自宅主人公・神谷奏太。主人公×鍵介。
奏太がなぜか気に食わない鍵介の話。
* * * * *
たぶん僕はあの人が気に食わないのだ、と思う。
帰宅部部長・神谷奏太。リーダーとしてはとても優秀だ。人当たりもいい。正義感も強いし、何よりこの超個性的なメンバーをまとめられるほどには寛大だ。
でも、どうしても、どこか、気に食わないのだ。
「先輩は何してる人なんですか?」
視界の端で、美笛が部長に絡んでいるのが見えた。部長はにこやかに、そして少しおどけた口調でこう答えた。
「部長?」
「そうじゃなくて! 現実でですよ」
部長なのはみんな知ってるじゃないですか、と、美笛は腰に手を当てて不満そうに胸を逸らす。
どこからそういう話になったのかは知らないが、部長は気にした様子もなく少し考え込んだ。
「しょうがないなあ。秘密だよ。……正義の秘密結社のエージェント」
と、そんなことを答えるものだから、美笛は一瞬目を丸くして、それからからかわれたことに気落ちして、がっくりと項垂れる。
「うわ、適当言われました」
「ひどいな、本当なのに」
そんなのに騙されるほど子供じゃないですよー、と、美笛は不満を可愛らしい顔いっぱいに浮かべていた。
「ごめんごめん。ところで美笛ちゃん、鈴奈ちゃんが呼んでるよ」
「え、ほんとだ!」
短く挨拶をして踵を返す彼女を、小さく手を振って見送る。そして――寂しげに微笑むのだ。諦めたように。
あんな表情をするくせに、彼は今幸せなのだという。僕はそれを信じることが出来ないでいる。
***
「現実で幸せになれる確率って、どれくらいなんでしょうね」
「さあ……きっと高くはないと思う」
なんでそんな話になったのか、それ自体はよく覚えていない。ただ、夜だったことは覚えている。
夜空に星が瞬いていて、どうせなら女の子と一緒に見たかったな、なんて考えていたような気がする。
「僕もそう思いますよ。その点、メビウスだったら100%なんですよね」
温かくも寒くもない、作り物めいた空気の中、見上げた星空は絵画のように美しい。
少しの間流れた沈黙。先輩はきっと、僕の方を見ていた。
「鍵介。こういう考え方を知ってる? ものの価値っていうのは、いわゆる希少価値……つまり、手に入る確率が低ければ低いほど高い価値を持ってるって」
僕の言葉に直接何か言うわけではなく、先輩はそんな話を始めた。繋がっているようで、繋がっている。僕は先輩が言わんとしていることがなんとなくわかり、苦笑した。
「なるほど、現実では幸せになれる確率は非常に低いので、幸せと言うのは現実で得てこそ価値があると言いたいんですね。誰もが幸せになれるメビウスでは、幸せは無価値だって」
先回り出来るだけ先回りして、僕は目いっぱい皮肉気にこう返す。
「そんなのは詭弁ですよ」
……幸せになりたい。そんな綺麗な言葉で飾ったところで、みんな結局は気持ちよくなりたいだけだ。
誰かに称賛されたい。認められたい。自分を誇れるようになりたい。充実感を得たい。
それが手っ取り早く手に入るのなら、誰だってそっちを選ぶ。
かつての僕はそうだった。周りの楽士もそうだったし、きっとメビウスにいるほとんどの生徒たちもそうだ。
「そうやって安易に手に入れた「幸せ」でも、誰も文句なんて言わない。心地いいからそっちへ流れていく。人間なんて……僕らなんてそんな生き物です」
鍵介自身だってそうだ。楽になりたくて、子供で居続けられる場所を求めた。そんな夢を見せ続けてくれるメビウスと言う世界を、一度は守ろうと決めた。
鮮やかに、美しく咲く花のような夢。未来。希望。
この世界にはどんな冬も絶望も無く、夏への扉を探す猫はいない。
誰もに平等に、代わり映えなく、普遍的に訪れる幸福。
先輩はただ、僕の言葉を聞いていた。そして薄く笑う。
「でも、目が覚めた瞬間に、こんなもの無価値だと思わなかった?」
静かに、長々と話した僕とはひどく対照的に、短く言った彼の言葉に――言葉を詰まらせた。
「僕は思ったよ。で、気付かずにその「幸せ」とやらを享受していたころより、今の方がずっと幸せだ」
僕の隣を歩いて、そして振り返る。零れそうな星を背に、先輩は笑う。
「今、こうやって僕と鍵介が話していることが、奇跡みたいに幸せなことだって僕は知ってるから」
「……何を大袈裟な。ただ喋ってるだけじゃないですか、後輩と、先輩が」
呆れ返ってそう言っても、「そうだよ」と、先輩はしょげるどころか、ますます嬉しそうに頷くのだ。
鍵介にとってはそれは幸せじゃないかも知れない。前の方が幸せだったのかも知れない。でも僕には今の方が幸せで、価値がある、と。
「本当は幸せなんて人それぞれなんだよ」
それに、と。先輩は更に続けた。
「現実も案外捨てたものじゃない。現実でも奇跡は起こる。奇跡の確率はゼロじゃない」
……気に食わない。そんな絵空事を恥ずかしげもなく言える彼が。それだけじゃない、気に食わない理由はきっといっぱいあって……結局、僕はどうしてこんなにもこの人にイラつくのか、自分でもわからないままなのだ。
「それも……詭弁です。奇跡は、簡単に起こらないから奇跡なんです」
「それでも、起こることもあるから、奇跡って言葉が存在するんだよ、鍵介」
この言い聞かせるみたいな、自分だけ大人みたいな言い方が、気に食わない。
一人だけ遠く、世界を隔てて見下ろしているみたいな表情に、腹が立つ。イライラする。
人の心には簡単に踏み込んできて、自分だって踏み込ませてしまって、なのに自分には踏み込ませない。
その心を覗いて暴いてやりたくなる。知りたくて、たまらなくなる。
「そんなの、信じられません」
頑なに言い返すのは、きっと反抗心からだ。先輩はそんな反抗心なんて全く気にしていない様子だった。
「僕は、信じるよ」
揺るがない先輩を、負け惜しみのように睨み付ける。子供じみた僕の仕草にも、先輩は全く表情を変えない。
「先輩には奇跡が起こったことがあるみたいな口ぶりですね」
そういうと、やっと少し驚いたような顔をした。
けれど、そんなのは一瞬だ。
「……さあ、どうだろう」
ほら、またそうやって笑うんだ。覗けるものなら覗いてみろって笑うんだ。
「どうせお前には理解できやしないだろう」って。
本当にこの人が、僕は気に食わない。