花村×主人公。バレンタインデー。
* * * * *
二月の寒空の下で、はふ、と息をつく気配がした。
陽介は振り返り、後ろを歩く悠を見やる。前髪に隠れていて表情はよく見えない。しかし、陽介の視線に気付いたらしい悠はやんわり微笑んだ。
「何?」
「いや、具合悪そうだなと思って」
陽介が言うと、悠は少し驚いたような顔をした。
気付かれていないと思っていたのだろうか。陽介は思わず苦笑して、悠に近づき額に手を当てる。思った通り、冷えた手のひらの分を差し引いても熱い。
「やっぱ熱あるんじゃねーか。昼間っからフラフラしてたし、やたら寒そうだったから、気になってた」
「……陽介はよく見てるな」
これくらい気付くっつの、と陽介は少し不満げに額をぺちりとやる。
「今日は早く寝ることにする」
悠が自分も額に手を当ててからちょっと苦笑する。案外素直にそう言ったので、陽介はほっとした。悠は放っておくと、すぐ一人で無理をする。
裏を返せば、素直にならざるを得ないくらい辛いのかも知れないが。
「そうしろそうしろ。家まで送ってくし」
「さすがにそれは悪いな……」
「何遠慮してんだよ。ほら、行くぞ」
とにもかくにも、悠の気が変わらないうちに送ってしまうことにした。すこし強引に引いた手は、やはりいつもより熱かった。
そんなことを思いながら帰路に就いたのが前日、二月十三日。
翌日相棒は見事に風邪でダウンし、陽介の前の席はからっぽになった。
あーやっぱりなー、なんてぼんやり考えながら、学校が終わったら見舞いにでも行ってやろうと思ったまでは良かった。うかつだったのは、今日は十三日の次の日、十四日だったことを、休み時間になってから思い出したと言うことだ。
「花村くんっ! 鳴上くんって今日休みなの!?」
「お、おう……」
唐突にかけられた声に思わずびくっと肩を震わせ、陽介は答える。
尋ねてきたのは隣だったか、そのさらに隣だったかのクラスの女子だった。一人だけのはずもなく、後ろにも数人の女子が控えている。そしてどの女子の手にも小さな包み。中身はたぶん、チョコレートで決まりだろう。
今日は二月十四日、バレンタインデーなのだから。
「花村くんて鳴上くんと仲いいよね?」
後ろにいた別の女子が、伺うようにそう言った。
「ま、まあ仲いいけど」
「今日お見舞い行くよね!?」
「い、行くけど」
元々行くつもりではあったが、万に一つも「行かない」とは言わせない、という感じだ。
「じゃあこれ、鳴上くんに渡しといて!」
案の定、行くと言ったとたんに女子たちの顔がぱあっと輝き、次々と持っていたチョコを陽介の机の上に積み上げだした。
ちなみに、これが最初ではない。朝から同じパターンで陽介に預けられたチョコ、総数……数えるのも面倒臭い。相棒のカリスマっぷりが嫌でも伺えて最初こそ感心したが、さすがにもうお腹いっぱいだ。自分が食べるわけでもないのに。
「(置いていくならさっさと置いて、帰らせてくれ)」
きゃあきゃあ騒ぎながらチョコを置いていく女子たちを横目に、陽介はため息をつく。
それでもしばらくすると女子の波もようやくおさまって、陽介は逃げるように昇降口へとやってきた。これ以上ぐだぐだしていたら、また一波来そうだ。こうなったらさっさと学校を出て、悠の見舞いに……そう思ったその時だった。
「あ、あの……花村君!」
名前を呼ばれて振り返ると、そこには何となく見覚えのある、恐らく同級生の女子が立っていた。
小柄で、肩に届くかどうかの黒髪がさらさら揺れている。普通に可愛らしい子だった。
少女は陽介が振り返ったのに一瞬驚いたように固まったが、やがて意を決したらしく、鞄の中から小さな箱を取り出してずいっ、と差し出した。
「あ、の……これ、あの、チョコレート、」
何かの願掛けでもするかのように、少女は手にした小箱、恐らくチョコレート入りのものを陽介に差し出している。俯いているので表情は見えないが、横から覗いている耳は真っ赤だ。よく見ると、手もちょっと震えているような気がする。
やたらめったら必死な子だな、と陽介は思わず苦笑した。恐らくさっきの女子たちと同じで悠に渡そうとしていたのだろう。
「ああ、はいはい。ありがとな」
このまま引き伸ばすのさえ可哀想なくらい緊張しているので、さらりと受け取ってあげることにした。
チョコレートが自分の手を離れたことを察すると、少女はやはり真っ赤な顔を上げる。そして小さな声で「ありがとう」とだけ言い残すと、一目散に走り去ってしまった。
手元に残ったチョコレートの小箱と、紙袋いっぱいに詰め込まれたこれまたチョコレートを見下ろし、陽介はため息をつく。
「(愛されてんなぁ、相棒。なんだこのチョコレートの数。漫画か)」
積み上がったチョコレートの数は、そのまま悠への好意の数なのだと思うと、無性に面白くない。悠がモテるのは前々から分かっていたことだが、こうやって形が伴う現実として目の当たりにするのとは違う。
「あー、やめやめ」
陽介は沈みかけた気分を無理やり浮上させることにした。
でも一番相棒を愛してんのは俺だもんな、と、心の中で強がる自分がいじらしかった。
***
堂島家を訪れると、悠の熱はもう下がっていた。
「朝は苦しそうだったけどね、学校から帰ってきたら、もう大丈夫だって。熱ももう下がったみたい。でももうちょっと寝てなきゃだめだよね?」
出迎えてくれた菜々子が、幼いながら大人びた口調でそう言う。微笑ましさに思わず笑みが零れた。
普段は悠が菜々子にあれこれ世話を焼いているのだろうが、その悠が病気となるとそういうわけにもいかないのだろう。
今だけ、は菜々子が悠の「おねえちゃん」だ。
「そうだな、俺からも無理しないように言っとくよ」
「うん! お兄ちゃん、陽介お兄ちゃんが言ったらきっとうんって言うよ」
……素直に嬉しいことを言ってくれる。若干沈んだ心がこれだけで浮上するのだから、人間なんて単純だ。しかし単純万歳だ。
菜々子から飲み物を預かって、それを持ったまま二階に上がる。
「悠、 おきてるか?」
「陽介? ああ、開いてるからどうぞ」
思ったより元気そうな声だ。ちょっと安心して、ドアを開ける。
悠は布団から上半身だけを起こしていた。顔色もずいぶんいい。
「お邪魔してます。っと、体調は? どんな感じ?」
「ずいぶんいいよ。熱ももう下がったし。明日は学校にも行けると思う」
「あんま無理すんなよ。ま、思ったより元気そうで安心したわ」
そういうと、悠は気だるげに微笑んだ。
そして菜々子から預かった飲み物を渡そうとして、自分の隣にあったチョコレートの紙袋に目がいく。
「そうだ、これ。忘れないうちに渡しとく。チョコレート」
「……チョコレート? ああ、そうか」
ふとカレンダーに目をやって、悠は納得したらしく頷いた。
「そ、バレンタイン。ったく、すっげー大変だったんだぞー。別のクラスとかからも女子が預けに来てさ」
「悪かったな。わざわざありがとう。……ん」
悠に紙袋を手渡した時、はずみでぽろりとひとつ、チョコレートが布団の上に落ちた。
暖かなオレンジ色の包装紙で、そこにシックな赤のリボンが巻かれている。包装紙もリボンも、店で包装されたにしてはすこしいびつで、逆に一生懸命自分でラッピングしたことを伺わせる。裏返してみると、包装紙とリボンの間にはひっそりと、小さなメッセージカードも付いていた。
「ああ、それ。最後に受け取ったやつだ。それ渡してくれた子、すっごい緊張してたぜ。なんか手も震えてたし。いっぱいいっぱいっつーか」
思い出したら微笑ましくなったのか、陽介はからからと笑いながら言った。
それから続けて、このチョコはこうで、あのチョコはああでと受け取ったときの経緯も含めてあれこれ紹介していく。
悠はそれを聞きながら、ふと気になって包装紙の間に挟まったカードを抜き取って開いて見る。
その文字を見た瞬間、はっ、となった。
丸く可愛らしい字で、花村陽介さま、と書かれていたから。
「(これ、)」
陽介宛だ、と確信した瞬間、かっと頭が熱くなった。見てはいけないものを見てしまったような、ほんの少しの焦り。
陽介は他のチョコの解説に夢中で、こちらの様子に気付いていない。いけない、と思いながらも目が、メッセージカードの文字を追っていく。
文面は、陽介が悠に語ったとおり、ひたむきな少女のそれだった。洗練された文章ではなくても、まっすぐな、誠実な言葉が胸に刺さる。
『花村陽介くんが、好きです』
そう結ばれた文章をついに読み終わり、……ああ、これを書いた子はきっといい子なんだろうな、と、すぐに分かった。
渡さないと。いや、返さないと。悠はすぐさまそう思って陽介を見たが、手が動かない。
「(これを読んだら、陽介はどう思うんだろう)」
きっと悪い気はしないはずだ。こんなに一生懸命な言葉が綴られているのだから。悠宛だと思っているからあっけらかんとしているだけで、自分宛だと知ったら少しは動揺するのだろうか。
『花村陽介くんが、好きです』。
面と向かって、これを渡した少女がそう言ったとしたら、陽介はどんな顔をするのか。もしかしたらそれは……
「悠? どうした? まだ具合悪いか?」
そこまで考え込んだとき、陽介が不意にそう言って悠の顔を覗き込んだ。
「え、あ……いや」
思わず顔が熱くなった。思わず手に持っていたメッセージカードを、かけ布団の間に滑り込ませる。
「やっぱ熱下がっても無理はよくねーしな。菜々子ちゃんも心配してたし、具合悪いならゆっくり寝てろよ」
ほんとに熱無いのかよ、と陽介は世話焼きの顔を覗かせて、悠の額に手を当てた。ひんやりとした手のひらが気持ちいい。
「んー、この間よりは熱くないけど、でも、本当に無理はすんなよ」
な? と念を押すように言って、陽介は額に当ててくれていた手を今度は頭の上に乗せた。ゆっくりと撫でてもらう感覚が心地いい。
熱はもうないはずなのに、半分熱に浮かされたように、うん、とかああ、とか返事をした気がする。
「じゃあ、俺帰るわ。具合悪いのに長居しても悪いし。またな、悠」
頭を撫でていた手が離れ、耳に心地よかった声が遠ざかる。ドアが閉まって陽介が行ってしまうと、手に触れたままだったメッセージカードに嫌でも意識が行った。
考えたことがなかった、はずがない。
チョコレートに添えられた、女の子からの精一杯の言葉。陽介だってきっと、そういうものを望んでいる部分があるはずだ。いや、もしかしたら、女の子のこういう「普通の好意」を受け取るほうが、陽介は幸せなんじゃないだろうか。
つまり、陽介は自分なんかより、このチョコレートをくれたような女の子と付き合ったほうが……
そう考えた瞬間、また、メッセージカードを隠したときのように頭が熱くなった。後ろめたさとわけの分からない悔しさで、頭がいっぱいになる。
手のひらの上にあるのは、女の子から陽介への「好きです」なのだと思うと、眠れそうもなかった。
*
あまり眠れないかと思ったのに、薬のせいか気付いたら眠っていて、起きてみたらだるさも熱もすっかりひいていた。
堂島さんや菜々子に「くれぐれも無理はしないように」と念を押されたことを思い出すと、あと一日くらいゆっくりしていてもよかったかな、と思う。しかし同時に、どうしても早いうちに学校に戻りたい気持ちもあった。
時刻は真昼をすこし過ぎたころ。つまり昼休みだ。悠はここで、人を待っていた。いつもお弁当を食べる仲間たちの誰かではない。
そのとき、屋上の入り口のドアが音を立てて開いた。おずおずとそこから、一人の少女が出てきて、悠を見つけるなり小さく会釈する。
「こんにちは。あの、お話があるって聞いて」
「あぁ、うん……ごめん、急に呼び出してしまって」
悠は曖昧な笑みを浮かべ、少女に言った。「気にしてない」という意味だろう、少女はふるふると首を横に振る。
決して派手なタイプではないが、可愛らしい印象を受ける子だと思った。セミロングの黒髪がよく似合う。
「これを、返そうと思ったんだ」
悠は一瞬迷いながら、ポケットの中から一枚のカードを取り出した。
そのカードを目にしたとたん、少女の表情がさっと驚きに染まり、それから見る見る赤くなった。
「そ、それ、わたしの……昨日、花村くんに……」
「ごめん、陽介が勘違いしたみたいで。間違って俺のところに来たんだ。その、内容が内容だから……返さないとって」
悠はそう言って、カードを少女に差し出す。
言いにくかったが、嘘やごまかしを言う気にはなれなかった。手紙を読んで、これを書いた子が誠実な子だとわかったからかも知れない。
少女は真っ赤な顔のまま、苦しそうに眉根を寄せている。
「ありがとう……」
か細い声でそう言って、差し出されたカードを指先でそっと掴み、受け取った。そして大事そうにカードを握り締めると、深く俯く。
恥ずかしさから泣き出しそうなのを堪えているのか、少女はそのまま、じっと俯いたままだった。それはそうだろう。思いと勇気を振り絞って作ったチョコレートとメッセージが、全く想定外の人間の手に渡って、しかも中身を見られたのだ。
しかしやがて、少女は小さくため息をつき、顔を上げる。そこには、堪えきれずに零れた涙の跡があった。
「ごめんなさい、なんか……泣いちゃって。でも、間違えて受け取ったのが鳴上くんでよかった」
ちゃんと返してくれる人でよかった、と、少女はほっとしたようにもう一度カードを握り締める。
「本当にごめん、中身、見ちゃって」
「いいの。もともと、望み無いの、わかっててやったことだから。それに、鳴上くんだって、最初は自分宛だって思ってたんだろうし……鳴上くんのせいじゃないよ」
まだ泣いた余韻を引きずるように、無理をした笑顔で少女は首を横に振った。そして、握り締めたカードをそっと開いて、自分で眺める。
「ただね、伝えておきたいって思っただけなの。受け入れてもらいたいとか、そういうんじゃなくて。ほんとにただ、それだけ」
ぽつぽつと、少女はやはり控えめに語り出す。
「私、花村くんに何かと助けてもらっててね。掃除のときとか、行事のときとか、ほんとにちょっとしたこと。多分、花村くんはそんなの、なんとも思ってないくらい、ちょっとしたことだけど。でも、私はそれが嬉しくって」
一瞬途切れた言葉の隙間で、少女は堪えるような仕草をし、息を止めた。
「ただ、好きになったの」
少女が一息でそう言った瞬間、ああ、その気持ちはわかると悠の心が返事をした。
ほんのちょっとしたこと。誰も気付かないような隙間や、寂しさ。そういうものに、陽介はとても敏感だ。そしてそういうものを感じ取ったら、とても自然に、欲しいときに、そっと手を差し出してくれる。
そんな陽介を、自分も、そしてきっとこの子も、好きになったのだ。
「……うん、わかるな、それは」
思わずそう呟いて、悠はそっと、また俯いてしまった少女の頭に手のひらを乗せる。少女はまた泣けてきたらしく、うん、うん、と何度も頷きながら、ぽたぽたと涙を流していた。
ありがとう、とまたか細く聞こえた声に、悠はゆっくりと、頷き返した。
出て行くタイミングは、完全に見失っていた。
半開きになったドアのこちら側で、陽介は息を潜め、立ち尽くしている。
ドアの隙間からかすかに開けている視界では、悠がそっと、少女の頭を撫でているのが見えた。
「(あの子って確か)」
見覚えがある。昇降口でチョコレートを渡してきた子だ。やけに緊張した様子だったので、記憶に残っている。
二人が何事か話しているのはわかるが、内容までは聞こえない。聞き取ろうと近づいたら、さすがに気付かれるだろう。さすがにそれが出来る雰囲気ではなかった。
悠は、優しげなまなざしで少女を見つめながら、さらさらとした黒髪に手を滑らせて撫でている。時折少女が顔を上げ、照れたように微笑んでいた。
その光景が、本当にぴったりとはまっているように見えて。心の底から、嫌にどうしようもない想いが湧き上がるのを、止められなかった。一瞬、道化を演じて割って入ろうかと過ぎったが、そんなことが出来るはずもない。
目の前にあるのは、男女の、あまりに「正しい」光景。
「(本当は、悠だって女の子と付き合ったほうが幸せなんじゃねぇの)」
音を立てないように、そっとドアを閉め、階段を一段一段下りながら思い、踊り場で屋上を振り仰ぐ。
もし、それが悠にとっての幸せなのだとしたら。それを素直に願えない自分は、なんてひどい相棒なのだろう。
***
ざわざわ、ざわざわ、と、放課後特有のひそやかな話し声が聞こえている。
千枝はそれを聞きながら、ちらり、と「そちら」を見やって雪子に耳打ちした。
「ねえ、あれ、どーなってんの?」
「さあ……喧嘩じゃないって、本人たちは言ってるけど」
雪子は小首をかしげ、聞いたままを口にした。
喧嘩じゃないって、あれのどこが喧嘩じゃないっていうのよ、と千枝は心の中でためいきをついて、また「そちら」……悠と陽介の方を見た。
悠はまるで身体が固定されているかのようで、席から立つわけでもなくぼんやりしている。陽介はと言えば、机に顔を横たえてひたすら窓を眺めていた。放課後となれば、すぐさま顔を突き合わせて話し始めるか、連れ立ってどこかへ遊びに行く二人がだ。
おかしい。絶対に喧嘩か何かしているはずだ。
しかもこの状態、放課後になってからだけではない。午後になってからずっとだ。休み時間にさえ、二人は一言も言葉を交わしていないのだ。
あの悠と、陽介がだ。
「確かに、当てられた花村君が鳴上君に助けを求めないなんて、異常だよね」
「その異常の感じ取り方もどうなの、雪子……」
午後一発目の授業で先生に当てられ、答えられずにあたふたした挙句、悠に助けを求めようとして言葉を飲み込んで大撃沈した陽介が頭を過ぎる。
……それはいいとして、雪子も言葉少なな二人を心配しているのだ。大事な親友まで心配させているのなら、放っておくわけにはいかない。千枝はもう一度大きくため息をつくと、たまりかねたようにずかずかと歩いていく。
「あーもう! 何があったか知んないけど、仲直りしちゃいなさいよ、アンタら!」
悠と陽介の席の間に立つと、千枝は唐突にそう怒鳴りつけた。
「さ、里中? いや、俺たちは別に喧嘩してるわけじゃ……」
「この状況のどこが喧嘩してないわけよ! 喧嘩じゃないんなら、この微妙な空気はなんなわけ?」
「微妙って……」
慌ててフォローを入れようとする悠を押し切って、千枝はもう一喝した。
「いつも一緒にいるのに、二人とも今日はなんかよそよそしいし。全然話さないから、なんか変だなって思って」
いつの間にか千枝の隣までやってきた雪子も、気遣わしげな微笑を浮かべて言った。
そうそう、と千枝が同意しながら、悠と陽介を交互に見た。そして、自分後ろに隠していたものを取り出す。
「何があったか知らないけど、ほら! これあげるから、元気出して仲直りしなさいよね!」
「あ、私も。ちゃんと二人ぶんあるよ。どうぞ」
雪子も続いて、鞄の中から可愛らしい箱を二つ取り出した。千枝のものは緑を基調に、雪子のものは赤を基調にした小箱だ。半ば押し付けられるように渡されて、二人は思わず千枝たちを見た。
「ありがたく貰いなさいよ! 一日遅れたけど、ちゃんとチョコレート用意したんだから」
そういわれた瞬間、反射的にぎょっとしてしまった。言うまでもなく、思い出したのは林間学校でのムドオンカレー事件である。
「ま、まさか、手作り!?」
もしそうだったら命が今日で終わりかねない。いい加減トラウマになっている陽介が、真っ青な顔をして尋ねた。悠は黙り込んで、両手の箱をどうしたものかと見つめている。あのカレー及びオムライス事件、ちょっとやそっとでは記憶から拭い去ることなど出来ないだろう。
しかしそんな二人を見て、女性二人は面白そうにくすくすと笑った。
「ちゃんと買ったやつだから、大丈夫だよ。 本当は昨日渡そうと思ってたんだけど、ほら、鳴上君が休みだったから。せっかくなら二人に一緒に渡しておきたかったし、今日になっちゃったの。ごめんね」
「そうそ。二人おんなじのにしようと思って、沖奈まで買いに行ったんだからね! アンタ達は二人とも大事な仲間だし、これからもよろしくーっていうのも込めて?」
大事な、のところにアクセントを置かれて、すこし照れ臭い気もしたが、純粋に嬉しかった。
「……ありがとう、二人とも。大事に食べるよ」
二つのチョコレートをしっかりと持って、悠が微笑む。な、と同意を求めるように、やっと悠が陽介を見た。陽介も、「おう」と短く返事をする。その様子に、雪子と千枝もほっとしたように顔を見合わせた。
「よかった。やっと話、してくれた」
本当にほっとしたような雪子の言葉に、二人はまた目線を逸らしてしまった。これではまた逆戻りしかねない。千枝は肩を落としてみせた。
「またもー……アンタ達、相棒なんでしょ。いつも一緒にいるじゃん。いつまでも喋らないとか無理に決まってんだから、お互い素直になんなさいよ!」
わかった? と、千枝は念を押す。勢いに気圧されて反射的にうなずいた二人に満足して、きびすを返した。
「よっし、じゃ、帰ろうか雪子」
「うん。じゃあね、二人とも。早く仲直りして、元に戻ってね」
雪子もにこやかに手を振って、リュックを背負った千枝の背中を追いかけていった。
「……だから、喧嘩とかじゃねーって……なあ?」
手元に残ったチョコレートをそっと撫でながら、陽介はそっけない声で言った。悠もすこし俯いて、あぁ、とかうん、とか曖昧な相槌を返す。
なんとなく、ぎこちない。本当に喧嘩していたわけではない。ただ、悠は昨日からのことが引っかかって、陽介は昼休みに見た光景が引っかかって、それぞれどうすればいいのかわからなくなっていた。
どうすればいいのか。どうするべきなのか。陽介のために。悠のために。自分のために。
考えれば考えるほど、終わりの無い考えばかりが浮かんできて、止まらなくて、何か話したらとんでもないことを口走ってしまいそうで、話すに話せなかった。
ふと、千枝のさっきの言葉が思い出された。
『アンタ達、相棒なんでしょ。いつも一緒にいるじゃん』
いつも、一緒。確かにそうだ。時間が見つかれば陽介と一緒にいるし、陽介も時間が許す限り、悠と一緒にいようとしてくれる。
それは、何も相手のためだからというわけではないはずだった。もちろん、悠は陽介のために何かしたいし、陽介も悠のために出来ることをしたいと思っている。
けれど、一緒にいるのは「悠が陽介と一緒にいたいから」であり、「陽介が悠と一緒にいたいから」だ。
『お互い素直になんなさいよ』
本当だ、と悠は思わず笑った。
「陽介。俺達も一緒に帰ろうか」
そして、まだすこしぎこちない様子で、陽介にそう言った。陽介もためらう様な仕草をしたが、すぐに頷いてくれる。
「だな。帰るか」
先ほどまでよりも随分と自然に、二人は連れ添って教室を出た。
***
二月の寒空を天井に見て、二人はいつもの道を歩いていた。とりあえずいくつか会話はつながったが、結局お互いが妙に遠慮をしている気がして、すぐにそれは途切れてしまう。
しばらくそうやって歩いていたが、やがて鮫川の近くまでやってきたとき、焦れたように切り出したのは悠だった。
「陽介。俺、謝らなきゃいけないことがあるんだ」
あまりに真剣な様子に、陽介は思わず立ち止まる。頭を過ぎったのは、言うまでもなく昼休みの光景だ。しかし、そこから続いた悠の話は、陽介の予想とすこし違っていた。
「昨日、渡してくれたチョコレート。あの中に、陽介宛のチョコが混ざってたんだ。昨日のうちに気付いてた。すぐに伝えるべきだったのに、しなかった。ごめん」
言って、悠は頭を下げた。目を丸くして立ち尽くす陽介に向かって顔を上げ、悠は続ける。
「伝えたくなかった。陽介に、読ませたくなかったんだ。女の子からの告白」
ごめん、ともう一度、悠はまっすぐに謝った。
自分と同じように陽介を見て、自分と同じように陽介を好きになった女の子。
でも自分は男で、彼女は女だった。堂々とバレンタインデーに手紙を渡し、好きですと伝えられる彼女がうらやましかった。焦がれた。自分はそれをするのにも、並々ならない勇気が必要だったのに、と。
それは何もかも、悠が陽介を好きだからしたことだ。それを正直に、告白する。
「……俺も、お前に謝ることある。昼休み、実は聞いてた」
今度は悠がぎょっとして陽介を見る番だった。陽介は困ったように笑うと、「ごめん」と言い添える。
「屋上で、お前があの子と親しそうに喋ってて、正直妬いた。すっげーお似合いじゃんとか、考えた」
ぴたりとはまった「正しい」とされる光景。自分にはあまり見せたことのない、女の子を労わる悠の笑顔。思い出しても心がひりひりする。
でも、と、陽介は突然一歩前に出て、悠の手をぎゅっと握った。
「俺たちの方がお似合いだよな?」
手の中にある悠の暖かさをしっかりと感じながら、陽介はおどけた口調で言った。
どんなにあの光景に後ろめたさを感じても、もしかしたらもっと幸せな道があったかも知れないと思っても、悠が今、選んでくれたのはこの自分なのだ。花村陽介だ。
陽介が選んで、悠も選んだ。お互いがお互いをこうやって必要としていて、想っている以上に何が必要だというのだろう。
悠はしばらく、驚いたように目を見開いていたが、やがてふわりと表情を崩して微笑んだ。
「ああ……そうだな」
くす、と少しだけ声を上げて笑って、陽介の手を握り返す。そして、名前のとおり花が開くように笑う陽介を見つめる。それだけで、こんなに幸福なのだ。
悠はそっとその手を解くと、鞄の中からひとつの包みを取り出した。
「これ、一日遅れだけど」
陽介の好きなオレンジ色の包み紙に入ったそれは、確認するまでも無い。バレンタインデーのチョコレートだ。
「手作り?」
「もちろん。本命は手作りだ」
上目遣いでいたずらっぽく尋ねた陽介に、悠は落ち着いた様子で答えた。すると、陽介も自分の鞄の中から浅黄色の袋を取り出し、悠の手の上に乗せて見せた。
「じゃ、俺からも。昨日渡してなかったから」
さすがに手作りは無理だった、とすまなさそうに言う。手作りも考えるには考えたが、悠のように上手く作る自信などない。自称特別捜査隊女子陣営の二の舞になるのだけは避けたかったので、無難に市販のチョコだ。もちろん、厳選はしたが。
悠はチョコレートの包みを大事そうに受け取ると、いつもよりもずっと幼い笑顔で微笑んだ。
一日遅れだろうと、気持ちが同じなら関係ない。
『ハッピーバレンタイン』
ひそやかに呟いて、お互いの手に渡ったチョコレートを見つめ、二人は笑いあうのだった。
***
翌日。陽介の姿は昨日と同じ、屋上にあった。
「ごめん!」
勢いよく頭を下げて、陽介は目の前の少女……陽介にチョコレートを渡そうとした少女に、言った。
「まずは、チョコレートのこと勘違いしてごめん。で、その、返事のほうも……ごめん」
そこまで言い終わってから、ゆっくりと顔を上げる。少女は半分以上予想していたのだろう、随分と穏やかな表情で陽介を見つめていた。
「でも、ありがとう。気持ちはすげー嬉しい。チョコも、大事に食うから」
「ううん。お礼を言うのはこっちだよ。ありがとう、花村くん。ちゃんと聞いてくれて、返事もくれて」
目を細め、さらさらと黒髪を揺らして少女は晴れやかに笑っていた。
「私きっと、そういう花村くんを、これからも好きでいるよ。もちろん、友達として。応援してる」
ありがとう、ともう一度言って、少女はゆっくりときびすを返す。
こつこつという階段を下りる音が遠ざかると、影からそっと、悠が姿を現した。表情には柔い苦笑が浮かんでいる。
「勿体無いことしたな。すごくいい子だったのに」
「だな。だから、あの子はもっといい男と付き合えるぜ」
悠の口調が冗談めいていたので、陽介も負けじと減らず口で返す。そして、突然悠の腰に手を回すと自分のほうへと引き寄せた。
「いーんだよ、俺にはお前がいるし!」
そのまま強く抱きしめようとしたが、その前に悠の指先が陽介の頬をちょん、とつつく。
「ああ。俺にも、お前がいるし」
そしてそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。
ああもうちくしょう、と思わず心で叫ぶほど。
大好きな人を抱きしめた、バレンタインデー翌々日のこと。