足立×主人公。
きりぅの既刊「霧雨と傘を借りて」TIPS。
* * * * *
僕の猫は、冬になると夏への扉を探し始める。
かつて彼は、扉のどれかが、きっと夏へと通じていると信じていたのだ。
今はもう、どの扉を開けても、その先には凍えるような冬が待っていると知っている。
……それでも彼は、今日も夏への扉を探し始める。
***
ふと目を開けると、薄暗く不鮮明な天井が見えた。回らない頭は一秒くらいで覚醒して、それが自分の部屋の天井であると理解する。
視線を動かし部屋を見渡す。色彩に乏しい部屋。掛け布団の中のぬくもり。ああ、夢を見ているな、と何故か理解できた。
「あの子」を連れてきたときから、時々こういうことがある。だから、もう足立は驚くこともなかった。
こういうのも明晰夢、と言うのだろうか? あれは自分で見ている夢をコントロール出来るというものだが、これは違う。だったら、これは何だろう。
「…………?」
ふと、自分の隣に寄り添っていた温もりが、消えた。温もりは黒い姿をしていて、カーペットをぺたぺたとささやかな音を立てながら移動している。
子猫だ。真っ黒い、そして金色の目をした子猫。
「ゆー」
足立が溜息混じりに名前を呼ぶ。そして、子猫を追ってベッドを出た。
子猫が通った所を、そっくり足立がなぞって歩く。さして広くもないマンションの一室だ。見失うことはあり得ない。それでも夢の中での足取りは幻想じみて、現実感がない。
……時々、こういう夢を見る。起きた瞬間、夢だと理解できる夢。そしてそんな夢には、必ずこの黒い子猫が現れる。
あの子、「鳴上悠」を助けたあの運命で、自分を導いてくれた黒猫だ。悠自身に自覚は全く無いようだが、恐らく彼の深層心理か何か、だと足立は思っている。猫は喋らないので、恐らく一生自己紹介は無いだろうが。
冷蔵庫のぶうんという音と、窓から夜明け前の澄んだ気配がした。子猫はリビングを横切って、そのまま廊下へと出ていく。
廊下の先には、もう玄関しかない。帰宅した時に足立がそろえた靴はそのまま、傘立てにはコンビニのビニール傘が一本。
黒い子猫は足立の靴を踏みつけて、そのまま玄関のドアの前に座った。
「………………」
そして、足立を振り向いた。金色の目が、じいっと足立を見上げている。
足立は溜息混じりに、頭を掻く。
……別に靴を踏まれたからと言って怒る気はなかった。子猫の足は綺麗なままだ。どんな土も踏んではいない。
この子猫は、ここに来てから外に出たことが無いのだから。
なーぅ、と子猫が鳴いた。金色の目が、何かを強請るように足立を見上げる。
「……ゆー」
猫の名前を呼んで、足立は立ちつくした。
窓を振り返る。外は、もう木枯らしが吹く季節だ。壁に掛かったメモ書きだらけのカレンダーは、もう十月まで進んでいた。
「出たいの?」
足立は首を傾げ、子猫に尋ねた。子猫は黙って、ドアを見上げる。
「もう、冬だよ。ゆー」
だから、だめだよ。最後の言葉は言えなかった。夢の中だと分かっていても、なんだか残酷が気がして。
このドアの向こうには、冬が広がっている。小さな猫は、きっとすぐ凍えてしまう。やっと暖かな場所でうずくまることを覚えたばかりなのに。
……鳴上悠は、強い子だ。意思も、力も、心も。なまじ強いばかりに、何度も何度も凍えるような運命を越え、立ち向かい、歩き続けた。足立が「もういいよ」と言って止めるまで、ボロボロになっても歩き続けた。
歩き続ける先に、夢見た夏があると信じていたから。まるで、有名な小説に出てくる主人公と相棒みたいに。だから、誰かが止めてやらなければ、また無理をする。
子猫は、もう一度だけドアの方を見て、それからくるりと踵を返した。そのままするり、と足立の足下にすり寄る。
足立はかがみ込んで、子猫の背を撫でてやった。
……賢い子だ。この先にあるのが冬だと、きっと彼には分かっている。彼は、凍えた記憶のある猫だ。
でもどうしようもなく、寂しがりで、弱くて、我慢の上手な猫であるものだから、夏の記憶も捨てられない。
この扉は。この運命は、夏へは続いていない。どの扉も、もう彼に夏を見せてはくれない。
『鳴上』
『鳴上くん!』
あの真夏の、眩しいほどの声。仲間達に囲まれて、眩しげに、幸せそうに笑っていた悠の顔を、思い出すことも出来る。
あの時の彼は、まさか彼らが裏切ることがあるだろうなんてこと、これっぽっちも思っていなかっただろう。
そしてまさか、その結果、こんな所に来るだろうなんてことも。
足立の足下をすり抜け、子猫はもう一度、ベッドに戻っていった。足立がどけた掛け布団の下に丸くなったが、足立がいないので、寒いとでもいいたげに鳴いている。
「(……猫の時は、けっこうワガママなんだよね。現実でもそれくらいなら、いっそ安心なんだけどなぁ)」
はいはい、わかったよと含み笑いでベッドに戻る。子猫を抱き上げ、膝の上に乗せた。
子猫は足立の両手にちょっと余るくらいしかない小さな猫だ。初めて見た時から、子猫はいっこうに成長しない。
子猫を膝にのせ、布団を掛ける。そしてまたその背中を撫で、喉を掻いた。やがて、子猫は気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らし始める。
足立の視線が、もう一度壁掛けカレンダーに向いた。
十月。もう少ししたら、こうやって暖めてやることも出来なくなる。本当の冬が、この子を襲う。
そうしたら、この子はきっと一人で、また夏への扉のことを考えるだろう。その先にあるのが冬だと承知した上で、一人、あの眩しい思い出を思い返して傷つくのだろう。
「……夏への扉は、無理だけど、さ」
それ以外への扉なら、用意してあげられるかな。
呟いた言葉に、猫は反応しない。足立の膝で、規則的な寝息を立てている。
君が欲しいものを。夏はあげられないけど、せめて、キミが焦がれたものをひとつ。
参考文献:「夏への扉」(The Door into Summer)ロバート・A・ハインライン