主人公×花村。
泣かないが泣けないに変わってしまった陽介の話。
* * * * *
よく晴れた日だったと思う。
穏やかで暖かな日射しの下で、一人の子供が大声で泣いていた。空は文句の付けようもない晴天なのに、その子の周りだけ見事に土砂降りで、大きな瞳からぽろぽろと涙を零している。
「……っく、ひっく……」
あまりに泣きすぎるものだから、時々息が続かなくなってしゃっくりを上げる。しかし、息を吸い終わるとまたこの世の終わりみたいに泣き出すのだった。
やがて子供は、自分の家の玄関まで歩いて戻ってきた。ぱたぱたと誰かの足音がして、玄関がからりと開く。
「あらら。どうしたの」
優しい声色で子供を迎えたのは、母親だった。子供と同じ色の髪をふわりと揺らし、子供の目線が自分と合うようにかがんでやる。
母親が出迎えてくれてほっとしたのか、子供はますます大声で泣き出してしまった。
仕方ないわね、というような表情で微笑むと、母親はそっと子供を抱きしめ、背中を撫でた。
「お、おかあさ……っひっく」
「はいはい。まあ本当に大雨だわ」
やっと子供が涙声で話し始めると、母親は苦笑して息子の顔を覗き込む。もう顔中涙まみれで、いっそ見事と言っていい泣き顔だった。
どうしたの、ともう一度尋ねると、子供はなんとか顔の涙を腕で拭ってから、話し始める。
「き、きらいって、いわれた。もう、おれとはあそばないって、いった」
せっかく話し始めたというのに、後ろの方がまた涙声になってしまって、透き通った目からまた新しい涙がこぼれて来た。
この年頃の子供の話を解読するのはちょっとコツがいるが、母親なら慣れたものだ。どうやら友達と派手にケンカをしてきたらしい。
話したら「嫌い」と言われたことを思い出したのか、子供はまた大きな声で泣きだしてしまった。
母親は暫く息子の頭を撫で背中を撫でとやっていたが、やがて小さく溜息をついて、涙に濡れた顔をハンカチで拭き始める。
そして、息子の綺麗な、透き通った瞳を覗き込んでこう言った。
「もう泣かないの。泣いてたら、また意地悪言われちゃうわよ。笑ってみなさい。そうしたら、もう嫌いなんて言われないから。ほら、お日様だっていつも笑っているでしょう? だからみんなお天気の日が好きなのよ」
子供特有の柔らかな頬を両手で包み、母親は暖かな笑みを浮かべた。
子供が、不思議そうに青空を見上げた。そこには、さんさんと輝くお日様が笑っている。
「だから陽介も、いつも笑っていなさい。そうすればみんなに好きになってもらえるわ」
ほんと? と子供は不安そうに尋ね返した。母親は優しい笑顔で、もちろん、と答えた。
わらっていなさい、陽介。そうすればみんながあなたを好きになってくれるから。
……耳元でやかましくベルが鳴り響いていた。
うっすらと開いた視界と、ぼやけた思考が、朝だと告げている。深く息をついてから、陽介は起きあがった。
「夢か……」
あくびをかみ殺しながら、携帯の目覚まし機能を止め、窓の外を見る。
昨日閉め忘れたせいでカーテンは掛かっていない。今日は、雨の降り出しそうな曇り空だった。
***
朝の学校は慌ただしい。あちこちで、おはよう、おはよー、と挨拶を交わす声、バタバタと教室へ誰かが駆け込んでくる足音、遅刻間際の友人を窓から冷やかすなど、さまざまな音で溢れている。
「……はー、だりぃなー」
陽介は誰に言うでもなく呟いて、机に突っ伏していた顔を上げた。
今日は珍しく、始業よりもずいぶん早く学校に着いた。普通は手放しで自分を褒めてやりたいところだが、夢見が悪くて早起きしてしまっただけだし、どうも落ち着かない。加えて今になって眠くなってきた。
あの夢は、だいぶ前に……それこそ小学生になるよりも前だろう……本当にあったことだ。
今となってはもうあまり思い出せないのだが、小さい頃の陽介は酷く泣き虫だったらしい。それを見かねた母親が、「男の子なら簡単に泣くんじゃありません」的なたしなめとして言ったのだろうと思う。
しかし、それを今でも律儀に覚えている自分は、あの言葉に何か思うところがあったのだろうか。今でも人前で涙を流すことは酷く恥ずかしく、やってはいけないことのような気がしていた。
確かに泣き虫な奴というのは大抵面倒なもの扱いされるし、それが男子のグループなら尚更だ。結果、泣かなくなった陽介の周りはそれなりに友人が集まることになり、奇しくも母親の忠告の正しさを証明することにもなってしまった。
「おー、花村。珍しいじゃん、いつも遅刻ギリギリなのによ」
その時、クラスメイトのからかうような声が降ってきた。いつもと違うことをすると、こうなるのはもう必然だ。
陽介は今日何度目かの気安い笑みを浮かべ、言い返した。
「だろ? 俺だってたまには本気を出しますよ?」
「たまには、ってほんとにお前はたまたまだからなー」
「ひでえ!」
クラスメイト達は大げさに嘆く陽介をからからと笑ってから、自分たちのグループへと戻っていく。
……クラスメイトの背中を見送ると、陽介の頬から力が抜けた。そして、また机に顎を乗せてぼんやり黒板を眺める。
「おはよう、花村」
続けざまに、落ち着いた声が陽介を呼んだ。陽介は思わず顔を上げる。
「ああ、おはよ、月森」
端整な顔立ちを少しだけ笑みの形にした転校生が、そこに立っていた。陽介が挨拶を返すと、孝介は小さく頷いた。
「今日は早いんだな」
「あー、なんか早く目が覚めちまってさ。俺もたまには早起きしねーとな」
「ふうん。いいんじゃないか、たまには」
他のクラスメイトのようにからかう素振りもなく、孝介はクールに言った。
鞄を置いて、陽介の前の席に座りながら孝介がまた振り返る。
「ところで、今日は午後から雨だし、テレビの中に行かないか?」
言われて陽介は教室の窓から外を見た。
朝と同じ、どんよりとした曇り空だ。この調子なら、天気予報通り午後から雨になるだろう。孝介の言うとおり、雨の日はテレビの中の探索をするのに効率がいいので、いつもなら二つ返事でOKするところだ。
だが、陽介は横目で少し外を眺めてから、へら、とした笑みで首を横に振った。
「ごめん、今日はちょっと無理」
「……用事か?」
少し残念そうに孝介は尋ね返す。少し心が痛んだが、しょうがなかった。
「ちょっとな」
ほんと、悪い。と陽介は続けて、微笑んだ。
その時、孝介がひどく驚いた顔をしたような気がしたが、普段からあまり表情を変えない彼はすぐに元に戻って、そうか、と納得してくれたようだった。
「なら、別の日にしよう」
「別に俺抜きで行ってもいいぜ? 雨の日に行く方が効率いいだろ」
「そこまでして行きたいわけじゃない。今は事件も起こってないしな。気にするな」
孝介の言葉が終わると同時に、始業のチャイムが鳴り響いた。
友人の背中がくるりと半回転して、正面を向く。陽介もそれ以上は食い下がれず、またぼんやりとした視線をその背中に向けた。
「(午後からは雨、か……)」
ついてねえな、と陽介は溜息をつき、苦笑した。
「あの時」から、陽介には家族以外の前で泣いた記憶が無い。あったかも知れないが、少なくとも覚えていない。
いつでも笑っていなさいと言った母親の言いつけを、律儀に守っているつもりはなかった。ただ、笑っている方が人が集まって来やすい。それだけのことだ。
一人より、大勢の中にいるほうが安心する。面倒くさくないクラスメイトの一人として、安穏に、平和に、笑っていられる方がいい。
それに何より、笑うのは、泣くよりずいぶん簡単だ。
だから花村陽介は、今の今まで、へらへらと、ただ何を考えることもなく、笑ってきたのだと思う。
その何も考えない愚か者に、お天道様は罰を与えたのだろうか。
大好きな先輩が死んだ日。花村陽介は泣くことが出来なかった。
***
授業が終わると、陽介は慌ただしく身支度を整え、教室を出た。
いつもなら孝介と一緒に帰ることもあるが、今日は別だ。むしろ誰にも見咎められたくなかったので、孝介にも行き先は告げなかった。
右手にはオレンジの傘。予報通りに午後から降り出した雨は、ゆるゆると降り続いて肩を濡らしている。
「間に合うかな……」
誰に言うでもない独り言を呟いて、陽介は小走りに商店街への道を辿った。
補修が追いつかない田舎のアスファルトに、いくつもいくつも水たまりが出来ている。高校の指定靴でそれを蹴りながら、ようやく目的地にたどり着いた。
遠くの方に、「小西酒店」という看板が見える。辺りには、黒い喪服を着た人々がしずしずと歩いていた。喪服ではない他の人も、傘の向こうで痛ましげな視線を送っていた。
今日は、小西早紀の葬儀の日だった。
春先。進級したばかりの彼女は、殺人という理不尽な理由でこの世を去らざるを得なかった。彼女の死は平和だったはずの田舎町に暗い影を落とし、また、憧れから成長を遂げたばかりの恋心を抱いていた陽介にも、酷いショックを与えた。
「(先輩)」
そう呼べば、まだ、花ちゃん、と答えが返ってきそうに思うほど、その死は急で。
本当にもういないのだろうか、誰も見つけられていないだけで、彼女はどこかに隠れているのではないかと、今だに思うほどだ。
そう期待するたび、小西先輩はもういない、という自分自身の声が心の中に反響して、小さく痛む。
しかしどんなに痛んでも、涙は溢れてこなかった。
「……、………………」
ふとその時、雨音に混じって誰かの声が聞こえた。
思わずそちらを向こうとしたが、反射的に動作を止める。
「……ら、あの……ジュネスの……」
「ああ……」
「バイトしてたっていう?」
聞こえないふりをした方がいい声だ。陽介は言葉の切れ端だけで理解した。傘を握り、首元に寄せて、視線を前に向けたまま、微動だにしない。
「相当怒ってたみたいよ、ご主人。時々怒鳴ってたって」
「そりゃあそうでしょう。商店街はみんな、ジュネスのせいで大変だって言うのに」
「困ったものよねえ。これからどうするのかしらねえ。どんなつもりで来てるのかしらね」
好き勝手な言葉を並べ立て、野次馬達が話している。陽介はきゅっと唇を結んで、足に力を入れて立っている。
「(あー、うるさいな……)」
ぼんやりと思う。それは激しい憤りなどではなく、ただ、周りにざわつく雑音がなんとなくうるさい、と言う程度の感情だった。
生きている限りは聞かなければならない雑音。耳をふさげば楽になれるが、おおっぴらにふさいでしまうと、「その程度のことで」と周囲に冷ややかな目で見られる。だからじっと、聞こえないふりをしているのが正解なのだ。
ふ、と息を吐いて、陽介は疲れたように笑った。見上げた視線の先で、オレンジ色の傘の上を雨粒がつうっと滑っていく。
こんな時でさえ、笑えるのに。こんな時でさえ、自分は泣けないのか。
大切な人だったはずだった。それなのに、そんな人の葬儀に来ても、泣けない自分はなんなのだろう。
そんな自分は酷く薄情で、薄っぺらな人間のような気がした。
そんな自分を誰にも見られたくなかった。だから、誰にも見咎められないように一人で来たのだ。
……その時足音がした。ぱしゃん、と。水たまりを蹴る音に振り返る。
雨と傘を隔てた先に、見覚えのある顔が見えた。
「月森」
呆然と、その名前を呼ぶ。月森は何故か、陽介がこちらを見たのに酷く驚いていたように見えた。それから眉根を寄せて、どこか不機嫌そうな顔をする。
ずっと見られていたのだろうか。そう思うと、さっと、羞恥だか、後悔だか、区別の付かない感情が心を支配した。
しかしそんなことをおくびにも出さないように、陽介はいつもの軽薄な笑みを浮かべる。
「なんだよ、びっくりしただろ。来るならそう言えって。あー、もしかして、俺超みっともないとこ見せたんじゃねえ?」
あはは、と小さく声を上げて笑うと、孝介はそれには乗らずに少し俯いて見せた。
「いや、なんかほら、今日が先輩とお別れの日っての、知ってたんだけどさ。絶対へこむだろ、俺。だからなんつーか、黙って来たっていうか」
焦る気持ちをなんとか静めようとして、矢継ぎ早に言葉を重ねる。
しかしダメだ。どんどん深みにはまっている気がする。自分はちゃんと笑えているだろうか。元気に見えるよう振る舞えているだろうか。
泣けないのなら、笑うしかないのに。嫌われたくないのなら、笑っているしかないのに。
やがて、孝介がその鋭い瞳をまっすぐに陽介に向け、口を開いた。
「花村」
その手が、すうっと伸びて、陽介の手を掴もうとする。瞳はずっと陽介を捉え続けていた。
全てを見透かしているような、親友のその視線に陽介は耐えられなくなって、反射的にその手を避けてしまう。
孝介の手が、さっきまで陽介の手があったところをすり抜け、空を切った。
「悪い、俺、帰る」
かろうじて「ごめん」と付け足したが、孝介の顔を見る勇気はなかった。陽介はそのまま踵を返し、ばしゃばしゃと水たまりを蹴って走り出す。
後ろから自分を呼ぶ声がした気がしたが、振り返ることは出来なかった。ただただその場から逃げ出したくてたまらなくて、ひたすら地面を蹴って走った。
今、孝介から与えられるものが、慰めでも、同情でも、同意でも、そのほかのどんなものだったとしても、耐えられない気がしたのだ。よりにもよって、一番みっともないところを見られたくない奴に出会うなんて。
まとわりつく湿気が気持ち悪い。傘から滑る雨粒が、髪を、肩を、靴を濡らす。
「(苦しい)」
ばしゃばしゃと水が跳ねる音だけが聞こえる。
「(辛い、悲しい)」
足が止まり、陽介は顔を上げる。目の前には、自分の家がある。なんとかここまで帰ってこられたらしい。
なりふり構わず走ったせいで体はもうずぶぬれで、傘の意味などほとんど無かった。
こんなになっている自分が情けなくて、情けなくて。孝介の前であんな態度を取ってしまったことも、後悔していた。しかしそれを心の奥の自分が押し込める。
それでも笑うのだ、と。
「(……嫌われたくない、あいつにだけは)」
浮かぶのは孝介の顔だった。雨の中、驚いたような、そして不機嫌そうにしていた孝介の表情を思い出す。
笑っていなさい、陽介。お日様みたいに笑っていなさい。
「(そうすれば)」
そうすれば、もう辛いことも苦しいことも来ないのだと思っていた。みんなに囲まれ、穏やかに笑っていられるのだと思っていた。
なのにどうして今、こんなにも苦しいのだろう。
あの日と世界は見事に逆さまで、泣けない自分の上で、空が大声で泣いていた。
***
それは、春の暖かさをまだ少し残した、雨の日のことだった。
天気予報が前日に伝えたとおり、空には雨雲が厚く浮かび、しとしとと雨が降り続いている。
商店街へ向かったことは、本当にただの偶然で、気まぐれだった。そしてそこで彼を見つけたことも。
「……花村?」
補修の追いつかない田舎のアスファルトを雨水が滑り、まるで鏡のように見せている。そんな商店街の片隅に、陽介が立っているのを見た。「小西酒店」と看板が掲げられた店の前を、喪服を着込んだ人々が出入りしている。
その二つを見れば、すぐに合点がいった。小西早紀の葬儀が行われているのだ。
陽介は少し離れたところに、ただ立っている。だがきゅっと唇を結び、何かに耐えるように眉根を寄せていた。
……涙一つ流さないその険しい表情が、逆に痛ましく思える。
思わず声をかけようとしたとき、あちこちから心ない声が聞こえてくることに気付く。
「商店街はみんな、ジュネスのせいで大変だって言うのに」
「困ったものよねえ。これからどうするのかしらねえ。どんなつもりで来てるのかしらね」
物陰から聞こえてくるそれは、商店街の一角にかたまった主婦らしい人々のものだった。
言葉の意味を理解した瞬間、すうっと背筋が寒くなる。それから、そこにありったけ込められた悪意に頭が熱くなった。
「(……酷い)」
決して自分に向けられた悪意ではない。けれど、それは友人に向けられた敵意だった。そして当事者である陽介には、相当辛いものだろう。
陽介はやはり俯いて、苦い顔をしている。一瞬口元が震えて、目がすっと細められた。
泣き出しそうな、表情。
しかしそれは一瞬のことで、陽介はすぐに表情を消し、諦めたように、疲れたように笑った。
……それを見た時の気持ちを、どうやって言い表せばいいだろう。
ぽつぽつと、緩やかに傘を打つ雨音。頬を撫でる湿気った空気と、憤りで熱くなった頭。周りの音ばかりがうるさく聞こえる。
雨粒越しに見た陽介の笑顔は、どうしようもなく切なかった。悲しい。辛い。でもしょうがない。辛い思いをしているのも、何かがうまくいかないのも、自分だけではないのだからしょうがないと、必死で自分に言い聞かせていた。
力無く笑うその表情を見て、ああ、陽介は泣きたいのだと、悲しくてたまらないのだと、理解できた。
悲しみを閉じこめたまま笑う、ただそれだけのことが、どうしてこんなにも切ないのだろう。学校で見た陽介とも、仲間として見た陽介とも、そのどれとも違う、孝介がまるで知らない陽介の笑顔だった。
足を踏み出し、歩み寄ろうとしたのは、ほとんど無意識だった。ぱしゃん、と足が水たまりを蹴り、その音に陽介は振り返った。
「月森」
こちらを見た陽介は、酷くうろたえていて。
「なんだよ、びっくりしただろ。来るならそう言えって。あー、もしかして、俺超みっともないとこ見せたんじゃねえ?」
早口にまくし立てながら、いつもの笑みを浮かべていた。孝介が知っている、陽介の顔だった。さっきまでのあんな切ない表情を、すっかり無かったことにしようとしている。
そう感じ取った瞬間、自分でも分からないうちに名前を呼んで、手を伸ばしていた。
「花村」
その笑顔は嘘なんだろう。だってさっきはあんなに辛そうだったじゃないか。俺の見ていないところでは、あんな顔をして笑うのか。誰も見ていないところで、あんな風に独りで耐えているのか。
そんな焦りのような、苛立ちのような気持ちが溢れてきて止まらなかった。
「悪い、俺、帰る」
しかし、孝介の手はするり、と陽介の手のあったところをすり抜け、空を切った。
「待て、花村っ」
呼び止める声にも振り返らないまま、ごめん、と消え入るような声で呟いた陽介が、水たまりを蹴って駆け出す。
あの時、引き留められていれば、何かが変わっていただろうか。あの不思議な苛立ちは収まっていただろうか。
しかし結局、出会って一ヶ月ばかりの孝介は、あの日の陽介を引き留められるほど近しくはなく。そして、それが驚くほど悔しかった。
酷く乾いた、あの危うい笑顔を崩して、自分の前で思い切り泣かせてやりたい。それほどに近しくなりたい。
あの時そう思ったのだと陽介に告げたら、どんな顔をするのだろうか。
***
目を覚ますと、もう雨は止んでいた。カーテンを開けずにそうと分かったのは、あれほど激しかった雨音が止んでいたからだ。
きっかり二十分は二度寝してから、陽介は名残惜しそうにベッドから這い出す。
いつも通りの朝だった。
やかましく鳴っている目覚ましのスヌーズ機能を切って、いつも通りの手順で支度を整える。一番時間の掛かる髪を整えるついでに、陽介はじっと、鏡に映る自分の顔を見た。
「いつも通り、だよな」
髪型に納得がいくと、少しだけ笑ってみせる。鏡の中の自分も、思った通りの笑顔を浮かべた。
大丈夫だ。昨日の自分はもういない。いつも通り、だ。
「(昨日のこと、月森に聞かれないといいけど)」
心の奥にひっかかった、昨日の孝介の顔をふと思い浮かべる。少しだけ、玄関へ向かう足が止まりかける。
しかし即座に、そんな自分に苦笑してかぶりを振った。今日孝介を避けたからといって何が変わるだろう。また明日、同じことで足を止めるわけにはいかないのに。
「いってきまーす」
陽介はヘアブラシを洗面台横に置くと、廊下に置いた鞄を掴んで玄関へと走り出した。
いつも通り、始業のチャイムギリギリで教室のドアを開ける。
騒がしさはそろそろピークを迎え、生徒達はあちこち動き回っては思い思いのことをしていた。陽介もそれに紛れ、そそくさと自分の席に向かう。
「おはよう、花村」
声がして、そちらを向くと孝介が穏やかに微笑んでいた。思わず心臓が跳ねる。
どうする。昨日のこと、こっちから話題にしするべきだろうか。
押し黙っていると、ふいに孝介がくす、と小さく笑った。
「寝癖ついてる」
「え、嘘!?」
ちゃんと鏡見たのに! と思わず頭を押さえると、
「嘘。ほら、先生来るぞ」
孝介はあっさりとそう言って、くるりと背中を向けてしまった。何か言い返そうとした瞬間、がらりと教室のドアが開いて、担任のモロキンがずかずか踏み込んできた。さすがにそのまま騒ぐわけにもいかず、陽介は自分の席につく。
孝介の背中を見つめながら、ぼんやりと、孝介は昨日のことに触れる気はないのだと思った。
昨日見た不機嫌そうな表情は、自分の見間違いだったのかも知れない。そうだったらいい。
安堵だか何だか分からない溜息を一つついて、陽介はただ、孝介の背中を見つめていた。
……そうやって安心していたのは自分だけで、すっかり外堀を埋められていたのだと気付いたのは、ずいぶん後になってからだった。
春が過ぎ、夏が過ぎようとした頃には、孝介との距離はずいぶん縮まっていた。相棒、親友、と呼んでももう違和感が無い程に。
今まで誰にも話さなかったようなことも、孝介には話してしまう。口に出すことさえためらうほど、小さなことも。自分でも言葉にするのが難しいくらい、複雑な気持ちも。
ただ黙って陽介の話に耳を傾け、短く、でも誠実な言葉で返してくれる孝介の隣は、本当に居心地が良かった。
「陽介」
花村、と呼んでいた孝介が、そう呼ぶようになってからは特にそうだ。まるで坂道を転がり落ちるようだった。
口数は少ないくせに、本当に孝介は陽介をよく見ていて、時折どきりとすることも多い。
それでも、「それ」を言われるまでは逃げていられたのだ。
それはいつのことだっただろう。たぶん、ジュネスで二人で話していて、いつものように先輩に文句をつけられたときだったような気がする。
先輩というのは、バイト代をあげろとか、もっと休ませろとか、陽介に言ってもしょうがないことを言うだけ言う、いつもの先輩たちだ。
大きな騒ぎにするわけにもいかず、いつものようになんとかあしらって、愛想笑いで切り抜けて。それでよかったはずだった。
しかしその後孝介は、あの、いつか見たような不機嫌そうな顔で、陽介を見つめて言った。
「陽介は、楽しくても、悲しくても、笑うんだな」
「……え?」
その言葉が耳に入ってきたとき、すうっと心が冷えた気がした。
孝介は眉根を寄せ、まっすぐに陽介を見つめている。不機嫌そうな……少しだけ、悲しそうにも見える表情だった。あの雨の日、浮かべていた表情によく似ている。
「なんだよ、どうしたんだ、急に。そんな話、してたっけ」
予想外の真剣な雰囲気に、正直困った。なんとか場の空気を戻そうと、愛想笑いを浮かべる。それはもう、半分以上癖になっている仕草だった。
孝介は陽介が笑えば笑うほど、反対に表情を暗くしていく。
「陽介はいつもそうだ。さっきだって、本当は」
孝介はとうとう堪えきれなくなったように、陽介を見た。
言わないでくれ、と、反射的に陽介は思う。その先で何を言われるのか、分かるような気がしたからだ。
「……いや、いいんだ。ごめん、なんでもない」
幸い孝介は、そう言って口をつぐんでしまった。飲んでいたジュースのカップを持って、席を立つ。
矛盾しているかもしれないが、引き止めるべきだと思った。言い訳をするべきだった。
何マジになってんだよ、らしくねーな。そんなことないって、お前気にしすぎじゃねーの、俺は大丈夫。
……安易にそう言えなかったのは、そう言うには、孝介があまりに大きな存在になりすぎていたからかも知れない。
それとも心のどこかで、いっそもう暴いてくれと、願っていたのだろうか。
本当は、笑いたくなんてなかったんじゃないか。無理をしても笑う理由を、孝介に悟られているのではないか。
大事な人がこの世からいなくなっても、泣くことすら出来ない薄情な自分。相棒だと呼び合いながら、嘘の笑顔ばかり浮かべている臆病者なのだと、知られることを。
「また、明日学校で」
自分の気持ちにさえ決着が付けられず、固い声で孝介がそういうのを、陽介はただ聞いていることしか出来なかった。
***
放課後を告げるチャイムが鳴った。
担任が寄り道しないようにとお決まりの台詞を残して教室を後にすると、生徒たちはとたんにざわざわと騒ぎ出す。
孝介も緊張を緩めて帰り支度を始めた。
今日は部活もないし、買い物でもして帰ろうか。そう思っていたとき、声をかけられる。
「月森、今日、時間あるか?」
顔を上げてみると、陽介だった。いつも人懐っこい印象を受ける表情が、今日は困ったような微苦笑だ。
なんとなく理由は分かる。この間、フードコートで微妙な雰囲気のまま別れて以来だ。
「ある。どうかしたのか?」
「いや、ちょっと……付き合って欲しいってか、話したいことがあってさ」
陽介は努めて平静を保とうとしているように見えた。歯切れが悪いのは、ここでは話しにくいということなのだろう。
孝介は小さくうなずいて、鞄を手に立ち上がった。
「わかった。帰ろう」
深く追求はせずに言った孝介に、陽介は少しほっとしたようだった。悪いな、と短く言って、自分も鞄を鞄を手に教室を出た。
夏も終わろうとしている鮫川には、水遊びをする人の姿ももうなく、しんとしていた。
聞こえるのは川の流れる音くらいで、それが余計に静けさを際立たせている。
「この間のことさ、ちゃんと、言わなきゃなって思って」
短くはない間を置いてから、陽介はぽつりとそう言った。
「この間、って。フードコートでのことか」
「そ。あー、あとあれかな。お前は忘れてるかもしれねーけど、春先で、先輩の葬式があった日のことも絡んでるかな……」
陽介はいつものように笑顔を浮かべながら、少しおどけた口調で言う。
「いつも笑ってるんだなって言われて、正直、かなりぐさっと来た。……図星だった」
お前ってほんとによく見てるよな、と陽介は少し呆れてみせる。
「あの日、葬式の日な。先輩と最後のお別れに行ったつもりだったんだ。もちろん俺、ただの後輩だしさ。商店街でよく思われてないの分かってたし、堂々と行くわけに行かなかったけど。それでも、ちゃんとお別れしときたくて」
憧れから変わったばかりだったけれど、確かに恋していた。孝介もそれは知っているはずだから、あえて言葉にはしなかった。
「行くまでさー、いろいろ考えた。行ったら泣いちまうんじゃないかとか……そんな情けないところ見せられるわけないし、だから一人で行ったんだ。けどまあ、取り越し苦労だったな」
一気に言わなければ、途中で臆して逃げ出しそうな自分を必死で押しとどめる。
孝介に嫌われたくない思いと、もしかしたら受け入れてくれるかもしれないという希望を両方手にしながら、陽介は話し続けた。
「涙、出なかった。ほんともう、嘘だろって思うくらい全然」
泣き笑いのような笑顔が浮かぶ。涙なんて、相変わらず出ては来ないけれど。いっそ、孝介のほうが泣きそうな表情で、しかし黙って陽介を見つめていた。
「……昔、俺ってすげー泣き虫でさ、よくお袋に泣くなって言われてたんだ。泣くくらいなら笑えって。そうすれば独りぼっちにはならないって。ほら、すぐ泣くやつって面倒くさいじゃん? もちろん、律儀にそんなの守ってたつもりはなかったけどさ」
今も時折夢に見る、懐かしい、あまりに遠い記憶を思い出す。
しかし、記憶がいくら薄れようとも、あの時友達に拒絶され、コミュニティからはじかれた孤独感は変わらない。
花村陽介は、今も、一人が怖いままだ。
「俺の影が言ってただろ? 独りぼっちは淋しい、みんなに囲まれてたいって。結局俺は、今もその通りなんだって……孤立するのが怖いって、そんな情けない自分の事情で、へらへらしてて。本当に大事なときにさえ、それが怖くて泣けなかったんだ」
孝介は何も言わない。彼が何を考えているか、死ぬほど気になるのに聞きたくない。
見損なわれるだろうか。情けないやつだと思われるだろうか。それなら、いっそこのまま何も言わないでくれと、また臆病な自分が叫びそうになる。
「お前に何かあったときも、やっぱり泣けないのかな」
そう言葉にしたとき、すうっと心臓に刃を入れられたような感覚に捕らわれた。
ありえないことではなかった。事件を解決するためとはいえ、そしてペルソナが使えるとはいえ、テレビの中は危険ばかりだ。いつ誰が、どんな風に傷つくかは分からない。もしかしたら、全員が取り返しのつかないことになるかもしれない。
しかし、そんな想像は出来るのに、やはり涙は出てこなかった。
「最低だな、俺……」
消え入るような声でそう言って、陽介は俯いた。
「そんなことない」
そのときやっと、孝介が口を開いた。その声があまりに鋭く、強く陽介の言葉を否定したので、陽介は思わず顔を上げる。
孝介は、痛みをこらえるような、でもどこかほっとしたような、優しい微笑を浮かべていた。
「泣いてるよ」
そしてやはり優しい声色で、言った。
「え……」
一瞬言われている意味がわからずに、陽介は間の抜けた声を上げる。そしてそのとき初めて、自分の頬に冷たい違和感があることに気づいた。
頬に恐る恐る、手を当てる。そこには、目尻から一筋流れた涙の跡が確かにあった。
「え、俺、なんで……」
泣いた自覚は無かった。泣く前特有のあのつんとした痛みも、心の騒ぎもなにも。
ただ一筋、もう身体が堪え切れなくなったように、涙だけが流れていく。
「ごめん、急に、なんでほんとにこんな」
泣くつもりなんてこれっぽっちもなかっただけに、うろたえた。しかし、今度は逃げ出す間もなく、陽介の体を孝介がぎゅっと抱きしめる。
「やっと、本音を見せてくれた」
心の底から安堵したような、声だった。陽介は抱きしめられている状況とその言葉との両方に驚いて、固まってしまう。
本音を見せた、なんておかしいだろうか。でも本当だ。陽介の涙は、陽介の本音だと孝介は思った。あの雨の日、泣きたくてしょうがないくせに、泣けない、泣くことが出来なかった陽介の本音。
本音を押さえ込んで佇む陽介は、とても強くて、でも同時に、あまりに痛ましくて、どうにかする方法なんて見当もつかなかったくせに、どうにかしてやりたくてたまらなかった。
「もういい。泣いてもいいんだ、陽介」
抱きしめた腕の中で、陽介が震えた気がした。かまわず、孝介は続ける。
「俺は嫌わない。絶対に。陽介が陽介なら、泣いていても、笑っていても、側にいる」
離れてなんかいかない、と強く伝える。すると、陽介が堪えかねたように、孝介の腕をぎゅっとつかんだのが分かった。
ずっと堪えてきた涙が、次々とあふれ出していた。涙を流す体に、心がやっと追いついたようだった。
「つきもり……ごめん、俺、涙腺ぶっこわれたみてえ……」
うん、と孝介は優しい声で頷いた。その優しさに、またぽろりと涙が溢れてくる。
いつから取り違えていたんだろう、と今更陽介は考えていた。
泣いてもいい。陽介が陽介なら、泣いていても笑っていても、側にいる。
本当はそう言ってくれる人が、泣いても離れていかない人が欲しかったはずなのに。そう言ってくれる人こそが、自分を一人にしないでいてくれる人だと分かっていたはずなのに。
そうして間違えて、今までどれくらい、遠回りをして、こいつにたどり着いたのだろう。
「陽介」
ずっと泣き続けている陽介を心配したのか、孝介が陽介を呼んだ。
何か答えよう、と思ったが、感情が暴れすぎていてどうにもならない。代わりにもう一度、孝介の腕をぎゅっと握ると、孝介はひときわ強く、陽介を抱きしめ返してくれた。
ああもうこいつときたら、どうしてこんなにもいい奴なんだろう。どうしてこんなにも俺を惹きつけるのだろう。
なんだか一週回って、逆に腹立たしくなるくらいに。
こういうのは、女の子にしろよな、と負け惜しみのようにつぶやいた。
***
光陰矢のごとし、とはよく言ったものだ。
季節は移り変わり冬を迎えてしまった。連続殺人事件に騒がされた稲羽市はようやく落ち着きを取り戻しつつあり、人々は細々と新年の準備を始めようとしている。
稲羽を覆っていた霧は見事に晴れ、自称特別捜査隊も、その役目を終えることとなった。入院していた菜々子や堂島も無事退院し、事件が落としていた影は消えようとしている。
そんな冬空の下、日の暮れた後の住宅街を、陽介がてくてくと歩いていた。後ろのほうには孝介が続いて歩いている。いつものように、特捜隊のメンバーで騒いで遊んだ帰りだった。
二人ともコートに身を包み、吐く息は白い。
「さっみー。明日くらい、雪とか降りそうだよなぁ」
先を歩く陽介が、からからとなんでもないことで笑う。孝介は薄く笑って頷いた。
見上げると、夜空は春や夏のそれよりもずいぶん高く、星は段違いに綺麗に見える。
「冬だなー……」
そう、冬だ。十二月ももうじき終わる。やがて月日は何をしていても、していなくても過ぎて、そのうち春を迎えるだろう。
陽介はもう一度振り返り、孝介を見た。
「もうすぐ、帰るんだよな、お前」
しみじみと言った陽介の言葉に、少しだけ心が波立つ。しかし孝介は努めてそれを表に出さないように微笑んだ。
「ああ。でも、まだ別れを惜しむにはちょっと早いな」
「ん、そうかもな。まあ、都会に帰っても元気にやれよ。そう遠いわけでもないし、またいつでも会えるって」
陽介はいつも通りの明るい笑顔だった。寒空の下で晴れ晴れと笑っている。
その表情を見て、孝介の心がさらに波立っていく。
いつでも会える。声だって聞ける。確かにそうだ。稲羽がいくら田舎でも、電車もバスも通っていないわけじゃない。その気になれば、いつだって会いにいける。声を聞くだけなら、携帯電話も、メールも、インターネットも、今ではどこでも使えるのだ。
でも、それでも。
「陽介は」
ふと、過ぎた欲が顔を覗かせる。
「俺がいなくなって、淋しくないのか?」
答えなんて、分かっているのに。たぶん、陽介は淋しいに決まってるだろと笑顔で言うのだ。一年とはいえ、二人にとってこの一年は決して短い一年ではなかった。決して上辺だけで付き合ってきた友人ではなかった。
それでも、その答え以上の何かを期待している自分は、やはり過ぎた欲を抱いているのだと思う。
陽介は、一瞬孝介の問いかけに驚いたように目を見開いていた。しばらく、冬の空の下、二人が黙って見詰め合う。白い息だけが、二人の呼吸を知らせていた。
やはり困らせてしまっただろうか。黙り込んだ陽介を見て、孝介は少しうつむいて後悔する。
やがて、陽介の口が耐えかねたように動いた。
「淋しいよ」
はっ、として、顔を上げる。
自分が吐いた息がふわりと白く靄になり、視界を薄く覆って、すぐ晴れていく。暗く透き通った満天の星空の下、視界のその先っぽで陽介が、泣き出しそうな顔で立っていた。
「ばかやろう、淋しいに決まってんだろ! そんなの、当たり前だろ……!」
まるで幼い子供が癇癪を起こしたみたいに、陽介は眉間にしわを寄せ、叫んだ。
あの日、反射的に流れた涙とは違う、感情の伴った、陽介が自分の意思で流す涙だった。驚く孝介にはかまわず、陽介はただただ、駄々をこねるみたいに叫び続ける。
「都会になんて帰るなよ、ずっとここにいろよ、お前がいなくなったら、俺、どこで泣けばいいんだよ」
情けない、と陽介は思う。それでも全部の感情のタガを外して、今心の中にある言葉を全部吐き出したかった。
世の中はままならないもので、思い通りに行くことの方が少なくなるように出来ている。喚いても嘆いても、変えられないことがある。変えられないのに嘆くのは、ただのわがままなのかも知れない。
いや、孝介に行くなというのは、本当に本当に自分勝手なわがままだ。
それでも苦しい、切ない。もうすぐ孝介がいなくなるという空虚がやってくることが、耐えられない。理性と常識がしょうがないと諭しても、それでも手放したくないんだと心が慟哭する。
ずっと我慢できていたことが、今は出来ない。笑えない。涙が止まらない。
淋しい。
淋しい。淋しい。淋しい。
「淋しいよ、孝介」
孝介、と陽介が初めて孝介を名前で呼ぶ。透き通った瞳から、ぽろぽろと、いくつもいくつも涙が零れていく。孝介はその光景を、驚きの表情のまま、息を呑んで見つめていた。幾筋も幾筋も、跡を刻みながら、ぽろぽろ、ぽろぽろと涙が零れていく。
「陽介」
思わず足を踏み出した。あの日のように抱きしめそうになる。
その泣き顔を見つめているだけで、帰らないよ、ずっとここにいるよと言ってやりたくなってしまう。どうやってもそんなことは出来ないのに。
「でも」
しかし孝介が何か言う前に、陽介が涙声でそれを遮った。そして、涙をまだ目尻から零しながら、微笑んで見せる。
「そんなこと、本気で言えるほど、俺、子供じゃないから。わかってんだ。お前は帰らなきゃいけない。家族も待ってる。やらなきゃいけないことだってある。俺も、お前も」
わかってる、ともう一度陽介は繰り返して言った。孝介は、その言葉に足を止める。
抱きしめるには、距離が少し遠い。でもそれは、陽介があえてそうしているような気がしていた。
陽介が流れる涙をぬぐおうともせずに、下がる目尻を必死であげながら、笑う。
「なあ、孝介。俺さ、お前のこと大好きだ」
なんでもないことのように、陽介は言った。ずっと前から伝え続けてきたことを、改めて言うみたいな口調だった。
「お前を困らせたくない。だから決めてたんだ。お前とちゃんとさよならしようって。そんで、また次会うときもずっとずっとお前のこと好きでいて、ちゃんと笑って出迎えようって……だから、行けよ。淋しいけど、ほんと淋しいけど、俺は見送るからさ」
すう、と最後の一粒が、陽介の頬を滑って消えた。
大丈夫だ、という陽介の口調は、力強い。泣いていても、あの日、川原で感じたような弱々しさは、どこにもなかった。
「お前がここに帰ってくるまでくらい、泣くのも我慢できるし。お前が心配しないくらい、強くなるから」
陽介がそう言い終わるのを、孝介は待てなかった。糸が切れたように駆け出して、陽介の腕を引き、抱きしめる。
白い息がふわりと舞って、二人ぶん重なって消えていく。
「ありがとう」
愛しい、という言葉は、こういうときのためにあるんだろうと思う。
悲しいくせに、淋しいくせに、悲しくて淋しい自分のことより、孝介のことを思ってくれる。そんな彼に対して感じる気持ちを言うのだと思う。
「俺も大好きだよ、陽介」
強く抱きしめた腕の中で、陽介は小さく頷いた。
手放したくないのは、陽介だけではない。本当は孝介も離れたくない。ずっとここにいたい。ずっと側にいたいと、感情は叫んでいる。
それでも目の前に広がる現実は、それを許さないから、しょうがない。そこから目を背けることを、自分たちは拒絶した。自分たちの出した答えを、踏みにじることは出来ない。
「待っててくれ。絶対、また帰ってくる」
代わりに何度も約束する。陽介は何度も頷いた。
腕の中、顔を上げて笑って見せた陽介は、本当に晴れやかな顔をしていた。それを、孝介が幸福な笑顔で見つめ返す。
晴れ渡る星空が、そんな二人を見下ろしていた。