自宅主人公・日暮白夜。日暮白夜本編軸。
鍵介×主人公。
現実での記憶がないことを告白する白夜の話。
* * * * *
聞いてしまったのは完全に偶然と言うか、事故だった。
「……覚えてない」
何効果というんだっけ。周りに雑音が多いと、逆に特定の人物の声がクリアに聞こえるというやつだ。そのせいなのか、それとも単に自分にとって――響鍵介という人間にとって――彼が気になる存在だったからなのかはわからない。
しかしとにかく、鍵介はそれを聞いてしまった。
「覚えてないって、自分のこと?」
彼にそう尋ねたのは、彼の近くにふわふわと浮いている妖精のような少女……アリアだ。
彼は小さく頷いて、肯定して見せる。
「なんでメビウスに来たのかとか、なんで帰りたいのかとか」
「でも、最初の時、けっこう色々答えてくれてたじゃない?」
「あれは、なんとなく」
無意識の言葉って、案外真実だったりするらしいし。彼はあっさりと、そしてどこか困ったようにそう言った。
アリアが心配そうな顔をしたからだろうか。彼はすぐさまにっこりと笑顔を作って見せる。
「大丈夫だよ」
大丈夫だよ。それは、彼の、帰宅部部長・日暮白夜の、口癖だった。
「アリアが言っただろう。カタルシスエフェクトを使える以上、現実への強い執着があるはずだって。それならすぐに思い出せるよ、きっと」
何か言いたそうなアリアをさえぎるように、彼は立ち上がる。
部長が「大丈夫」という時は、話が終わる時だ。特に自分の話の時は。
彼らの話はその日、そこで終わった。その日、最後まで自分は傍観者だった。
***
「先輩、珍しいですね、こんなところに一人で」
声をかけると、彼はいつも通り表情の乏しい顔をこちらに向けた。
「鍵介」
「どうも。何をしてるんです? ぼうっとしてますけど」
短く会釈して隣に並ぶ。街が一望できる高台だ。白夜はそこでぼんやりと、夕日に染まる街を見下ろしていた。
「夕日と街を見てた」
捻りも愛想も、そして拒絶や嫌悪もない、無色透明な声で白夜は言った。
鍵介は両手を軽く上げて、「降参」とでも言いたげな仕草をしてから苦笑する。どうやら鍵介の方が質問の仕方を間違えたらしい。
日暮白夜という人間はいつもこうで、なんというか、受け答えも行動も直線的なのだ。最初はからかっているのかとムッとなったこともあったが、本気でそういう性格なのだとすぐに理解した。そして、結果自分の接し方を柔軟にすることにしたのだ。
「すみません、質問を変えます。何を考えていましたか」
「………………」
今度の質問は正解だったらしい。白夜は少しだけ考え込むような仕草をして見せた。
「自分のことを」
考えてた、と、小さく続けた。
今度は鍵介の方が黙り込む。彼が考える「自分のこと」と言えば、数日前にうっかり聞いてしまったあのことだろうか。
『なんでメビウスに来たのかとか、なんで帰りたいのかとか』
「……覚えてないってやつですか」
思わず零したその言葉に、白夜が驚いた顔をして鍵介を見た。
「知ってたのか」
「すみません、この間、アリアと話していたのを偶然」
愛想笑いと一緒に謝罪する。白夜は怒った様子もなく、ただ驚いただけのようだった。
そして、次はじっと鍵介を見つめる。
……いうまでもないが、他人にじっと見つめられるというのはあまり居心地のいいものではない。
「顔に何かついてます?」
「いや、そうじゃない。今、鍵介と初めて会った時のことを思い出したから」
「次は僕のことですか」
仕草や口調はゆっくりなのに、思考は忙しい人だ。
「初めて鍵介が帰宅部に来るって言ったとき、俺に現実に帰りたいかって聞いただろう」
「そうでしたっけね」
あの時は敗北感とか喪失感とかの方が大きくて、そういえばそんな話もしたか、という程度だった。
「あの時気付いたんだ。そういえば俺はなんで帰りたいんだろうって。だから、正直迷ってるって答えた」
「そこで!? 気付くの遅いですよ!」
思わず突っ込むと、白夜は表情を変えず、「そうかもしれない」とだけ答えた。
そしてもう一度、真っ赤に染まる街並みを見下ろして続ける。
「もし、このまま何も思い出せずに現実に帰ったとしたら……俺は、俺の現実を見た時、たぶん全部思い出すんだろう」
かりそめの世界へ逃げ出したいほどの現実――地獄、と誰かが表現する世界。
「その時俺はどうするんだろうと思って。今は忘れているから、帰りたいなんて思っているけど。思い出したら、またここへ戻りたいって思うんじゃないか」
全てが叶う世界をあえて捨て、現実の世界へと戻ろうとする帰宅部。そこに所属する人間の思惑はそれぞれだが、皆、自分の現実を認識した上で「帰りたい」と願っているのは同じだ。
ただ一人、白夜を除いては。
「みんなで現実へ戻ったとして――もしかしたら、俺だけは」
一人で、ここへ戻ってきてしまうのかも知れない。
そしてたった一人、この世界でまたすべてを忘れるのかも知れない。
赤く赤く、そして暗くなる空の色に染まりながら、しばらく二人でそこにいた。そして唐突に、白夜が口を開く。
「……ごめん、俺はだいじょ」
「馬鹿馬鹿しいですね」
言いかけたその言葉を、鍵介が止めた。
どうしてだろう、今は彼に「大丈夫」と言ってほしくなかった。
「そんなの、誰かが見張っていればいいだけの話です。例えば僕とか。僕が先輩が現実に帰るのを見届けて、戻ってこないか確認してから帰ります。それで万事解決します。違いますか?」
だから、自分が何を言っているのかはよく認識しないまま、しゃべり続けた。表情に乏しい彼には珍しく、ぽかんとして白夜が鍵介を見つめていたことも、思い出したのはずっと後になったくらいに夢中だった。
「そうですね、仮にですよ。先輩が現実に尻尾を巻いて帰ってきたとします。そしたら思いっきり笑ってあげますよ」
なんだ、先輩も案外弱虫なんですね。現実に帰りたくなかったんですね。
そして鍵介はほっとしながら、そう、あの日のように笑うだろう。
『なんだ、僕と一緒ですね』
「きっと先輩は笑われたら嫌でしょうけど。でも少なくとも一人ではないでしょう」
どうですか、と念押しのように言った。
しばらく白夜はぽかんとしたまま、しかし、ふっと表情を崩す。
「うん。それなら、大丈夫」
……ああ、そう、その大丈夫なら聞いてあげてもいい。