主人公×花村。
「晴れ、夜より雨となるでしょう」後日談。
* * * * *
季節は、春も半ばに差し掛かろうとしていた。
高校三年生の春はいやに早く過ぎていく。学年が上がると同時に受験へのプレッシャーは跳ね上がり、周りも自分も追い立てられていくようだ。
そんな忙しさにふと疲れてしまい、孝介は自室のベッドの上で溜息をついていた。
今日は復習も予習もする気になれない。が、何をしたいというわけでもなく、携帯電話を片手に、ベッドの上に座っていた。
ぽちぽちと、何が目的があるわけでもなく、電話帳をあ行から順番に送っていく。
天城雪子。久慈川りせ。クマ。里中千枝。白鐘直斗。巽完二。ディスプレイに、忘れられない仲間の名前が表示されていく。思わず微笑む自分を感じながら、さらにボタンを押していく。
花村陽介。
そして、その名前でカーソルを止めた。
「(陽介)」
ぱたん、と携帯電話を閉じて、孝介はベッドに倒れ込んだ。ちょっとした浮遊感と開放感に居心地の良さを感じながら、考える。
――陽介は、泣いていないだろうかと。
そう考えるとき、孝介の心はいつも、去年のあの冬へと戻る。
『淋しいよ』
白い頬を、透明な涙が落ちていく。幾筋も幾筋も、大きな瞳からあふれ出すあの光景。お前がいなくなったら、俺はどこで泣けばいいと、すがるような目で叫んだ大切な人。
孝介は立ち上がると、自室に備えられた窓を開け放つ。春も半ばだが、やはり夜ともなると少し肌寒い。空には偶然にも雲一つ無く、珍しく星空を望むことが出来た。
まるで、あの町にいたころを思わせるような星空だ。
時々無性に「帰りたく」なる。自分の故郷はあそこではないのに、帰るのなら、陽介のいるあそこだと思ってしまう。最初に自分に声を掛けてくれた、優しい友達。綺麗で大きな瞳と、いつも浮かべている笑みが印象的で。かと思えばしょんぼりしたり、驚いたり、怒ったりと忙しく、いつも仲間達の中心にいた。
けれど、泣いたところだけは見たことが無かった。
降りしきる雨の中、傘を差して、黒い行列を眺めていた陽介を思い出す。あの時、自分に呆れたように、責めるように苦笑した表情に惹かれて、彼にもっと近い人間になりたいと切望した。
自分は泣けなかったのだと、陽介は言った。
そんな自分が許せないと、最低だと、ずっと思い続けていたんだと。孝介のためにも泣けないのではないかと、不安だったと。
でも、泣いてしまえば、自分は誰にも愛して貰えないのではないか、とも。
「(なんて、優しいひとなんだろう、って)」
その時、そう思ったのだった。今も思い出すだけで心が温かくなるくらい、無性に愛しくて、哀しかった。
男同士だとか、友達だとか。そういうのとは全く別のところで、ずっとずっと、傍にいたいと思えるくらいに。
大丈夫、泣いてもいい。いなくならない。どこにもいかない。
そんな言葉を、陽介が望むだけ与えたかった。それで陽介が不安でなくなるのなら、いくらでも差し出したかった。
陽介がそんな孝介を抱きしめ返してくれたとき、孝介がどれだけ幸福だったか、きっと彼自身は知らないのだろう。
ずっと、そんな日々が続けばいいと願ったし思った。けれど、現実はそんな風には出来ていない。だから、陽介は淋しい、淋しいと繰り返しながら、それでも最後に笑って見せた。
『お前がここに帰ってくるまでくらい、泣くのも我慢できるし。お前が心配しないくらい、強くなるから』
……その言葉を、信じていないわけではないけれど。
「俺が心配しないくらい、強くなる、か……」
そう言えた陽介は、もうすでに強くなり始めていると思った。陽介は孝介を拒絶したわけではなく、そっと、優しく手を揺らして解くような、温かい決別をくれただけだ。
電話も、メールもすると約束した。けれど結局、どちらも果たしていない。孝介からも、陽介からも。
孝介は携帯電話を握りしめ、祈るように空を見上げる。
……陽介はもう、強い。一人でも立てるくらいに。
それでも、泣きたくなる日はあるだろう。泣きたいときも、泣けないときだってあるだろう。
だから、どうか。そんな日が一日でも少なくありますように。明日も、陽介が心から笑える日でありますように。
それだけを祈りながら、ぎゅっと、彼の名前の残る電話を握りしめた。
***
陽介は、満天の星空を見上げていた。
田舎特有の澄んだ空気と高い空。宝石箱をひっくり返したような星空は、稲羽の数少ない長所の一つだ。細長い月もまた、そんな夜空にすらりと浮かんでいる。
「(……孝介、何してるかな)」
細長い月を見つめながら、陽介は手にした携帯電話をそっと持ち上げ、中を開いてみる。
月森孝介。
そう表示されたディスプレイには、あの春から一度もかけたことのない携帯番号が表示されていた。
何故連絡を取らないのか、と聞かれれば――なんでだろう、と答えるかも知れない。別にそんな約束をしたわけではなかった。むしろ、電話もメールもすると言ったことを、どちらも拒否なんてしていない。
それでも、なんとなく。そう、なんとなく、二人のどちらも、あれ以来言葉を交わさずに過ごしてきた。
『待っててくれ。絶対、また帰ってくる』
そう言って抱きしめてくれた孝介を、信じているから。そして、孝介が心配しないくらい強くなるといった自分を、本当にしたいから。
もしかしたら、そんな意地のような、願掛けのような気持ちが一番近いのかも知れなかった。
今でも、あの日のことを思い出すと胸が痛いような、でも温かいような、不思議な気持ちになる。孝介がこの町を出ていった時、心の一部を持っていってしまって、そこだけが今も空洞になっていっているような気分だ。
その空洞に、思い出の中の孝介の声が反響する。
『もういい』
『泣いてもいいんだ、陽介』
陽介が陽介なら、いつまでも傍にいると、何度も約束してくれた。それを思い出すたび、もう孝介はいないと思い知らされて胸が痛む。けれど、それは決して不快な痛みではなかった。
もう、孝介はいない。でも、確かにここにいた。あの日、陽介が泣きやむまで傍にいてくれた。優しい言葉をかけ続けてくれた。
陽介のことを好きだと言ってくれて、絶対に帰ってくると、約束してくれた。
その思い出が、どうして不幸な痛みになんてなるだろう。
「(孝介、元気にしてるかな。ちゃんと……笑ってるかな)」
何を心配しているんだろう、と陽介は思う。孝介は自分と違って、あんなに強いのに。自分のように、すぐにめそめそしたりなんてしないのに。
でも、と陽介は淋しげに浮かぶ月を見て思う。
「(あいつが意外と寂しがりだってことを、俺は知ってる)」
あの優しい手も優しい言葉も、強いだけの人間から出てくるものではない。孝介もきっと、淋しくて淋しくて、声に出さずに慟哭したことがあるはずだった。喉の奥に詰まる淋しさを、悲しさを堪え、笑ったことがあるはずだ。
陽介、と優しく呼びかける声も、大丈夫だと抱きしめてくれたあのぬくもりも、そんな孝介だからこそ、手に出来た。
そんな強さに、陽介も追いつきたいと心から思う。
もう、あの声もぬくもりも、ここには存在しない。直に感じることは、もう暫くないだろう。
でも、思い出すだけで勇気が湧いてくる。
「(俺は元気だよ。あの時より、ちょっとだけ強くなれたかも知れない。ちゃんと笑えるようになったかもしれない)」
陽介は携帯電話を握りしめ、空を――空に浮かぶ月を見上げた。
「……だから、お前も笑っていてくれ」
明日も、孝介が幸せでいられますように。明日も、心から笑える日でありますように。
それだけを、ただ、祈りながら。