自宅主人公・神谷奏太。
主人公×鍵介。
ED後、同棲している設定。風邪をひいた鍵介の話。
「え、熱!?」
奏太の予想以上の大声に、鍵介は思わず眉をひそめた。
「すみません、ちょっと声のボリューム下げてもらっていいですか。頭痛が」
力の入らない声でそういうと、奏太はまた慌てて口に手を当てて「あ、ああ、ご、ごめん。そうだよね」と眉尻を下げて見せた。
「今、どれくらいあるの」
「7度ちょい、ってところですかね」
昨晩から、なんだか身体がだるいとは思っていた。大学でも風邪の流行が囁かれており、もしやとは思ったが、今朝寒気を感じて熱を測ってみればこれだ。思わずため息が漏れた。
熱が出て「学校が休める」などと喜んだのは昔の話。この年齢になると、風邪をひいて最初に思うことは「面倒くさい」である。
まず起き出すのが面倒くさい。だるい身体を引きずって病院にいくのも。食べられそうなものを買い出すのも、なんなら箸を用意するのさえ面倒になる。そしてそうやって身体を治して、休んだ分のツケを払いながら復帰するのが、一番面倒だ。
でも、しょうがない。後悔先に立たずではないが、風邪をひいたら治すしかないのだ。
それに、もう慣れた。
眼鏡の向こうで目を細め、鍵介は少しだけ苦い顔をした。そのことに、自分自身も気付いていないくらいに微かに。
小さい頃から共働きだった鍵介の両親が、風邪をひいて寝込んだ鍵介を看病してくれた記憶はない。少なくとも、物心ついてからは一度もだ。
両親が二人とも忙しいことは、子供心にもよく分かっていた。それについて、我が儘を言おうだとか、非難しようだとか思ったこともない。鍵介の中にあったのは、もう少し賢しく、もう少しだけ捻くれた諦めだった。
大人になったら、自分もああなるのか。病気の子供を一人残してでも、仕事に忙殺されるような人に。それが大人になるということなのか。
いやだなあ、という、ぼんやりとした逃避と、諦め。
「大した熱でもないんで、学校行ってもいいんですけど。今日は必修の講義も無いですし、大事を取って休……って、何やってるんですか」
「電話」
考え事をしている間に、奏太は携帯電話を耳に押し当てていた。電話ってどこに、と鍵介が聞こうとしたところで、電話が繋がったらしい。奏太が「しー」と、指を唇に当てて鍵介を見た。
「支部長? お疲れさまです、神谷です。今日任務から外してください。緊急もちょっとパスで。はい。すみません、助かります。じゃあ失礼します」
「ちょっ、何やってるんですか!」
鍵介がさーっと顔色を変えて奏太を止めようとしたが、奏太はさっさと通話を切ると携帯電話をしまってしまった。そして、鍵介のおでこに手を当てる。
「ああ本当だ、ちょっと熱いね。これからもう少し上がるかも知れない。動けるうちに病院に行こうか」
「先輩、人の話を聞いてないでしょう」
そういうと、奏太は少しムッとしたように反論した。
「ちゃんと聞いてるよ。熱があるんだろう。大変だ。だから病院に行かなきゃ」
「大した熱でもない、とも言いました。先輩が仕事を休むほどじゃないです」
「鍵介、そういう熱はだいたいこれから上がるものだよ。仕事は心配しなくていいから、早く病院に行こう。僕も付き添う」
付き添うって、そんな子供じゃないんだから。そう言いかけて、言葉に詰まった。
そうしているうちに奏太は自分の支度も終えて、本当に鍵介の手を引いて病院に向かい始めたのである。
……保護者に付き添ってもらって病院に行くなんて、何年ぶりだろうか。いやに固い椅子の感触を感じながら、ぼんやりと考える。
病院で診察を受けて、処方箋を貰って、薬を貰う。
会計などの細かいことは全て奏太がやってくれた。鍵介はと言えば、医者の質問に答えたくらいで、あとはこうやって待合室の椅子に座っていただけだった。
二人で帰宅して一息、はあ、と小さく息を吐く。すると、熱を伴った吐息が喉を撫でていった。この感覚には覚えがある。きっと熱が上がっているのだ。
「熱上がってきた? 寝てていいよ。着替えられそう?」
「大丈夫です」
さすがにそこまで頼るのは、まだ気が引けた。
「(まだ……って)」
思わず苦笑した。これじゃあ、「いつか」そこまで頼る日が来るみたいじゃないか。嘘みたいな話だ、と思った。
着替え終わってベッドにもぐりこむ。思い出したようにやってきた寒気に突き動かされるように、そのまま布団にくるまった。
* * *
……嫌な夢を見た気がする。熱を出して寝込んだ時はいつもそうだ。
眠らないといけないのに、眠ると決まって嫌な夢を見る。だから覚えていなくても、いつも目覚めは最悪だ。
でも、最悪でもそうでなくても、あまり関係はない。眠る時も起きる時も一人だから、どのみち一人で飲み込むしかないのだ。
けれど、今日は額にひんやりとした冷たさがあって、そのことを一瞬忘れた。
「あ、起こした? ごめんね」
耳をくすぐる柔らかな声。その声がする方へ、視線を動かす。奏太が口元に笑みを浮かべて、鍵介の髪を撫でていた。
「つめたい」
「うん。そうだろうね」
今これ変えたから、と、奏太は悪戯っぽく笑い、市販の冷却シートをひらひらさせている。
「ご飯食べれるかなーと思ったんだけど、もう少し寝てた方がよさそうだね」
おやすみ、と優しく言って、髪を撫でる奏太の手と声が心地いい。
この手と声は、いつまでここに在ってくれるのだろう。いつ、「大丈夫そうだね、じゃあね」と行ってしまうのだろう。
熱に浮かされた頭で、そんなことを考える。
「ねえ先輩」
「ん?」
「僕、大丈夫なんですよ」
脈絡のない言葉が、口をついて出る。
「一人でも、本当に、平気なんです。まえからずっと」
だから、と続けかけた鍵介を制するように。歪んだ視界を、奏太の掌がそっと覆った。
「うん。そうかも。鍵介は強いからね。……でも、僕は大事な人が病気のときは、こうしなさいって教わったんだよ」
奏太の声はただただ優しく、懐かしさを滲ませながら、鍵介の鼓膜を揺さぶっている。
「もうずっと昔のことだけど、僕が風邪をひいたとき、お母さんはこうやって看病してくれた。弟も、僕より小さいのに、一生懸命にタオルを冷やして持ってきてくれたよ」
奏太から、奏太の家族の話を聞くことはあまりない。奏太自身が避けるように、あまり話題にしないからだ。
どうやったってもう二度と会うことはない。いつだったか、そう言ったのが最後だった。
「凄く嬉しかった。だから、大事な人には同じようにしようって、そう決めたんだ。だから、鍵介が大丈夫で、平気でも、僕がこうしたいから、鍵介はそれでいいんだよ」
おやすみ、ともう一度、奏太が言った。
ほとんど無意識に、でも、頷いて鍵介は目を閉じる。
不思議と、嫌な夢は見ないような気がした。