、銀髪の青年が佇んでいた。
クジャはくすりと小さく笑って、フォードと同じ見事な銀髪を揺らし、フォードの隣に立つ。
「協力というほどのことはしていないよ。少しジタンを焚きつけただけさ」
「充分過ぎるほどです。女王陛下への謁見も、手はずを整えていただけて助かりました」
全てを見通していそうな瞳をクジャに向け、フォードは微笑む。クジャは応えず、視線をまだ騒がしい舞台の方へと移した。
人々の歓声はまだ続いているが、そろそろアンコールも限界だ。
舞台は始まった以上、いつか終わる。どんなに惜しまれていてもだ。
「もうじき終わるね。…もう行くんだろう?」
フォードはクジャの問いかけに、眉根を寄せて頷く。
「はい。行こうと思います。あまり同じ所に留まるのも良くないでしょう」
「…ジタンには、何も告げずに行くつもりかい?」
フォードが去ることなど知らず、舞台の上で笑うジタンを見て、クジャは言う。
フォードは自分の右手にある仮面を見下ろし、力無く首を横に振った。
「この芝居を彼に演じて貰っただけでも、十分彼に甘えてしまったと思います。これ以上、彼に甘えるわけにはいきません。もしも僕がジタンさんに事情を話せば、彼は僕のために手をさしのべてくれるでしょう。でもそれは、僕には過ぎた幸せだと思います」
大丈夫です、と、フォードは顔を上げてクジャに笑いかけた。
…病人のクジャからしても全く「大丈夫」そうには見えない。だが、意地でも大丈夫と言い張る意志の強さだけは伺えた。
「ジタンさん達のお陰で、忘れかけていた友人達のことをちゃんと思い出せました。…もう、迷わずに帰れると思います」
僕のいつかかえるところへ。
それだけ言うと、彼は右手の仮面をそっと自らの顔に戻した。美しい彼の素顔はまた仮面の下に隠れ、口元だけが上品な笑みを作っている。
銀髪の劇作家は銀髪の死神に背を向けて、舞台袖の向こうへと歩き出した。
さようなら。
背中越しに最後に告げられたのは、別れの言葉一つだけだった。
*
…こうして、【イル・ドゥ・モルビアンの結婚式】の特別リハーサルは大盛況に終わった。
芝居は評判になり、評判はまた別の評判を呼んだ。フォードは約束通り、タンタラスに金の雨を降らせて見せたのだ。
…そして数ヶ月後。喜劇の結末をなぞるように、アレクサンドリア女王には最愛の伴侶が出来ることになるのだが、それはまた別のお話。