足立×花村。
* * * * *
大して強くもないのに。とりわけ大人なわけでもないのに。
その手を握ってしまった。これはきっとその罰なんだ。
耳に残るテーマソングを聞き流しながら、足立は出口への道を歩いていた。手には今夜の夕飯になるだろうお総菜の入った袋。大きく書かれたJUNESのロゴは、なんだかんだ言われながらもこの町に馴染みつつある。
今日は珍しく日が変わらないうちに仕事が終わった。いつ呼び出しがかかるか分からない職業ではあるが、こんな日くらいはさっさと家に帰ってのんびりしたい。
が、そんな日に限って間が悪いこともある。
「……げ。雨」
思わず呟いて溜息が漏れた。エントランスから硝子越しに見えるのは、大粒の雨。ぼつぼつとやたら太い音を響かせ、アスファルトから小さなしぶきが上がっている。
余計な物は持たない主義、かつ天気予報なんて確認する習慣もない足立は、もちろんビニール傘なんて持っていない。
幸い、ビニール傘ならすぐそこのコーナーで売っている。買って帰ろうと思ったその時、聞き覚えのある声が足立を呼び止めた。
「あれ、足立さん?」
振り返ると、そこには少し意外そうな、しかし人なつっこい笑みを浮かべた花村陽介が立っていた。
確か、堂島の甥といつも一緒にいる友人だ。
「ああ、ええと、花村君だっけ」
「そうです。買い物ですか?」
まあそんなとこ、と返すと、そうすかと陽介は軽く答えた。
「花村君は? バイト?」
「はい。今日は夜までだったんで。これから帰ろうかなーと……って」
そして足立の隣に並ぶと、外の様子に気付いたらしく小さく「うわ」と悲鳴を上げた。
「雨降ってるし……降水確率当てになんねー」
言って、大げさに肩を落としてみせる。どうやらこっちは天気予報を確認するタイプのようだった。どうやら同じ、傘なし組らしい。足立は苦笑した。
「間が悪いことってあるよねえ。仕事上がりくらい、さくっと帰りたいよ」
「ほんとに……やなことって、重なるもんですね」
陽介はおもむろにしゃがみ込むと、はー、と深い溜息をついた。
ぼつぼつという大きめの雨音が辺りを支配し、暫く沈黙が落ちた。どちらも傘を買いに行くべきなのに、何故か動かない。ちらり、と足立が横を見やると、陽介はしゃがみ込んだまま、ぼんやりと外を眺めているだけだった。
「……嫌なこと、あったんだ」
聞こうか聞くまいか悩んで、結局聞いた自分に、足立は少し驚いた。
自分でも分かっているが、足立はあまり他人の領域には足を踏み込まないタイプだ。そして、自分の領域に誰かが踏み込んでくるのも嫌う。だからこういう質問は珍しい。
陽介も少し驚いているようで、足立を見上げて目を見開いた。しかし、すぐに曖昧な苦笑に置き換える。
「まー、色々ありますよ。こんだけの人が同じ場所で働いてんだし。俺店長の息子ですし? 不満とか、多分言いやすいんですよ」
はは、と小さく声を上げ笑ってから、陽介は立ち上がった。
これだけの人、と陽介が形容した人々は、二人の遙か後ろでざわざわと遠い喧騒を作り出している。ああ、この喧騒のうちのどれかが、今日の彼を傷つけたのだろうと足立はすぐに察する。
「なるほど。それはご愁傷様。大変だね、アルバイトなのに。まあ、そういうのってある程度は言わせておけばいいんじゃない? 案外、諦めが肝心かも知れないよ」
大変だねと労いはする。しかし足立の心は底の方で冷えていた。
同情はしないし、出来ない。ヒトというのはいつだって他の誰かを傷つける可能性を持っていて、そういう生き物で、そういう生き物が集まって出来るのが社会で、コミュニティというものだからだ。
足立だってそうだ。都会にあったコミュニティから弾かれて、ここに転がり落ちてきた。要するに、誰にだって起こりうることなのだ。
……ざまあみろ、とは思わないけれど。俺がそうなのだからお前だってそうなって当然だという、暗い気持ちは、ある。
「足立さんはやっぱ、大人ですね。俺は時々、もー全部めんどくせぇ、ってなりますよ」
そんな足立の暗い心には全く気付かない様子で、陽介は淡く笑っている。こういう表情を不意にする陽介を、足立は決して嫌いになれなかった。他の子供のように、うっとうしいガキと切り捨てることが出来ないのだ。
理由はなんとなく思い当たる。さっき自分が言った通り。世の中、諦めることが肝心だということを、知らなかった頃の自分に似ているのだ。
コミュニティから弾かれることもそう。コミュニティに馴染めないのもそう。いつも苦しい思いをするのが、何故自分なのか。あるいは、いつもいい思いをするのが、何故自分ではないのか。そうやって憤慨しているうちは、苦しい。
足立はやがてそうやって一喜一憂するのに疲れて、面倒になって、社会とか世界とかはそういうものなのだと思うことにした。
どうせ世の中というものは、一部の選ばれた人間や運のいい人間だけがいい思いをするように出来ている。たまたま自分はそうではなかったので、苦しい思いをしているのだと。
そう思えるようになってから、生きるのが少し、楽になった。
陽介は多分、少し楽になる前の足立と同じなのだ。
「大人になるには、もうちょい時間がかかりそうです、俺は」
陽介はまた、硝子越しの大雨をぼんやりと眺めていた。
その横顔に、何かを、感じたわけもない。まして、泣きそうだな、なんて心配したはずもない。
「……いいんじゃない。高校生なんて、実際まだ子供だし」
でも気付いたら、その手を取っていた。陽介がびっくりして足立を見やる。それに気付かないように装って、足立はきびすを返した。
「君も傘買いに行くんでしょ。売り場教えてよ、花村君」
あ、はい、と、戸惑った声が後ろから付いてくる。
握った手のひらは暖かく、自分より少し小さいような気がした。
彼の苦しみが早く終わりますようにだなんて、そんなことこれっぽっちも考えていやしなかった。少なくとも、そう強く思ってなんかいなかった。
***
紅い空を見上げながら、そんなこともあったなぁと投げやりに思い出していた。
こんな最後になって、何故かそんなことを考えている。そんな自分がどこか可笑しくて、足立は苦笑した。
もうじき世界は霧に消える。自分が消す。こんな苦しいばかりの世界は、いっそ全部変えてしまった方がいいのだと、足立は結論付けた。
そしてあの時、足立と同じだと思っていた陽介は、足立と全く反対の道を選んで、ここに向かっているはずだ。
もうじき、戦うことになる。殺すことになる。
「……だから何だよ」
はは、と乾いた声で笑った。
だから何だ。彼個人との関わりなんて、あの日のあのことくらいで、大してなかったはずなのに。どうして戦うのが嫌だなんて、今更思うのか。
胸が痛いのが鬱陶しい。それでいて馬鹿馬鹿しい。
その時足立の背中側で、複数の靴音が響いた。足立は振り返る。
時間だ。最後の戦いが始まる。
だからこれは、きっとその罰なんだ。
大して強く想っていたわけでもないのに。とりわけ大人なわけでもないのに。
その手を握ってしまった。この痛みはきっと罰なんだ。