自宅主人公・神谷奏太。主人公×鍵介。
オーヴァードとしての衝動がわいてきてしまう奏太の話。
* * * * *
オスティナートの楽士・ウィキッドを名乗る人物に、部室に閉じ込められ、丸三日が経とうとしていた。
帰宅部のメンバーたちは目に見えて憔悴し、放っておいたら仲違いを始めてしまう。部長としてそれを諫めながら、神谷奏太は少し焦りを感じていた。
そもそも、閉じ込められた、と知ったその時から、奏太は薄々「まずいかも」とは思っていたのだ。
人間というのは極限状態になると理性を失いやすく、普段は穏やかな人でも攻撃的になる。それはもう生理現象というか、生きている人間である限りしょうがないことだ。だから、帰宅部のメンバーが冷静さを失うことは、予想の範囲内だった。
それよりも問題なのは、奏太自身のことだ。
……メビウスにやってきてから、すっかり鳴りを潜めたその「異常な性質」のことは、それまであまり考えなかった。
堕ちた人間の「理想」が顕現するこの世界では、奏太は「普通の人間」だったからだ。
普通の人間と同じに戻りたい。普通に、人々と関わりたい。そう願う奏太の心をμが読み取り、実現したのだろうということは想像に難くなかった。
いけないとは思いながらも、奏太はそのことに感謝し、とてもほっとしていた。
とあるウィルスが原因で得た「異常な性質」のお陰で、過度に発達してしまった視覚や聴覚と言った五感は、「普通に」過ごすにはひどく邪魔だ。
見たくない、見るべきではないものが見え、聞きたくない音まで聞こえる。何せ、少し集中すれば空気中の塵さえ止まって見えるのだ。現実で外食に興じた時など、うっかり集中して運ばれてきた食事を見たら、一瞬で食欲が失せた。
同様の理由で、バスや電車などの公共機関を使用するのも避けるようになった。お陰で、自立して真っ先にやったことが、運転免許の取得だった。
身体能力の制御も一苦労だった。瞬発力と脚力が異常なレベルで向上してしまい、体育の時間に徒競走であり得ないタイムを叩き出してしまったこともある。その時受けたのは称賛ではなく、「気持ちが悪い」という罵倒だった。
全て、もう何年も前の――奏太がこの「異常な性質」を制御することに慣れる前の――若く苦い記憶だったが。それでもそれは未だに、心の深いところに傷として残っているのだと思う。
それでも、いつかはその傷が待つ現実へ、あの日常と非日常へ帰らなければならないことは、分かっている。それが、望まなかったにしろ、力を持ってしまった自分の責任だ。
しかし、いつだったかアリアが言ったように「遊園地のように」……今だけは、憧れ焦がれた「普通の学生生活」を「普通の友達」と楽しみ、過ごしておきたかった。
なのに。
今、奏太の心の奥底で、ずっと鳴りを潜めていた「それ」が、身じろぎするような感覚がしていた。
過度な視覚や聴覚、身体能力。それら「異常な性質」にくっついて、もう一つ奏太についてきたもの。それがこの、今、じわり、じわりと湧き上がってくる「衝動」だった。
「(ダメだ、出てくるな)」
繰り返し、止まることなく流れる破壊を賛美する歌を聞いて、頭が割れそうだった。
それでも意識して深呼吸して、その衝動から目を逸らす。あるいはいなす。帰るべき日常を思い出し、引きずられないように精神を保つ。訓練生時代に何度も何度も、血を吐いても繰り返し教え込まれた基本を思い出す。
そちらに意識を割きすぎて、いささか周りの状況が見え辛い。
かろうじて、目の前には、一人の少女が立っているのが見えた。
「一人で勝――と思――――?」
何か自分に向かって言っている。しかし、理解が追いつかない。いつもは鋭敏な聴覚も視覚も今は放り出し、全ての意識をこの「衝動」の抑制に充てているからだ。
「逃げろ」
少女に警告する。しかし、少女はその言葉には従わない。それどころか、楽しそうに笑いさえして、こちらに向かってくる。
ああダメだ。だめだ。このままでは彼女を壊してしまう。例え彼女が敵なのだとしても、一般人を傷つけるわけにはいかない。
……いいじゃないか、と。その時自分の中で声がした。
警告はした。抑えるよう努力もした。でも向こうが承知でやってくるんだ。それならしょうがない。
しょうがない。仕方がない。自業自得。相手は敵で。やられなければやられるのだから。だから。だからだからだから。
「(壊せ)」
壊せ。
自らの内側から響いた声と、頭の中の自分の声が重なる。抑え込んでいた破壊の衝動は一気に決壊し、心の中を真っ黒に塗りつぶした。
「……………?」
目の前の少女が、一瞬、怪訝そうに眉をひそめた。奏太の呼吸が、嘘のように静かになったからだ。
心の内側で荒れ狂う衝動とは真逆に、奏太の表情も呼吸も、とても穏やかだった。
だって、このチャンスを逃すわけにはいかない。きっちりと壊さなければ。ずっと出来なかったのだから。やっと思いっきり壊せるのだから。
***
「おい、おい! 聞こえてるか!」
はっ、と。意識は一気に覚醒した。
真夏の熱がどっと部屋に流れ込むように、現実感が押し寄せる。顔を上げると、そこには自分の肩を揺さぶる笙悟の姿が見えた。
「笙悟?」
呆然として名前を呼ぶと、笙悟は少しほっとしたように表情を緩めた。しかし、すぐに眉根を寄せてため息をつく。
「あの、先輩……大丈夫ですか? ずっと呼びかけても反応が無くて……心配しました」
「お腹空きすぎて、意識飛んじゃったんじゃないかって思いましたよ」
続いて、鈴奈と美笛が心配そうに顔を覗き込んできた。奏太はそれを認識して、大きく深呼吸する。
「おい、本当に大丈夫かよ」
鼓太郎も、さすがに真面目な顔でそう尋ねる。奏太は首を小さく横に振った。
「あ、いや……大丈夫。少し、ぼうっとして……美笛の言う通りだ、お腹、すきすぎたのかも」
はは、と小さく笑って立ち上がる。
……思わず、部室の廊下を見た。そこには、何の痕跡も残っていない。
カタルシスエフェクトで生まれた武器は、衝撃や痛みは与えても傷は与えない。それは人間にも、周りの無機物にも。
だからどんなに激しく争ったとしても――破壊の跡は残らない。けれど奏太は覚えていた。いや、「思い出した」。
先ほどまで、奏太はウィキッドと名乗る少女と戦っていたのだ。睡眠薬で眠らされ、無防備な仲間を守るために一人で。しかし、圧倒的に。
「(違う、そうじゃない)」
守るために? そんなはずはない。さっきの奏太は違う。さっきは確かに、彼女を壊すために戦っていたのだ。
けれど、カタルシスエフェクトでいくら彼女を屠っても彼女の身体は壊れず、それに苛立って、そして――彼女を逃がした。
異常な身体能力と、唐突な破壊衝動の暴走。それが、神谷奏太が抱える問題なのだ。
「鳴子を助けに行くんだよね。……ごめん、少しだけ、休んできていいかな」
思い出すと、またふつふつと心の奥から黒い衝動が沸き上がってこようとする。一度落ち着かないと、また同じことになりそうだ。
「それはいいけど……」
琴乃が何か言いたげに奏太を見つめる。が、微笑んでその先を言わせないことしか出来なかった。
「……部長、」
最後に入口際に立っていた維弦の言葉を黙殺し、奏太はその隣をすり抜けた。
それ以上は、他の仲間の言葉も聞かず、部室を出る。正直、この衝動がいつ爆発するか、奏太自身にも分からないのだ。
「(どうして、今までこんなことなかったのに)」
旧校舎、本校舎を出て人通りの少ない場所を目指しながら、奏太は考えていた。
「普通の人間」を望んだ奏太のその願い通りのものを、μは与えてくれた。適度に鈍感な身体と感覚。現実世界であれほど警戒していた、ウィルスが囁く破壊衝動も、メビウスでは一度も無かった。
アリア曰く、メビウスにあるのは本人の肉体ではなく、魂なのだという。なるほど、ウィルスは身体に感染しているのだから、魂だけになった自分にはその影響はないのか、とその時は納得していたのだが。
よくよく考えれば、そんなに甘い話でもないのかも知れない。
組織の医療班からは、二重人格のように心に潜むパターンの症例も報告されている。このウィルスがアリアの言う「魂」に影響しない保証など、どこにもなかった。今まで鳴りを潜めていた理由は、メビウスという環境にウィルスが不慣れだったとか、いくらでも考えられる。
魂だけだから大丈夫、という保証がないのと同じくらい、魂だけでも影響はあるかも知れない、という可能性はあった。それから目を背けていた自分が甘かったのだ。
「(でも、今更帰宅部を辞めるわけにもいかないし……みんなを現実に返さないと。鳴子のことも助けなきゃいけない)」
ようやく誰もいない細い路地までやってきて、奏太は大きく息を吐いた。コンクリートの壁に背中を預け、そのままずりずりと引きずって、地面に座り込む。身体は鉛のように重かった。戦闘後の疲れではない。今も暴れまわる衝動を抑え込むために感じる疲労感のせいだ。
それでも心を落ち着けながら、これからのことをゆっくり考える。
とりあえず、今は鳴子を助けることだけ考えて。なんとか今日を乗り切って。そうしたら、今からでも毎日、衝動の制御を意識する。悲しいけど、みんなとは今まで以上に距離を置こう。危険な場所にはなるべく一人で向かうことにして――
そこまで考えた時、誰かが路地に入ってくるのが見えた。
「先輩?」
その姿を、奏太は絶望と共に見上げた。背中を冷たい汗が伝う。
同じ高校の制服に、白いセーター。男性にしては甘い顔立ちをした後輩が、眼鏡越しにこちらを見下ろしていた。
「何が『大丈夫』なんですか。全然大丈夫そうに見えませんけど」
「……来るな。本当に大丈夫だから。頼む」
どくん、どくんと心臓が脈打っていた。いつもは柔らかく、優し気な口調も今は崩れかけている。
「だから、全然大丈夫そうには見えませんって」
鍵介は呆れたように言う。彼には、奏太が怪我でもして、やせ我慢をしているとでも見えているのだろうか。
それならどんなに良いだろう。それならすぐにからからと笑って、「実はそうなんだ、言い出すの恰好悪くてさ」と言えるのに。
でも違うのだ。もう今、崖っぷちだった。破壊の衝動がせり上がってくるのを止められない。
目の前に、壊せるものがある。それがたまらなく、嬉しい。そんな異常な衝動。
「大丈夫じゃなかったら、何なんだ。例えばそうだとしても、鍵介には関係ない。……鍵介には、何も出来ることはない」
冷たく拒絶する。鍵介は少し不快そうにこちらを睨んだが、構っている余裕はなかった。これで自分のことを軽蔑して、ああそうですかと踵を返してくれればいいとさえ思った。
「先輩、たまにそういうこと言いますよね。今回も、どうせ僕には先輩のことなんてわからない、助けられないって思ってるんでしょう」
ため息混じりの皮肉。鍵介の足は動かない。逃げてくれと言ったのに、これじゃあさっきと同じになってしまう。
見上げる鍵介の身体はとても細く映った。首も、ああ、あんなに細く脆そうで。折ったらどんな音がするのだろう。どんな感触がして、どんな風に壊れるのか。
「……ッ……」
過ぎった想像に血の気が引いた。もう一度強く強く、衝動を抑え込む。
鍵介の手がこちらに伸びてくる。
「先輩、いい加減に」
鍵介がそう言って、奏太の腕を掴んだその瞬間。ひゅ、と、鍵介の耳元で、微かに風が唸った。
僅かな衝撃。え、と呟いた声は声になる前にかき消えて、遠くで「かしゃん」と、小さく何かがぶつかる音がした。
奏太が鍵介の腕を振りほどき、そして同時に、鍵介の掛けていた眼鏡を吹き飛ばした――ように見えた。まるで、風で出来た弾丸が、鍵介の頬を掠めていったように思えた。
「……だから? 僕がそう思っていたとして、それがどうかした? 事実じゃないか。鍵介には、いや、みんなには僕の気持ちなんてわからないだろ?」
ゆらり、と立ち上がった奏太は、笑みさえ浮かべてそう言った。
冷たい汗はすっかりひいて、荒い呼吸は整っていた。視覚も聴覚も驚くほどにクリアで。抑え込んだ衝動は、ぎゅっと抑え込んだ分だけ、激しく破裂した。
「あーあ、なんでこうなっちゃうんだろ。黙って守られてくれてればいいのに。なんでわざわざ怖い思いしに来るかなぁ。鍵介、頭いいなら危ないことに首を突っ込むなよ」
止められなかった。どうして止める必要があるのかももう分からない。心の、自分の内側からあふれ出る、元から自分の一部である衝動に、どうやって抗うというのだろう?
思いながら、両手にカタルシスエフェクトを具現化させる。
さっきと同じだ。逃げろと言ったのに逃げない方が悪い。逃げないのだから、壊してもいいということだ。
止んだはずの破壊を称賛する歌が、もう一度脳裏に反響し翻る。そしてその衝動に任せたまま、奏太は鍵介の頭に向かって引き金を引いた。
頭は本来狙うべき箇所ではない。だが、「絶対に当たる確信があるなら是非とも狙うべき」だ。
今や空気中の塵さえ捉える奏太の動体視力が、これを外すわけがない。完全にウィルスに支配された頭で、そう思い引き金を引き、銃弾は過たず鍵介の頭を、
「怖がってるのは先輩の方じゃないですか」
――捉えることはない。
低く唸るように言い、こちらを睨み付ける鍵介の手には、鍵盤を模した大剣が握られている。そして、鍵介と奏太の間には、淡く光る盾が出現していた。
ああそうか、鍵介のはこういうエフェクトだったっけ。どこか遠いところで思考が動く。
鍵介は盾を霧散させ、大剣を構え直して奏太に向き直った。
「僕らの事情にはあれだけ首を突っ込んでおいて、自分だけダメなんて、ずるいですよ。そんなに僕らに踏み込まれるのが怖いんですか。そんなに先輩の現実は、どうしようもない場所なんですか」
ああ、うるさい。
反射的に思ったのはそれだった。クリアな聴覚が鍵介の言葉を、一言一句聞き逃さずに脳に届けてくる。うるさい。うるさい。
「うるさい。うるさい、わかったような口をきいて! 守られてろよタダの人間は!」
ここから先は、僕の大切で、どうしようもなくて、そして決して救われないものばかりが詰まった場所なんだ。
「見るなよ、見るなッ! なんなんだよお前は! 入ってくるな!」
お願いだから、こちらに来ないでくれ。踏み込んだら、きっとお前は後悔する。見なければ良かったと心から思う。だって僕もそうだったから。
非日常へ足を踏み入れたら、二度と元の世界には戻れない。この衝動や、この力は、お前にも容赦なく牙をむく。
「何も知らないくせに、最後まで受け入れる勇気もないくせに! 全部受け止められないなら、中途半端に優しくするなよ! 最初から入ってくるな!」
わめいて叫んで、そのとき、奏太の頬に違和感があった。伝う暖かな水の感触。鍵介が、少し驚いたように目を見開いた。
その一瞬を逃すわけがない。奏太の足が地面を強く蹴る。踏み切る靴音は驚くほど軽く、しかしその間合いを詰めるスピードは、まさに音速だった。
「なっ」
今度は盾を出現させる暇さえない。鍵介が声を上げたのと、奏太が思いっきり、鍵介の脇腹に蹴りを入れたのは同時だった。
吹き飛ぶ、という表現ぴったりに、鍵介の身体が宙に浮いて投げ出される。当然、そのまま背中を地面に強かにぶつけ、肺から無理に吐き出された空気に咳込んだ。
「ごほっ、ぁ……ッ」
呻いたその時には、すでに腹の上に伸し掛かられ、額に銃口が突きつけられている。押し付けられた銃口は、驚いたことに、冷たくはなかった。人肌の温もり似た温かさがある。
この温もりが、魂の温もりだとでもいうのだろうか。
「ほら、鍵介には何も出来ないじゃないか」
奏太の声は、酷く平坦だった。そしてどこか、寂しげでもある。
どうせ自分は救われないのだと――どうせ、誰にも、受け容れてもらうことは出来ないのだと、泣いている声だ。
面倒くさい人だな、と、そんな場合ではないのに鍵介は少し笑えてきた。ああもう本当に、あなたという人は。
「ほんっとに……手間のかかる人ですね!」
奏太の指先が引き金にかかる、その瞬間、突き付けられた銃口を、思い切って自分の頭上に押し上げる。鍵介の頭に向かって重心を傾けていた奏太が、バランスを崩した。それを逃さず、今度は鍵介が、思いっきり奏太の腹に膝蹴りを見舞う。
「ぐっ……あッ!」
さすがに完全な不意打ちで、奏太が低く呻き、鍵介から注意を逸らす。その瞬間、鍵介は容赦なく奏太を突き飛ばして、その下から這い出した。
「じゃ、改めて。やってみましょうか、先輩」
はあ、と呼吸を整えて、鍵介が奏太に向き直る。奏太が腹を蹴られて咳込んでいるのを見ながら、大剣を一度地面に置いて、スマートフォンを取り出す。
『すぐいく』――鳴子を除く全員から、送られてきたWIREのメッセージを確認して。少しだけ笑った。
奏太がようやく咳込むのを止めて、膝を折ったまま鍵介を睨み付ける。
「試してみましょう。僕らに先輩が救えないかどうか」
背中越しに到着した仲間の足音を聞きながら、鍵介は力強く言い放つ。