自宅主人公・日暮白夜。日暮白夜本編軸。
彼がメビウスに堕ちるまでの話。
* * * * *
むかしむかし、あるところに。
とても幸せな恋人たちがいました。
男の人は、女の人のことがこの世で一番好きでした。
女の人もまた、男の人のことがこの世で一番好きでした。
だから、この二人は世界で最も幸福な恋人たちでした。
二人の間には、とても難しい問題がたくさんありましたが、
男の人と女の人は、身分の差を乗り越えて、めでたく結ばれました。
そうして二人は、末永く幸せに――――
がしゃん。
「……………………」
硝子の割れる音がした。涼やかで鋭いその音は、否が応でも人の注意を引いてしまう。だからというわけではないが、俺はその割れた硝子をじっと見つめてしまっていた。
音の原因は、何の変哲もないコップだ。俺が渡したコップを、目の前の人が払いのけたのだ。
地面に叩きつけられて割れたコップから、中の水が溢れ出している。フローリングの溝に水がしみ込んで、広がっていった。
「おかあさん……ダメだよ。薬、飲まなきゃ」
なるべく低い声で、目の前の人にそう声をかける。しかし返ってきたのは「うるさい」という言葉だった。
「あなたも私がおかしいっていうの? 私が悪いって言うんでしょう、わかってるわ。私がおかしいのよね、私が悪いんだわ、だってみんなそういうもの」
最初は小さな声で、だんだんと声を張り上げて、その人は言う。そんなことはない。そんなはずはない。けれど、俺がそう声をかけても無意味だ。
この人が苦しんでいる原因は、他でもない、この俺なのだから。
「……ごめんなさい」
そう分かってはいても、どう償えばいいのかもわからない。どうしたら許されるのかもわからない。
すると、その人は俺に向かって手を伸ばしてくる。
「どうしてあなたが謝るの? あなたはいい子よ、だって私と、私が愛した人の子供なんですもの」
さっきとはまるでかみ合わない言葉と優しい声。この人が「俺」に語り掛けるときはいつもこうだ。
その言葉を聞くと、胸の辺りがぎゅっとなる。心臓を誰かに鷲掴みにされ、締め上げられているような錯覚を覚えてしまう。
凄まじい罪悪感だった。俺はこの人に嘘をついているのだ、という、どうしようもない罪悪感だ。
「うん、そう、だよね」
それでも。この人がこれ以上壊れてしまわないように、俺はそう答えるしか出来なかった。もう既に酷い罪を犯した後の俺には、それ以外の選択肢など許されていない。
硝子の破片を片付け、欠片を踏んでしまわないように掃除機をかけて、なんとか薬を飲ませて部屋に連れていく。全ての用事を終えた時には、全身に疲労感が付いて回っていた。
何とかそれでも身体を動かして、二階の自室へと向かう。ドアを開け、一歩中に入ったら、一気に身体から力が抜けた。どさり、とベッドに身体を投げ出すと、隣接していた棚がぐらぐら揺れた。
棚の上に置いた、インテリア替わりの瓶と、中に詰まったガラス玉がキラキラ煌めく。
棚の上に乗せた空き瓶は、ジャムの入っていたものをコツコツ洗って集めたものだ。ガラス玉は……単に、お小遣いで手に入って、透明であれば何でもよかった。せめてこの部屋では、透明で、美しいものに囲まれていたかった。
大好きな歌や、本。透き通った言葉や音に。
「(おかあさん)」
ベッドに顔をうずめて、もう一度心の中であの人を呼ぶ。
それは、いつの記憶だっただろう。
確か、三人で家族旅行に行ったときの記憶だったと思う。夏だった。海沿いの街に車で向かい、三人で海へ行き、さんざんはしゃいで、最後はお土産物屋さんで、何に使うのかと言われながら、砂と貝殻の詰まった小瓶を買ってもらったのだ。
初めてもらった小さな鞄にその小瓶を入れて、そこに宝物があることを何度も思い出しながら、俺は歩いている。俺の背はまだ二人の腰ほどもなく、必死に二人を見上げていたような気がした。
俺の右手をお母さんが、左手をお父さんが握って、俺が見上げるたびに優しく微笑みかけてくれる。
『おとうさん、おかあさん』
そう呼ぶたびに、頭上から優しい声が降ってくる。「なあに?」とか「どうした?」って、そんな、他愛のない声。たったそれだけのことがこの上なく幸福で、かけがえのないことだったと、今ならわかる。
『わたし、おとうさんとおかあさん、だいすき』
そういうと、二人は上の方で顔を見合わせて、それから楽しそうに笑っていた。そして二人で少しだけ顔を見合わせたあと、こちらを見下ろして、お父さんが抱き上げてくれる。
『俺もお前が大好きだよ』
『ほんとう?』
お父さんの言葉に、身を乗り出して尋ねた。お母さんが俺の頭を撫でて、こう言う。
『ええ、もちろん。だって、私と私が一番大好きな人との間の子供ですもの』
幸せそうな、幸せそのものの声で、そう告げる。
俺はきっと、それが誇らしかった。俺は、大好きな人が大好きな人と結ばれて生まれて来たんだと、そう言われるのがとても嬉しかった。それだけで、自分はこの世界に生まれてきた価値があるのだと、そう思えるくらい。
お父さんとお母さんは大恋愛だったんだから、と、ことあるごとにお母さんは語った。とても大変だったと。でも、愛した人と結ばれるためなら頑張れたのだと。
『いつかあなたも、この世で一番、大好きな人を見つけるのよ』
『いちばん、だいすきなひと?』
そう、とお母さんは俺の頭を撫でながら言う。その笑顔が、とても綺麗で、幸せそうで、満ち足りていて。
未だに、その笑顔よりも美しいものを、俺は見たことがない。
きっと二度と、見られない。
母が壊れてしまったのは、それからほんの数年後のことだった。
いや、きっと、もっと前から壊され続けていたのだ。俺がまだ幼く、鈍感で、何も知らなかっただけで。
俺が呑気に「わたし」として笑っている間に、母は完膚なきまでに壊されていた。同じ人が人のためにここまで残酷になれるのかと、目を見張るほどの悪意がこの世にはあることを知った。
母が、この世で一番大好きな人と結ばれるために要求されたものは、跡継ぎだった。
しかし、生まれた「わたし」はその条件を満たせず、それを知った時には全ては終わっていて、「わたし」に出来ることと言えば、これ以上母が壊れないように、母の前で「俺」になることくらい。
それが正しいとは、思っていない。
でもそれ以外に、償う方法など思いつかなかった。
はっ、として顔を上げた。時計を見る。一時間ほど時間が過ぎていた。
……どうやらうたた寝してしまったらしい。眠ったはずなのにまだ体はだるかった。ゆっくりと身体を起こして、自室を出る。
あの人が眠っていたらいけないので、なるべくゆっくりと、足音を立てないように階下へ降りていった。
ダイニングに降りていく。人の気配はない。まだあの人は自室で眠っているようだ。
「…………おとうさん、は……」
ダイニングのボードにかかれた予定を見る。今日の欄をみると、「出張」と書かれていた。明日まで戻ってこない。
その時、キィ、と玄関の方から何かが軋む音がした。きっと玄関のドアが開いているのだ。あの人が閉め忘れたのかもしれない。そう思って、玄関へ向かう。
リビングダイニングから続く廊下を抜けて、薄く光の漏れる玄関へと足を進める。やはり、思った通りにドアは半開きになって、外から陽光が漏れていた。
ドアノブに手をかけて――閉めようとした。その時、不意に心臓が高鳴る。
「(今なら、ここから出られる)」
出られる。この家から。おかあさんは寝ていて。おとうさんは、明日まで帰って来ない。
誰も見ていない。誰も止めない。俺は――わたしは。ここから出たら、自由になれる。
どっと、全身から汗がふきだした。じっとりと空気が重くなり、息が苦しくなる気がする。
このドアノブを回して、ドアを開いて、外へ出るのだ。そうしたらすべてが変わるし、すべてが終わる。この家から出たら――
「(この家から出たら、誰が俺を愛してくれる)」
バタン! と、ドアは勢いよく閉まった。俺自身が閉じた。内側から鍵をかけ、そのままドアノブを両手で握りしめ、崩れ落ちる。
ぱたぱたと、何かが床に落ちて弾けた。さっき零れた水とおなじように、隙間にしみ込んで消えていく。
無理だよ、と、声にならない声で呟いた。半分以上嗚咽になって、それ以上言葉が出てこない。
無理だよ。おかあさん。大好きなひとなんて、俺には一生出来ないよ。二人を置いて出て行くなんて出来ないよ。
いつかは来ないし、奇跡は起きない。
ハッピーエンドなんて、未来に続く無数の不幸を黙殺して語られるだけの、嘘ばかりだ。現実にはあり得ない。
お父さんとお母さんもそうだった。大好きな人が大好きな人と結ばれて、末永く幸せに暮らしました――それでよかったはずなのに。
嗚咽と一緒に零れ落ちるのは、いつも後悔ばかりだ。