自宅主人公・日暮白夜。日暮白夜本編軸。
鍵介×主人公。
ゲーム本編開始前、洗脳を繰り返されていたころの話。
* * * * *
その記憶はひどくひび割れていて、不鮮明で、断続的な記憶だ。
体中が痛い。手足に力が入らず、半ば引きずられて、どこかへと運ばれているのは分かる。
……自分はどうしたんだっけ。何か喧嘩というか、厄介ごとに巻き込まれたような気がする。
ぼんやりする頭で周りの状況を見ていた。自分の手足を引きずる生徒たちはひどく統一的で、服装や顔つきはばらばらなのに、とても気味が悪い。
やがてある部屋にたどり着くと、乱暴に椅子に座らされた。ガタン、と、椅子が悲鳴を上げる。そしてその直後、自分の手足を引きずっていた手が一斉に離れた。もう役目を終えたということだろうか。今なら逃げられるだろうが、何故か力は入らないままだった。
やがて、足音が一人分、自分に向かって近づいてくるのが聞こえた。
「あなた、本当に懲りませんね」
呆れたような、そしてうんざりしたような、声。
「…………?」
懲りない、とはどういうことだろう。たぶん、この声の主とは初対面だと思うのだが。そんなニュアンスを込めて顔を上げる。
声の主らしい、目の前に立つ人物は、そんな自分を見て少しだけ肩をすくめたようだった。
「いいですよ、わからなくて」
逆光になっているのか、その表情どころか、顔つきもよくわからなかった。声色から、その人物が男であることくらいは察せたが。
「そんなに思い出したいんですか」
また、目の前の少年が口を開いた。目を細め、顔を顰める。
思い出したいか、だって。そんなの決まってる。……なのに、声は出ない。
「思い出さない方が幸せなのに。馬鹿な人だな」
声がすうっと低くなり、平坦になる。それと同時に、耳元が何かで覆われた。
くぐもった音。世界全てが遠のくような感覚がする。
「これも楽士の仕事ですからね。悪く思わないでください」
少年の声も遠くなる。ほとんど判別できないほどだ。
「――何度も思い出すあなたが悪いんですよ」
声が、酷く遠い。耳元の遠いところから、歌が聞こえる。ループする。何度も何度も、執拗に。
ピアノの優しい音色と、柔らかなメロディと、のびやかな歌声と、透明感。
意識がゆっくりと沈んでいく。音色と歌声にさらわれるように、落ちる。
だめだ、と反射的に思った。しかし、今、抗うほどの力もなく。
「おやすみなさい」
最後に聞いたのは、そんな当たり前の言葉だった。
***
その生徒は、もう何度も何度も、ここへ連れてこられていた。だから鍵介は今日その顔を見た時、「またか」と反射的に思ったほどだ。
濃い黒髪に切れ長の瞳。確か今一年生を「やっている」少年だ。
メビウスに来るのは現実に嫌気がさし、逃避してきた人間ばかりだ。自分自身だってその一人なのだから、それは間違いない。
けれどまれに、この世界と最悪に相性の悪い可哀想な人間も存在する。例えば目の前で項垂れている青年のような。
今の鍵介から見たら後輩にあたるその少年は、たった一年でもう何度もここへ連れてこられていた。彼はメビウスという、現実を忘れ、理想を延々と叶え続けられる理想郷にあって、不意に現実を思い出してしまう「体質」らしかった。
「あなた、本当に懲りませんね」
だから呆れて、そんな言葉をかけてしまった。当然、彼は不思議そうな顔をする。
当たり前だ。連れてこられるたびに洗脳し直して、記憶も消してしまっているのだから。
「いいですよ、わからなくて」
戸惑ったような、そうでもないような。極端に表情に乏しい彼からは、何を考えているのかわからない。
まあ、例え分かってもこれからやることを止めはしないし、それによって彼が全てを忘れてしまうことなんて、気にもならないのだが。
……そう、気にもならない。気にする必要もない。これはこの世界を守るために、自分の理想郷を守るために、必要なことだ。
「何度も思い出すあなたが悪いんですよ」
気に留めるわけがない。こうやって彼の記憶を消し、改ざんし、いいように捻じ曲げるたび、彼の表情がますます失われていく気がするのも気のせいだ。
やがて意識を失った彼を見て、指をヘッドフォンから離す。意識せず指に触れた黒髪は、柔らかくさらさらと揺れた。
「ねえ、そんなにいいですか、現実なんて」
もう鍵介の声は聞こえていないだろうことは承知の上で、尋ねた。
こんなになってまで、何度も何度もこんな風になってまで、追いかけるほど、いい世界なんかじゃないはずだ。
だから逃げたっていいはずだ。僕は間違っていない。
眠った彼は答えない。答えるわけがない。……たった今、鍵介が、自分の手でこうしたのだ。
鍵介は深くため息をつく。
「……おやすみなさい」
そう呟いた声は何故だか、酷く疲れていた。
***
かくて世界の時間は進んで戻り、永遠にループする。
ループする。歌が聞こえる。ループする。何度も何度も、執拗に。
ピアノの優しい音色と、柔らかなメロディと、のびやかな歌声と、透明感。
ループして、ループして――ピアノが、するりと意識の合間を抜けるように、止まる。目の前を、光の筋が一本通り抜けたような気がした。
ふ、と。不意に視界がクリアになった。ここは体育館だろうか。
目の前の檀上には、大きな字で「入学式」と書いてあるのがわかった。
ぶつり、と音を立てて、音楽のループが止まる。
そして、あの日の逆光で見えなかった目と目が、初めて交差した。