自宅主人公・日暮白夜。綾辻探偵事務所三次創作。
鍵介×主人公。夫婦設定注意。
婚姻届けを出す話。
* * * * *
肌を刺すような寒さも薄れ始め、一息つける季節になった。暦上はもう春。ようやくその兆しが少しは実感できるかなという頃だった。
「……おはようございます」
「はよー。眠そうな顔してんなぁ」
そうはいっても冬は冬である。朝、出勤する際に感じる寒さやだるさが変わるわけではない。
しかし、上司の綾辻律は、そんな様子を微塵も感じさせず、にやにやと笑っている。一方、響鍵介は多くの一般人の例に漏れず、今日も眠さを押し殺して出勤してきたところだった。
「所長と違って、僕はごく一般的な人間なんで。普通に朝は眠いんですよ」
「おーおー。そりゃ悪うございました」
眠い頭を揺り起こしながら精一杯の皮肉を言うが、律はからからと気持ちのいい笑い声を残して奥へ引っ込んでしまう。のれんに腕押し。今に始まったことではないが。
ため息は一回で終わらせて、用意された自分の机に座る。机の端には、昨日残したままの書類が薄く積み上がっていた。残りは鍵付きの引き出しの中だ。
綾辻探偵事務所。名前からわかるとおり、先ほどの律が設立した私立探偵事務所である。
あの「幽体離脱症候群」の一件から約二年が経とうとしていた。二年、と言ってもそれは、鍵介や律たち「メビウス卒業生」からしてみればの話だ。社会問題、日本に蔓延した謎の病として正式な終息宣言が出されてからは、まだ一年あまりしか経っていない。
メビウスから「帰宅」した人々は、この地獄で、ぎこちないながらもそれぞれの現実を生き始めていた。
まず、律は会社を退職。それから裁判や細やかな手続きを経て、この探偵事務所を設立した。探偵業のほか、自らが苦しんだ過重労働の証拠集めを売りにしながら生計を立てている。 これが意外と天職だったようで、謎のカリスマ性を遺憾なく発揮し、弁護士事務所とのパイプも太く、評判も悪くない。
その頃、鍵介の方は復学と卒業、それから込み入った事情があり、親からの自立を急いでいた。そこに「一緒にやるか?」と声をかけてくれたことには感謝しかない。
……面と向かってそう言うと、絶対に「そうだろうそうだろう、もっと褒めたたえろ」と黒歴史を掘り返しながらイジられるのが目に見えているので、言わないが。
とかく。今は過去を振り返っている場合ではない。身内からの引き抜きだろうが何だろうが、仕事は仕事だ。今日もまた書類整理から。
「ほい」
席についてパソコンの電源を入れたところで、肩越しから手が伸びてきた。机の上には湯気を立て、芳しい香りを放つコーヒーが置いてあった。
「眠気覚まし」
「……ありがとうございます」
……はちゃめちゃだしすぐ人を茶化すけれど。しかしこの所長はどうしようもなく、いい人なのであった。
眠気覚ましのコーヒーを有り難く頂戴しながら、サクサクと朝のルーチンを終わらせていく。依頼の進捗状況確認と予定の作成、見積もりの作成や送信、届け物の手配や受け取り、電話対応。今はまだ律と鍵介の二人しかいないこの事務所では、事務作業も含めて鍵介の仕事は少なくない。
本当は純粋な事務員を雇いたいところだが、職場の性質上、「信頼のできる人材」でないとなかなか採用は難しいと律は言っていた。
そういう意味では、律の人を見る目は非常に厳しい。自らが人に使い捨てられた経験があるからなのか、人当たりがよく賑やかな人柄とは裏腹に、非常によく人を見、シビアに判断する。
そんな人に引き抜いてもらえたことは、鍵介にとって密かな誇りでもあるのだが。
「あの、所長」
その時、ふと鍵介がキーボードを叩く手を止めた。時刻はすでに昼前になっている。
「どした」
パソコンの画面から目を離すことなく、言葉だけで応答する律。手元には常備薬のようにコーヒーのマグカップが置かれている。これを切らすと集中力半減とは彼自身の言だ。
「婚姻届けって、保証人がいないと出せないんですよね?」
唐突な質問である。律もさすがに視線を鍵介の方へ動かし、怪訝そうな顔をした。そして手元のコーヒーを引き寄せ一口飲む。
「まあな。ってかそれくらい覚えてるだろ?」
結婚、離婚が原因となるトラブルは多い。探偵事務所に勤務している以上、必須事項と言っていい法的知識だ。鍵介も、別に知らないから尋ねたわけではない。
「まあ、そうなんですけど」
「なんだよ、誰か友達でも結婚するのか? 保証人頼まれたとか? それでしみじみ寂しくなっちゃったか~?」
にやにやと、完全にからかう体勢に入った律を一瞥し、鍵介は軽いため息とともに視線を逸らした。一時中断していたキーボード操作を再開する。
「そんなんじゃありません」
「悪かったって。元気出せ、な! 鍵介けっこう男前だし、お前にもすぐ春が来るって」
少々低めの声で否定すると、さすがにデリケートな話題だと思っているのだろう。律はいつもより早く冗談を引っ込めて軽く笑い飛ばした。だが、その気遣いもまた見当違いだ。
「あの、所長。言ってませんでしたけど。僕彼女いるんで」
カタン、とキリのいいところまで入力作業を終えて、手を止める。そして再度、律の顔を正面から見た。
「…………は?」
対して、ぽかん、と間の抜けた顔で鍵介を見つめ返す律である。
「というか、もうすぐ結婚しますんで。友達じゃなくて、僕が」
「………………………はぁ!?」
バリン、と結構な音を立て、律の手の中でマグカップが粉砕された。
「ちょっと! コーヒー!」
当然まだたっぷりと中に入っていた熱々のコーヒーがあふれ出す。それどころか、握った手の中でマグカップの破片が傷でもつけたのか、赤いものまで混じっていた。しかし、それくらいでは動じないのが律の凄いところで、怖いところでもある。
「いやいやいや、え!? なんて!? けっ……こ、けっこ!?」
「なにがコケッコですか、鳴いてる場合か!」
「だって結婚ってお前アレだよ!? 病めるときも健やかなるときもだよ!?」
「わけがわかりませんから! とりあえずコーヒー拭いてください! あと手! 血が!」
たった二人しか居ないはずの事務所内が騒然とし、かみ合わない叫びをぶつけ合う不毛な戦場になりつつあった。だからその二人のどちらとも、事務所の入り口が控えめにノックされたことに気付かない。
やがてノックの主は返事がないことを訝しがったのか、ドアノブを回したらしい。ドアががちゃり、と金属音を立てて開いた。
「あの、こんにちは。失礼しま……」
そうして声をかけられれば、さすがに騒いでいた律と鍵介もそれに気付いたらしい。ぴたり、と動きを止めてドアに注視したところで、
「………………!」
完全に恐怖に顔が引きつった少女と目が合った。
黒髪を短く切って、淡い色のセーターと真っ白なスカートを着た小柄な少女だ。
「あ、眞白これは!」
鍵介が律の手を離し、少女に向かって声をかける。眞白、と言うのが少女の名前らしく、少女はびくりと鍵介の言葉に反応した。
はっ、と律の目が探偵らしく輝く。
「あっ、ま、まさか鍵介の彼女……いや奥さん!?」
「ひっ」
しかし、コーヒーをマグカップごと粉砕し、しかも血まで流しながら近づいたものだから、少女は完全に引いた様子で、同じ分だけ後ずさる。
「ま、ま、まちがえました!!!」
年若い少女は恐怖に耐えかねたのか、とうとうドアを勢いよく閉じてしまった。
「待って! たぶん間違えてないと思うから待って!」
そうして一度に起きた異常事態に、律は完全にパニックに陥ったらしい。彼女をなんとか引き留めなければと必死でドアに取り付き、ドアノブを回しもせず力任せにドアを押してしまったものだから。
バキィ。と、再びひどい音を立ててドアが粉砕された。
「きゃあああああぁぁあああぁごめんなさいごめんなさいころさないでぇッ!」
「ほんとに何やってんだアンタ!」
果たしてバラバラとドアの破片を受けながら、少女は今度こそ涙をにじませ、腰を抜かしてしまったのだった。
***
事務所は、まるで参加者の少ないお通夜会場のように静まり返っていた。
「あ、あの……これ、もし良かったら、二人で……食べてください」
「あっ、は、はい、どうも、丁寧にありがとう」
そんな異様な沈黙に耐えきれなかったのか、話を切り出したのは少女からだった。脇に置いた紙袋から、おずおずと、手土産らしい菓子折りの箱を取り出す。その手はまだわずかに震えているような気がするが、無理もないだろう。つい先ほどまで腰が抜けて立てなかったのを、鍵介が助け起こしてようやくソファに座れたくらいなのだ。よほど怖かったに違いない。菓子折りを渡した後も、ちらちらと律の方を見ては視線を逸らすのを繰り返している。
律の方も落ち着きはしたが、怯えさせた原因たる自覚はあるのだろう。話を切り出しにくそうに俯いているばかりだ。
……こうしていても埒が明かない。鍵介は頭痛を堪えるようにこめかみに手を当てた。隣に座る少女を見て、ゆっくりと声をかける。
「眞白、大丈夫だから。さっきはパニックになってただけで、この人普通にしてれば無害だから」
「いや、さっきのはほんと、申し訳ない……」
鍵介の言葉に乗っかるように、律が再度頭を下げる。鍵介に言われ、少し緊張がほぐれたのか。それとも年上の男性に頭を下げられ恐縮したのか、少女はぶんぶんと首を横に振った。
「いえ、あの、こちらこそ失礼なことを言ってごめんなさい」
ころされるとか、酷いことを……と俯いて謝罪する少女。いや、あれは多分ほとんどの人が命乞いしてしかるべき場面だ、と心の中で言う鍵介だが。……さすがにこれ以上所長を追い詰めることもないので黙っておいた。
ようやくまともな流れに戻ったところで、少女がぺこりと頭を下げる。
「日暮眞白と、いいます。初めまして……その節は……その、一人暮らし出来るように、助けて頂いて、ありがとうございました」
年の割に、と言うと失礼かもしれないが、こんな年若い少女がするには、あまりに綺麗なお辞儀だった。いかにも「いいところのお嬢さん」という風に思える。
いいところのお嬢さん。日暮。一人暮らし。その三つのキーワードが、ぱちりと律の中で形を成した。
「ああー! あの時鍵介が相談しにきた子か! そっかそっか、ちゃんと家出られたんだな。よかった」
眞白は律の言葉に、嬉しそうに微笑んで頷いた。
今から一年とちょっと前。鍵介から、「友人が両親から虐待を受けている。本人は安全のために家を出たいと言っているが、法的にはどうしたらいいか」と相談を受けたのが初めだった。込み入った事情があることを感じていたので、律は必要最低限の情報だけを鍵介から教わって、いくつか「アドバイス」をしただけだが。
「長い間、きちんとお礼も出来なくて、すみませんでした。今日は、ちゃんとお礼に来ようと思って」
「いや、んなのはいいって。直接頑張ったのは眞白ちゃんと鍵介だし。ちゃんと離れられてよかったな」
はい、と小さく答えて、眞白は鍵介を見た。
それからさらに詳しく話を聞くことになったが、なんと眞白もメビウスに堕ち、更に「卒業生」だったのだという。しかも二人はメビウスにいた頃からちょくちょく会っていて、交際はメビウスにいた頃からだというから驚きだ。
「なんだよ鍵介、そういうのはもっと早く言えよ、水臭い」
「聞かれても無いのに、なんでわざわざ言う必要があるんですか。それに、所長だって眞白の家庭の事情知ってるでしょ。色々とデリケートだったんですよ」
そう言われると、確かに事情を知る律としては「まあな」としか言えない。
虐待問題は解決が難しい問題の一つだ。虐待の加害者側も被害者側も、そこに至るまでに千差万別な事情を抱えているため、病気に対する特効薬のような対応は存在しない。
さらに両者が親子関係だった場合、更に問題は複雑化する。この社会には親子にまつわる様々な法律や制度、そして何より「親子は出来る限り一緒にいるべき」という大衆の価値観がある。本来親子関係を守るためのものが、逆に虐待を受ける被害者はもちろん、長い目で見れば、加害者を追い詰めることにもなってしまうのだ。
日暮家の問題もその典型だった。鍵介が言う通り、デリケートな問題だけに判断は難しいが、眞白本人の希望もあり、律も真っ先に「現状から逃げること」を提案した。何より早さを優先させたため、多少強引な手段は使ったが、どうやら結果は良好だったらしい。
「あの時は半分くらい裏技で家出たわけだけど、これからどうするかって決めてんの?……あ」
と、そこまで尋ねておいて、自分で気付いた。そう、それで「婚姻届け」の話なのだ。
「そのこともあるんで、今日眞白に来てもらったんですよ」
はい、とまた控えめな声で眞白が肯定した。
「二人で、たくさん考えたんですけど。眞白が十八歳になったら、結婚しよう、って決めました」
意外なことに、そう告げる鍵介の声に、手放しの幸福感や浮足立った様子は感じられない。眞白の方も、曖昧に微笑んで鍵介の横顔を見つめているだけだ。嬉しさも、不安も、いろんなものが混じった笑み。
手放しで喜んでばかりではいられないのは、現実を生きているからだ。二人で生きていくということが、楽なことばかりではないと、わかっているから。
「それで保証人、な」
婚姻届けの保証人欄には、たいてい両家の父親か母親が名前を書くことが多い。そうでなければ親戚か。けれど、鍵介はともかく、眞白側の両親が素直に書いてくれるはずもない。親戚など言うまでも無しだ。そもそも、眞白の両親が彼女を虐待するほど追い詰められた原因は、彼女の親戚にある。
となると、次にお鉢が回って来るのは、二人の仲をよく知る友人たちになる。婚姻届けの保証人は、血縁者でなくとも問題はないはずだ。
「それで、眞白に聞いたら所長がいいって言うから」
「えっ、俺?」
唐突に出た自分の名前に、律は再度素っ頓狂な声を上げる。しかし、慌てる様子もなく眞白は「はい」と言う。
「律さんがいなかったら、わたし、まだあそこにいたかもしれない」
そう言いながら俯く眞白の手を、そっと、自然な仕草で鍵介が握った。それを握り返して、眞白が顔を上げる。
「それに、鍵介からお話を聞いて……律さんだったらきっと、ダメだったらちゃんと言ってくれると思ったんです」
あなたはきちんとした大人だから、と眞白は、ゆっくりと一言一言、言葉を紡いでいく。
鍵介と眞白。今年の誕生日を迎えても、二人はまだ二十一と十八だ。眞白など、まだ律の人生の半分と少しを、ようやく生きたに過ぎない。もちろん、生きた時の長さだけが人ではない。しかし、年月に比例する経験が、人格を構成する重要な要素の一つであることもまた、真実だ。
「僕たちは、本当に簡単に、間違えますから」
現実でも、なんでも理想の叶うあのメビウスでさえ。思い悩み、つまづいて、ちょっとしたことに絶望し、逃避して。そして立ち止まってしまう。
「二人でちゃんと、時間をかけて考えたことです。でも……最後に、信頼できる人に、確かめたかったんです」
これは二人の人生を左右することだから。その重みについても、十分わかっているから、最後は信頼できる誰かに保証がほしい。出来れば、それは一番助けが欲しかった時、手を貸してくれた大人であればいいと思った。
「お願いできますか、綾辻所長」
鍵介に言われ、そこまで沈黙を守っていた律は、どこか照れくさそうに目線を逸らして、頭を掻いた。
「……まあ。これでダメ、って言ったら、俺も焼きが回ったな、って感じだよ」
そんな、持ち上げられるほど大人じゃないよ、と付け足してから。
「なんだ。その。おめでとう、二人とも」
その返事に、二人は目を合わせ、今度こそ幸せそうに笑うのだった。