自宅主人公・日暮白夜。
主人公×鍵介。楽士堕ち要素あり。
手嶋さん(@cg_ntbr_etc)にデザインして頂いたイラストをイメージして書かせて頂きました。
その場所を一言で表すとすれば、静謐、だった。
建物の内部は昼でも薄暗く、代わりに柔らかな間接照明で照らされている。白を基調にした壁が青白く浮かび上がり、まるで深海にいるような気分にさせた。
シーパライソの水族館も似た雰囲気だが、華やかさが全くないところが決定的に違う。あそこは一応行楽施設で、毎日相当の人間が訪れ、賑わっている。管理をしているミレイも、自分のテリトリーがそうやって持てはやされることは喜んでいるようだ。
しかしここは訪れる人もなく、聞こえてくる音といえば自分の足音くらいだ。特に立ち入りが禁止されているわけではないが、なぜか人が寄り付かない。あるいは、それもここの主の望みなのだろうか。
鍵介は一度足を止め、小さくため息をついた。何度来ても、つまらない場所だな、と思う。
鍵介、つまりカギPも含め、ほかの楽士たちは自分のテリトリーでは遠慮無く自分を誇示し、自分の曲をアピールして、デジヘッドを増やすことを目的としている。それがオスティナートの楽士全体の基本方針でもあるし、それを止めようとする者もいない。
だが、この木造劇場をテリトリーとする楽士は、その方針がお気に召さないらしい。というより、やる気が無いだけか。
ソーンに求められ、必要最低限の曲は提供しているものの、それ以上のことはしない。楽士の中には、積極的にμを呼んでライブを行ったり、イベントを開催したりして人を集め、自らと曲の認知度を上げることに躍起になる者もいるというのに。
当然のように、メビウスの住人たちへ顔出しも行っていない。これは鍵介も同じだが。
しかし、さすがに定例の音声会議に欠席が続くのは、ソーンとしては気に入らないらしい。
「彼の様子を見てきてくれないかしら、カギP」
そんなとき、そうやって声がかかるのが鍵介なのである。正直面倒ではあるが、ソーンの機嫌を損ねるのは得策ではないし、その新入り楽士を除けば、未だに鍵介が一番末席だ。断るという選択肢は無いに等しかった。
そんな理由から、鍵介はこの木造劇場にやってきたのである。足を運ぶのはもう何度目か。まだぎりぎり、片手で足りる程度ではあるが。
「今日はどこに隠れてるんです? 僕も暇じゃないので、早く出てきてくれませんか」
やる気の無い声のまま、鍵介は努めて大きな声で言った。静謐な空間に、自分の声が反響する。それもまた、深海の中に居るような気にさせた。
しばらくそれを聞いていたが、返ってくる声はない。
代わりに、ちりん、と足下で鈴の音がした。
「(鈴?)」
思わず音のする方へ視線を落とすと、そこにはいつの間にか、一匹の猫がいた。灰色の毛並みをした、すらりと細い体つきの猫だった。
猫は一言も鳴くことはなく、アーモンドのような瞳で鍵介を見上げている。よく見ると、青い首輪をしていた。鈴もついている。さっき聞こえたのはこの鈴の音なのだろう。
首輪をしているということは、飼い猫……しかもここで飼われているというのなら、十中八九「彼」の猫なのだろう。
「お前のご主人に用があってきたんですけど」
普通に考えて猫に日本語が通じるはずもないが、メビウスにいる猫はその範疇ではない。NPC、つまりμが作ったデータなのだから、どこかで「彼」と繋がっている可能性もある。
そう思って声をかけてみたのだが、猫はすました顔で、ふい、と顔を背けてしまった。思わずムッとなる。不遜な猫だ。
「ペットは飼い主に似るって言いますけど、本当みたいですね」
減らず口を叩いてみるが、猫は鍵介の言葉に尻尾を揺らすだけで、やはりにゃーとも言いはしない。
……名前でも呼べば反応するだろうか? 毛色は灰色……いや、見ようによっては白にも見える。それなら。
「シロ?」
無反応。
「タマ? ミー?」
やはり無反応。ミケ……はさすがに無いだろうし。その後も何回か思いつく限りの名前を呼んではみたが、猫が反応を示す名前は挙げられなかった。
それどころか、たまに鍵介の方をちらりと見ては、馬鹿にしたように視線を逸らすのを繰り返す。相手は猫とはいえ、いい加減腹が立ってきた。
「どうせどっかで見てるんでしょう。いい加減に……」
「あまりその子をいじめないで」
思わず猫を睨み付けたときである。平坦な声が、鍵介の言葉を遮った。
こつ、こつ、と。鍵介の足音とは違う、軽く控えめな靴音が近づいてきて、止まる。同時に、砂がこぼれるようなしゃら、しゃらという音もかすかに聞こえた。
鍵介は猫からようやく視線を外し、声の主を見た。
「いじめてませんよ、別に」
そう言うと、声の主――この木造劇場の楽士は、少しだけ目を細めて「そう」と返した。
そして、話をするためなのだろうか。それとも猫を鍵介から庇うためだろうか。彼は、鍵介の方にさらに歩み寄って来る。
彼が歩くたびに、コツコツと高い靴音が響き、髪に結わえられた髪飾りがしゃらりと音を立てた。腰から下に広がるパニエと、そこかしこに散らばる少女めいた意匠。彼自身の容姿が中性的であることも手伝って、その姿は何度見ても倒錯的な感想を抱かせる。
灰色の猫は、彼がそばに来るなり、さっと足の後ろへと隠れてしまった。
「あなたの会議の出席率が悪いって、ソーンが怒っていましたよ。日暮先輩」
「……そう」
念を押すように名前を呼ぶと、彼、日暮白夜という名前の少年は、やはり平坦に、無感情な声でそう相づちを打った。もちろん表情からも感情は読み取れない。まさにのれんに腕押し。いや、水に映った月でも打ち据えているようだ。
「次は文化祭の打ち合わせもあります。必ず出るように、と」
文化祭は全校生徒が参加する一大イベントで、毎年楽士たちが新曲を発表するのが恒例となっている。まして、白夜は今年が初めての文化祭だ。さすがにこれに不参加というのは認められないのだろう。くれぐれも、とソーンから言い含められている。
白夜は少し黙り込んだが、やがてその桜色の唇をそっと開いた。
「会議に、カギPは出てるのか」
「もちろん、僕は毎回出てますよ。楽士なんですから、当たり前でしょう」
「そう、なんだ」
オスティナートの楽士はメビウスにおいて絶対的な人気と地位を誇る。メビウスの実質的な支配層と言ってもいい。その地位を証明し、実感することが出来る行事の一つが定例会議だ。だからこそ鍵介は毎回出席もするし、まとめ役であるソーンのご機嫌伺いも必要だ。鍵介にとって、出席しないという選択肢そのものがない。
「そうなんだ、じゃありませんよ。先輩も楽士なんですから、少しは自覚を持たないと」
一応、説教じみたことを言ってはみるが、どうせ「そう」と返されるのだろう。そうならもう少し小言を重ねるべきか。一応学年は鍵介が一つ下で、「先輩」扱いしているが、このメビウスでは学年なんてあってないようなもの――
「じゃあ、次は、出られたら出る」
と、そんなことを考えていたところにこの返答だったので、驚いた。
「……ぜひ、そうしてください」
小言を重ねようとしたところにこの素直な反応だったので、思わず言葉を飲み込み、そうくくってしまう。
「と、とはいえ、しばらく会議も出てないんですから、必要なことはちゃんと聞いてくださいよ」
最後に念のためにそう言うと、白夜は微かに頷いたように見えた。本当に聞いているのか怪しいが、とにかくこれでソーンの命令はこなした。
もうここに用はない。自分は自分の仕事、つまり曲作りにかからねばならない。
「カギP」
しかし、そんな鍵介を白夜が呼び止める。思わず足を止めて肩越しに振り返ると、やはり表情一つ変えず、感情の無い声で、彼は鍵介に語りかけた。
彼の足元では、じっと、灰色の猫が鍵介を見つめている。
「せっかく来たんだから、お茶でも、どう?」
……本日二回目の意外性だった。表情にも声にも色はなく、どういう意図かも読めなかった。
灰色の瞳が、まっすぐに鍵介をとらえている。長い睫とともに、ゆっくりと、目を瞬かせる。
「いえ……作曲がありますから。また今度で」
「そう。残念」
今度こそ、違和感が亀裂のように内心を走り抜けた。
「(残念、だって?)」
失礼します、と一応先輩への礼を尽くしてから、彼のテリトリーを後にする。
違和感、というには言い過ぎか。やはりそれは意外、という言葉の範疇に入るものかも知れない。確かに日暮白夜は無感情で、無感動で、自分以外のものに興味を示さない性質だ。だが、それが全てだと断じることが出来るほど、鍵介は彼と親しい仲というわけでもない。
気のせい。そのときはそう断じて、その場を後にした。
* * *
カギPが劇場を後にしてから、白夜はしばらく、ぼんやりと彼の靴音に耳を傾けていた。やがて、みゃあ、と猫が足下で鳴く。
すると、白夜の唇に淡い笑みが浮かんだ。
「どうしたの。相変わらずさみしがりだね」
白夜はしゃがみ込み、猫を愛おしげに撫でながら優しく言った。猫は撫でられて気持ちがいいのか、ゴロゴロと喉を鳴らしている。
灰色の毛並みの、すらりとした猫。「彼」は白夜の足下にすり寄って、くるりと尻尾を巻き付けた。
白夜はそれに、やはり満足げに微笑んでみせる。
「名前、呼んでたね。シロ、タマ、ミー、だって」
違うよね、と、白夜は笑みをこぼした。その笑い声は控えめで、波の音にさえかき消される程度のものだったが。普段の彼からは想像できないほど楽しげで、明るい笑い声だった。
「ね、けんすけ」
呼ばれた猫は、嬉しげにまた、みゃあ、と鳴いた。白夜は微笑む。彼が求めれば猫は応える。そういう風に出来ている。
それを承知の上で、そしてそれをほんの少し残念に思いながら、白夜はまた、鍵介が去っていった方向を見つめた。
「本物が欲しいって言ったら、罰が当たるかな」
――それとも、この猫と同じように。望めば与えられるのだろうか。