維弦とイケP。現実世界に戻ってから友達になる話。
* * * * *
真昼の街は騒がしい。10時代にはひっそりとしていた平日の街並みも、昼時を迎えると打って変わって人通りが多くなる。
「あちー」
意味もなく暑さを訴えながら、日陰から日陰へと移動するように進む。俺の隣を歩く人々も同じようなもので、口々に熱さへ文句をたれていた。
平和だ。平穏だ。……ついこの間まで、幽体離脱症候群なんてわけのわからない病気に脅かされていたなんて、嘘のようだった。
しかしいくら嘘のようだと思っていても、あの出来事は嘘なんかじゃなかったし、『中』で起こったことも、夢幻なんかじゃない。
……と、そこまで考えたところで目的地についた。俺は足を止め、俯いていた人影に声をかける。
「峯沢」
人影が肩を揺らし、微かに反応を見せる。そして手に持っていた文庫本にしおりを挟み、閉じてから顔を上げた。
誰もが振り返る長身と端正な顔立ち。しかし、その顔には痛々しい傷跡が刻まれている。近くにいた人間が何人か気付いたのか、おののくように目を逸らした。
「小池。今日は早いな」
「そうかあ? ま、平日だし暇なんだよ」
この究極にもったいない美形の名前は峯沢維弦という。色々あって、『中』にいた頃浅からぬ縁が出来た。
こいつとこうやって定期的に出会っていることそのものが、『メビウス』と呼ばれていたあの世界が、確かに存在したという証明だった。
幽体離脱症候群から解放されて、メビウスにいた連中はほとんどが元通り、現実に戻ってきた。俺も含めて、通院が必要だったり、日常生活に戻るためのリハビリだったりを必要とするやつは結構いたらしいが、その後処理も随分終わったようだ。
俺自身も、この通り、仕事に復帰してもう数か月が経つ。
そして、ひょんなことから、この峯沢と連絡を取り合うようになったのも、そしてこうやって、昼時になるとなぜか一緒に昼飯を食べに行くことになったのも、この一か月以内のことだった。
最初に連絡を取り合うことになったきっかけは俺だが、昼食の件はなんと峯沢から誘ってきた。
「外食の練習をしたい」
なんだそりゃ、という理由だが、本人は大真面目なのだから茶化すわけにはいかない。それに、本当に峯沢は外食の経験がほとんどないらしく、傍にいないと危なっかしくてしょうがないのだ。
適当に目星をつけた店に入る。今日は中華だ。さすがに平日ド真ん中にニンニクは無理なので、無難にチャーハンを注文する。
「いつもおもうけど、お前、そんなんでよく今まで大丈夫だったな」
「……メビウスでは、部長が付き合ってくれていた」
「部長って、あー……あの黒髪の。ひょろっとしたやつか」
峯沢のいた帰宅部を仕切っていた少年がいた。口数が少なく大人しそうだったが、実力は折り紙付きだったと記憶している。
ぼんやりと思い出す俺の隣で、峯沢は運ばれてきたチャーハンを興味深そうに見つめていた。レンゲを差し出してやると、少し目を見開いてから受け取る。
「いただきます」
きちんと手を合わせ、峯沢が言う。
「……いただきまーす」
それに合わせて食事前にそういうようになったのは、未だにちょっと照れくさいが、まあ、悪くはないなと思っていた。
食器の触れ合う音を響かせながら食事を進める。話題はなんでもいい。テレビ、ニュース、最近会った迷惑な客の話、峯沢の通う学校の話など様々だ。
「最近、よく本読んでんな。お前読書とか好きだっけ?」
「いや、最近借りた。小池と待ち合わせるのに、手ぶらで待っていると、声をかけられて大変だと言ったら、友人が貸してくれたんだ」
峯沢の声は相変わらず平坦だが、「面倒だから」とは言わなくなっただけ、変わったなと思えた。
「どんなやつ?」
特に今日は話したい話題もないので、本の内容に匙を向けることにした。峯沢は少し考え込むようにしている。読んだ内容を思い出しているのだろう。
「まだ初めだからな……よくわからないが、ふんいきいけめん? と、絶世の美女が結ばれる話らしい」
「おい峯沢、その本貸したやつ誰だ吐け」
思わず理性を失って詰め寄っていた。
「落ち着け。どうした」
「どうしたもこうしたもねーよ! 貸した奴のチョイスに悪意しか感じねえよ! ふざけんな!」
「借してくれたのは部長だが」
「よし峯沢、WIRE見せろ。あの黒髪もやしぜってぇ許さねえ」
俺の剣幕に感じるものがあったのか、峯沢が思わず自分の携帯電話を掴んで俺から離した。……くそ、こいつ、普段はびっくりするくらい浮世離れした行動取るくせに、こういう時だけ察しがいい。
「落ち着け小池。よくわからないが、たぶん部長は親切心で」
「うるせえ聞くか! 携帯よこせ!」
二人してギャアギャアと騒ぎ倒し、結局その日の昼食は終わった。俺は昼食時間いっぱいまで粘ったが、峯沢ががんとして携帯を守り抜いたため、帰宅部部長への特攻は叶わなかった。リベンジだ。いつかリベンジしてやる。
かなり迷惑そうな顔をした店員に「ありがとうございましたー」と形ばかりの見送りを受け、二人で店を出る。
そりゃああれだけ騒げば嫌な顔もされる。
「本当によくわからないが、すまなかった」
「いや、お前が悪いんじゃないし……俺も途中からなんか意地になってたわ」
もう何か色々疲れ切って、俺は大きくため息をついた。
それに、実は言うほど怒っているというわけでもない。ただなんというか、久々に、学生の頃にやったような考えなしの馬鹿騒ぎをやりたくなったのだ。
しかし、峯沢にはそういう細かい空気は伝わらなかったらしく、
「部長には僕が相談した。だから何か都合が悪かったなら、僕に言えばいい」
と、気落ちした様子だった。いや、あまり表情が変わらないので、おそらく、というところだが。
俺がフォローしようと口を開きかけたのを、峯沢が食い気味に声を重ねる。
「小池から連絡が来て、現実でも会うことが出来てよかったと思う。……その一度で終わらせるのは惜しいと思って、部長に相談したんだ。そうしたら、部長が『なら、なるべく毎日、時間を決めて会うといい』と」
……峯沢曰く。帰宅部部長は峯沢に、こうのたまったらしい。
『維弦が小池君と仲良くなって、大勢の中の一人じゃなく、たった一人の友達になりたいのなら、たくさん約束をするといい。そんなに難しいものじゃなくても、また明日、だけでもいいから』
そうして、手ぶらが嫌なら小説を読めと本を貸し、峯沢を送り出したのだと。
「で、急に昼飯誘ってきたわけか」
「ああ」
信頼に溢れる表情でこくりと頷く峯沢。どうでもいいが、こいつ本当に部長のこと好きだな。
「だが、小池が迷惑なら、もうやめよう」
そしてやはり、この上なくわかりにくく落ち込んだ表情で、声を沈ませた。
そう。今のが「落ち込んだ」のだとわかるくらいには、俺もこいつと長くつるんでいるらしい。その事実に、なんだか言いようもなくむずむずして、たまらなかった。
「別に迷惑だとか言ってねーだろ。ばーか」
俺は感情に任せ、峯沢の綺麗に梳かれた髪をわしゃわしゃとかき乱す。峯沢が不意打ちに驚いた声を上げるが、気にしない。
そして、口の端を上げて踵を返す。
「また明日な、峯沢!」
……そして明日の分の約束を繋いだ。