影村×花村。
周回設定。
* * * * *
それは幸せな物語のはずだった。
かけがえのない仲間と、尊敬する、頼れる相棒と、共に過ごした一年間。
それはやがて時が過ぎ、大人になって記憶から薄れても、自分を淡く優しく照らしてくれるはずだった。
後は、見送るだけだったのだ。
「また、明日」
この町で最後になる、相棒の「また明日」を聞いて、また明日な、と返す自分。
季節は春。三月二十日。
鳴上悠は、明日、稲羽を発つ。そして自分は、花村陽介は、それを寂しく思いながらも笑顔で見送るのだ。
その、はずだった。
「……え?」
意識は唐突に覚醒した。
最初に口をついて出たのは、掠れた呻き声のような、小さな声。
気がつくと陽介はそこに、夕暮れの視聴覚室に一人、立ち尽くしていた。自分の他には、誰も居ない。ただ、広い特別教室を紅い、紅い、夕日が照らしているだけ。
辺りを見渡してみると、誰かがふざけていたのだろうか? 机や椅子が、あちこちで列を乱していた。たまに横倒しになっているものもある。
何か、様子がおかしい。
「なんで、俺学校に……」
まずはそれだった。陽介は、学校に来た記憶など無い。というか、三月だから春休みの真っ最中だ。部活に所属していない陽介には、ますます縁が無い。
それに、昨晩は悠と仲間たちで別れを惜しんだあと、朝早くに発つ彼を見送るために早めに寝ようとベッドにもぐりこんだはずだ。
……そこで、記憶は途切れている。たぶん、眠ったからだろう。
そして目が覚めたら、ここに立っていた。
夕暮れなのだから時間はどんなに贔屓目に見たって夕方だ。夕べ寝入ってから朝起きて、今の今まで夢遊病状態だったとでもいうのだろうか。
そんな馬鹿な、と自分で苦笑が漏れた。無意識に後ずさったらしい、かかとが何かを蹴って、蹴られた何かがからからと転がっていく。
なんだろう、と思って拾い上げると、自分の携帯電話だった。いつもの癖で、液晶画面を開いて中を見て、
「しがつ、じゅうさん……え?」
それは陽介の自覚していた日付とは大きく、実に一ヶ月も違っていた。しかも、四月の前の数字はどうだ、2011年と来た。
いやいや、そんな馬鹿な。それこそそんな馬鹿な。
「携帯、壊れてんのか? 日付いじった覚えは、」
そこまで一人ごちた直後、不意の頭痛が陽介を襲った。
「……ッつ!?」
思わず声を上げてうずくまるほどの、激痛。携帯電話を握った手が無意識に開き、からからとまた転がる。
しかし、気にしている余裕はなかった。頭痛と共に、陽介を襲うその経験したことの無い感覚のせいだった。
記憶が、流れ込んでくる。
まるでせっかちなスライドショーのように、見覚えの無い光景が、見覚えのある光景として脳裏に浮かんでは消える。
稲羽市の景色。学校の風景。友人の顔。家。ジュネス。転校生。小西先輩。
記憶のスライドショーは、そこでぴたりと止まって、酷くゆっくりしたものに変わった。
花ちゃん、やめて、なんでこんなこと。
小西先輩の声。慌てたような、酷く怖がっているような声がする。声だけじゃない。感覚もある。自分の手のひらが、小西先輩の細い腕を掴んで、その華奢な身体を黒い画面の方へ。
「やめろッ!」
思わず叫んだ。記憶の中の小西先輩も叫んだ。
やめて、いやっ、やめて、花ちゃん!
しかしスライドショーは止まらなかった。腕を掴んだ感触が、叫ぶ声がすぐ耳元で聞こえる。やがて小西先輩の姿が、黒い画面の、視聴覚室の大型テレビの中に吸い込まれるように消えていく。か細い悲鳴は、数秒もしないうちに遠ざかっていった。
「やめろ、やめろ、なんなんだよこれ、やめろッ!」
叫んでも叫んでも、止まらない。壊れたテープレコーダーのように、やめろと繰り返しても、止まらない。
それはもう、この場所ですでに起こってしまった出来事だから。
直感した。理由なんてない。ただ、理解した。これは記憶なのだ。自分の、花村陽介がついさっき体験したことなのだ。
そう理解したとたん、記憶の逆流は終わった。再生し終えたテープレコーダーが止まったようだった。頭痛も嘘のように消えて、代わりに叫んだ疲労感が身体中をめぐり、陽介はうずくまったまま荒い息をつく。
「なんだ、これ……なんなんだよ、何がどうなってんだよ……!」
呟く言葉に意味など無かった。ただ自分を落ち着けるために、何かを喋っているだけだ。
心の底の底の、冷えたところでは、理解していた。先ほどの頭痛に、理解させられたと言ったほうが正しいのか。
今日は2011年四月十三日。自分は、一年前から今日へ舞い戻り。
そしてたった今、小西早紀をこの手でテレビの中へ「落とした」のだ。
*
翌日。陽介の姿は、夜のジュネスにあった。
四月十四日。本来なら、鳴上悠……彼の相棒と、小西早紀の事件を調べるために訪れるべき日だ。しかし、陽介はたった一人、誰にも告げずにここにいた。
場所はいうまでもなく、家電売り場。閉店後の静まり返った店舗は不気味だったが、今はそんなことを言っている場合ではない。
陽介はそっと、その指先を、ディスプレイされた大型テレビに当てる。案の定、指先が触れたところから、黒い画面が波打つ。
「入れる」。確信して、陽介は俯いた。
あれから。あの視聴覚室で、記憶の逆流を体験した後、陽介は当然、テレビの中に入って小西早紀を助け出そうとした。
しかし、「入れなかった」のだ。突き落としたなら入れるはずだ、そう思って何度も試したが、何度やっても自分の手は固いガラスを叩くだけで、テレビの中へ行くことは出来なかった。
他にどうすればいいか、考えて考えて考えて……そして、間に合わなかった。
殺人事件のニュースを横に聞きながら、それでも諦めきれずに、夜のジュネスへとやってきた。そして今は、なんの障害もなく「入れる」らしいと知る。
「なんで、今なんだよ……」
いったいなにが邪魔をしていたのか、それすら疑いたくなるほどすんなりと身体はテレビの中へと吸い込まれていく。
底なしの穴へ落ちていくような不安定な感覚のあと、陽介は危なげなく、いつもの広場へと降り立った。
クマの姿はない。少しほっとする。クマにも会いたくなくて、わざとこんな夜中を選んで中に入ったのだから。
陽介は、「商店街」への道をまっすぐに進んでいく。それは小西早紀が落ちたはずの場所、「異様な商店街」と仲間たちが呼んでいた場所だ。
事件は始まった。今更行っても、小西早紀を救うことは出来ない。それでも陽介は向かわなければならなかった。
あそこには、もう一人会うべき人がいる。
赤と黒のコントラストを空に見てから、「コニシ酒店」と書かれた看板をくぐる。
所狭しと並んだ酒瓶や酒の缶を縫うように、細い通路を通る。そしてその先には、不自然なほどぽっかりと開いた場所。
そこに、「彼」は居た。
『よう、遅かったな』
ああ、と陽介は思う。それから、よかった、とも思った。
自分と同じ顔、髪の色、同じ声、そして同じ制服を着ている人物。ただ瞳の色だけが目の覚めるような金色をしていて、その双眸が無感情にこちらを見つめていた。
「ジライヤ」
その名前を、まだその名前でない彼に言う。しかし、呼ばれた「ジライヤ」……花村陽介の影は、気にした風もなく表情も変えなかった。
『昼間に来ると思ってたら、こんな時間に一人でかよ。ったく』
その言葉で理解した。彼もまた、この奇妙な「やり直し」に気付いている。自分と同じだ、と。
元々本体と影は「同じ」なのだから、当たり前かもしれない。けれど、今の陽介はそれを確認できただけでも大いに安堵した。
今日学校で会った誰も、鳴上悠でさえ、この「やり直し」には気付いていなかったからだ。自分はなんの冗談か、一人きりで未来から過去へと放り込まれたのだと思ったから。
だから、ジライヤがそれを理解していると知って、酷く安心した。
「お前は、覚えてるんだな。未来のこと」
『お前は俺だ。お前が覚えてるんだから、俺も覚えてる。そして、お前はもう俺を認めてるから、お前と戦う理由も無い』
それでも恐ろしくて確認すると、あっさりとそう答えてくれた。そして陽介をじっと見つめ返して、不意に苦笑してみせる。
『何泣きそうな顔してんだよ、情けねぇな』
言われて、ぎゅっと片方の手を握り、片手で顔を覆った。
言われたとおり、なぜか泣きそうだった。ジライヤが覚えていてくれたという安堵もある。戦わなくてもいいという言葉への安堵もある。しかし、そんな名前のつく安堵だけではなく、色んなものがあふれ出そうになって、熱いものがこみ上げてきた。
「悪い……なんかも、色々、わけわかんなくて……」
必死でこらえようとして、言葉尻がくぐもる。今、顔を覆う手をどけたら、それこそ涙を流してしまいそうだ。だからそれ以上はなすことも、動くことも出来なかった。
説明しなければいけないことが、たくさんあるのに。本当に情けないと思った。
なのに、突然、頭の上のふわりと誰かの手が撫でる。
『馬鹿だな。俺はお前だ、って言っただろ。説明なんていらねーよ。全部わかってんだから。てか、自分の前で意地はったって、意味ねぇっつの』
ここには自分とジライヤしかいない。だから今、優しく頭を撫でてくれているのは、彼だ。覆った顔の向こう側から、小さな声がする。頭を撫でながら、ジライヤが自分に言ってくれているのだと分かった。
頑張ったな。
陽介以外には聞こえないだろうその言葉で、もう限界だった。
陽介の瞳から涙があふれ出て、次から次へと滑り落ちていく。声を上げずに静かに泣く陽介を、ジライヤは落ち着くまで、ずっと撫でてくれていた。
「悪い、ジライヤ……ほんと、情けねーな、俺……」
ようやく涙が収まって、会話できるようになったとき、陽介は自嘲気味にそう言って笑った。
その笑顔は当然力無かったが、涙が収まっただけマシというものだ。ジライヤも黙って手をどけて、無言で首を振った。
『情けないのは今に始まったことじゃねえだろ? 俺』
意地悪く笑うと、陽介も笑った。泣き疲れてはいるようだが、笑える元気は戻ってきたらしい。
『なんで一人で来た。今日は悠とクマも一緒に来るはずだろ』
キツイ言い方ではあったが、微かに心配している様子も聞き取れた。ここにジライヤがシャドウとして存在しているということは、今の陽介はペルソナが使えない。なのにどうして一人で来たのか……そう言っているのだ。
陽介は少し俯いて、それから答える。
「言えなかったんだ……小西先輩がどうなったのか知りたい、なんて、さ」
本来なら、この日は陽介が小西早紀の死の真相を知るために、悠を巻き込んでテレビの中へと入る日だ。しかし、今の陽介には真相を知ろうとする意思が無い。
真相は、すでに彼の記憶の中にあるから。
「嘘でも、悠には、言えなかったんだ。先輩がどうなったかなんて、俺が一番知ってる……なのにいけしゃあしゃあと、真相を知りたいから一緒に来てくれなんて、言えるわけがないだろ!」
この手には、まだあの時の……覚えの無い、でも間違いなく覚えのある感触が残っている。小西早紀を取り押さえ、叫ぶ彼女を無理やりテレビの中に押し込んだ記憶と感触。押し付けられたこの「やり直し」での陽介の記憶だ。
この世界で、花村陽介は、小西早紀を、殺す。そしてそれを、今の陽介は止められない。
「俺が、殺したんだ……」
力なく呟く。
自分が殺した。大好きだった先輩を。あれほど助けたいと願っていた人を。
なんて悪夢だろう。ついこの間まで、自分は2012年三月二十日にいたのに。全てを終わらせ、仲間と笑い合って、隣には悠がいて。
ああ、明日でこいつは帰っちまうんだなぁ、寂しいな、でもまたすぐ会えるよな……なんて考えて、また明日、と言い合って別れた。少し寂しい、でも幸せな明日が始まると信じて疑わず、眠りについた。
そして、目を覚ましたときには惨劇が終わっていた。
本当に悪夢ならいいのに、と思う。しかし、ここはどうしようもなく現実だった。
ジライヤは再び俯いた陽介をじっと見つめてから、思い切ったように口を開く。
『お前はやってない』
その静かな声に、陽介は顔を上げた。そして信じられないものを見るような目をして、反論した。
「違う、俺がやったんだ。だって覚えてるんだ。先輩と言い合いになって、それで、俺は先輩の手を掴んで……」
『それは本当にお前の記憶か? お前は、今俺の目の前に居るお前は、小西早紀を殺したいと思ってたのかよ?』
違う、と、陽介は心の中で叫んだ。しかしその叫びはあまりに大きすぎて、言葉にならない。ただ掠れた息だけが、喉から搾り出された。
『お前自身に聞くぜ。お前は小西早紀を殺したいほど憎んでたのか。死ねばいいと思って、テレビの中に落としたのか。死ぬと分かってて見過ごしたのか?』
「違う! そんなことあるわけない! 違う、違うっ」
淡々と尋ねるジライヤの言葉に、やっと陽介の声が反論した。
違う。殺したいなんて思ったことは一度も無い。昨日だって、助けようとした。でも出来なかった。ただ、目が覚めたときには全てがもう終わっていて。
『なら、お前は殺してない。それは殺人とは呼ばない』
ジライヤが陽介の肩をつかんで、言い聞かせるように言った。その力強い言葉に、陽介の身体から力が抜けていく。
殺してない。俺は、殺してない。
「俺じゃ、ない……俺はやってない」
それは、陽介がずっと叫びたかった言葉だった。しかし、自分が殺したのだと、他でもない自分が認めているから、言えなかったのだ。でも本当は言いたかった。それをジライヤが、今自分の前で言葉にしてくれた。
彼は自分の影、本心なのだから、それは当然なのだろう。
「俺は殺してなんかない、違うんだ、先輩を殺したいなんて、思ったこと、ないんだ……」
『わかってる』
「目が覚めて、その時には全部終わってて……助けようとしたのに、出来なかった。確かに『俺』が殺したんだ……でも、それは俺じゃない」
何を言っているのか、きっと誰もわからないだろう。でも、ジライヤは分かってくれる。
彼は自分なのだから。
『ああ、そうだな。世界中の人間がお前が犯人だって言うだろうな。あの場所に何かが残ってるとしたら、それはお前が犯人だって指し示すだろうぜ。でも、俺は絶対にそんなことは言わない』
不意に、暖かいものが自分を包み込んだのが分かった。抱きしめられているのだ、と気付くまで、数秒を要す。
その暖かさが今は心地よくて、そのまま、陽介は彼の影に抱かれるままになっていた。
『俺だけはお前に起こったことを理解する。だから言ったろ、頑張ったなって。よくここまで来たな』
一人で。誰にも相談することも出来ず、人を一人殺した、という謂われのない重みを背負って、ここまできた。それをジライヤは労ったのだった。
陽介を抱いていた手を離し、ジライヤは再びその金色の瞳で陽介を見つめた。そして、ふ、と優しく微笑みかける。
陽介は、ジライヤがこんなに優しげに笑うところをはじめて見た。
『我は影。真なる我。汝の心の海より出でし存在』
呪文のように唱えるそれは、人の心から生まれた影が、必ず本体に向かって言う言葉だ。
『俺はお前だ。そして、俺はお前の心を鎧う覚悟の仮面でもある』
まだ涙の跡がくっきりと残る、泣き疲れた主を正面に見て、ジライヤは言う。あまりに悲惨な運命に放り込まれた「自分」を労わる。そして、もう一度強く抱きしめた。
誰もお前を守ってくれなくても。俺だけはお前を守ってやる。