自宅主人公・日暮白夜。
鍵介×主人公。
2018年バレンタイン記念。
ハッピーバレンタイン!
鼻についた甘い香りに、ふと、もうすぐバレンタインデーなのだと気付いた。
この日が近づくと、町中はどこもチョコレートアピールする店でいっぱいになり、白やピンク、シックなショコラの色と香りで満たされる。それはメビウスでも例外ではない。
「みんなが楽しいと思うことは残す」という方針らしいμのはからいで、バレンタインデーという概念はちゃっかりとこの世界にも存在するのだ。
「壮観、というべきですかねえ……」
半ば呆れたように呟いて、鍵介はため息をついた。
部長の白夜と二人、鍵介の『罪滅ぼし』のために出かけた帰りである。
目の前に広がるのはショッピングモール・パピコのスイーツエリアだ。もちろんここも、今は甘いチョコレートの香りと、それに群がる少女の群れで満たされていた。
「バレンタインか~。みんな真剣だね」
「そりゃま、当事者ならね」
感心したようなアリアに、鍵介は肩をすくめる。
というのも、「今年のバレンタインは」たぶん鍵介には関係ない。
去年……つまり、楽士だった頃にはバレンタインにかこつけたチョコのプレゼントもたくさんあった。顔出しはしていなかったため、あくまで「カギP宛て」のチョコレートだ。つまり、楽士では無くなった今の「響鍵介」には、そのチョコレートも望めまい。
別に、欲しいわけじゃ無いけど。と少し強がって、鍵介はチョコレートと少女の群れから視線を外した。
「さっさと帰りましょうか。ここにいたらデジヘッドまで集まって……先輩?」
そして、同行していた部長に呼びかけようと視線をさらに動かしたが、そこに白夜の姿はない。
「あー、白夜ならあそこに張り付いてるってば」
ふわり、とアリアが鍵介の横に並び、小さい指でとある店のショウケースを指してみせる。いつの間に移動したのか、白夜はそのケースの前で、少しだけ頬を緩めて中のチョコレートを見つめていた。
白夜の視線を辿ってみると、彼が見つめているのは白いハート型のチョコレートだ。中が空洞になっていて、中にはもう一回り小さいチョコレートが入っている。
なるほど、チョコレートの器を開けると、中から本命のチョコがあらわれる、というわけだ。いかにも白夜が好きそうな、凝った造りだった。
「買うんですか」
「ううん。……男の子があげる日じゃないもんね」
声をかけると、白夜は鍵介を振り返る。その表情はなんとなく戸惑っているように見えた。少しだけ寂しそうに微笑み、首を横に振る。
男の子があげる日じゃないもんね。……あげられるなら、あげたいけれど。そういう言葉が省略されている。
チョコレートを特別な日に買って、特別に渡したい相手。つまりは、意中の人というやつ。そんな存在が白夜にもいるのだ。そう考えたら、反射的に「もやっ」としたものがお腹の中を巡っていくのがわかった。
「(誰にあげるんですか)」
思わず口から出そうになったその言葉は、なんとか喉元で留めた。そして代わりに、わざと呆れたような声でこう言う。
「買えばいいじゃないですか。今時、友チョコだの逆チョコだの、変則的なのも珍しくもありませんし」
「逆……?」
「逆チョコ、です。バレンタインにかこつけて、男子から女子にチョコを贈ることです。バレンタインなんて結局は企業の販売戦略なんですから、買ってさえくれれば理由は何だっていいんですよ」
そう、バレンタインなんて所詮それだけのイベントだ。別にたいしたことじゃない。そう自分と白夜に言い聞かせるように、鍵介は言う。
「男の子でも、贈っていいのか」
しかし、白夜にその繊細なニュアンスは全く伝わっていないらしい。彼は逆に表情を明るくして、鍵介とショウケースを見比べ始めた。
「だ、だからそう言ってるじゃありませんか」
あんまりにも白夜が嬉しそうに見えたので、鍵介はそれ以上辛辣な言葉を言う気にはなれなくなってしまう。
「ごめん鍵介、少しだけ待ってて。すぐ戻るから」
そうしている間に、白夜は鍵介にそう断って、チョコと少女たちの群れに走って行ってしまった。
そして、群れからなんとか帰ってきた白夜は、目当てのチョコレートをしっかりと抱えていたのである。
「か、買えた」
「……おめでとうございます」
少女の群れの中でにもみくちゃにされたのだろう。帰ってきた白夜はぼろぼろになっていたが、なんとか無事だった。
目当てのチョコレートが買えて気分が高揚しているらしく、いつも白い肌が少しだけ桜色に染まっている。目元が和んで、頬がほんのりと笑みを形作っていた。
相変わらず白夜の表情は淡すぎるが、鍵介には、白夜が喜んでいることくらいはわかる。よほどバレンタインのチョコを買えたのが嬉しいらしい。
……ああ、敵に塩を送るような真似をしてしまった。チョコだけど。
まだ見ぬ「敵」(この場合は恋敵だとでも言うのか? なんてことだ)に向かって、鍵介は心の中で項垂れる。
「鍵介は買わないのか」
「買いません。僕はあげるよりもらいたい派なんで」
というか、あんな話をした手前、いまさら手のひらを返して買いにはいけない。
……訂正。開き直って手のひらを返してもいいが、白夜の前では返したくない。
すると、白夜は目を丸くした。
「鍵介も、やっぱり、チョコレートもらいたいのか」
「貰えるなら貰いたいですよ、普通に」
「好きな人から?」
「そりゃ、まあ、それが一番……」
なぜか詰め寄るように尋ねる白夜に、鍵介も惰性で答える。白夜はそこで少しだけ間を置いてから、まっすぐに鍵介を見つめて、さらに尋ねる。
「鍵介は……好きな人、いるの?」
まっすぐに見つめられて、柔らかな声でそう尋ねられた。思わず言葉に詰まり、喉がくっ、と詰まるような感覚に囚われる。
「い、ます……よ?」
そしてやっと絞り出した声は、そんなことをのたまった。
後から考えても、どうしてそんなことを口走ったのか、わからない。よりにもよって白夜の前で。
いや、よりにもよって、白夜にそんなことを聞かれたから、かも知れないが。
尋ねた側の白夜も、その返答が予想外だったのか、さらに目を丸くして、絞り出すような声でこう言った。
「誰?」
鍵介がためらったその問いを、ためらうことなく。……さすがにそれは。
「それは、先輩には、関係ないでしょう」
耐えられなくなって、視線を逸らした。すると白夜も、ぱっと顔を背けて声を詰まらせる。
「そ、そうか。そうだね。軽々しく聞くことじゃなかった」
ごめん、と続けたその言葉には、なにも返せない。ただ、鍵介から顔を背けてしまった白夜をのぞき見て、少しだけ心が痛む。
白夜の手の中にあるチョコレート。それが誰に渡されるのか、想像するだけで、ずきずきと痛みを訴える。
いっそ、ここで打ち明けてしまえば、それは手に入るのだろうか。そんなことは――そんな都合のいいことは、例えメビウスでだって、起こるはずもない。そもそも、打ち明けられるはずもない。
白夜は少しだけ何か考え込んでから、内緒話でもするように、少しだけ鍵介に頬を寄せる。
「チョコレート、好きな人から貰えると良いね」
囁くような、密やかな声で、白夜がそう言った。……そんなことを言われるものだから、鍵介の痛みはどんどん増すばかりだ。
「……無理ですよ、どうせ」
ずくん、ずくん、と、心に何か重たいものが刺さったままになっているような痛みを抱え、鍵介はやっとのことで口の端を持ち上げてみせる。
なるべく軽い口調で返せるように努力はした。けれど、それだけだ。
***
そして、二月十四日、バレンタインデー当日。
「(持ってきてる……)」
眼鏡の奥の瞳でじいっと見つめるその先には、いつもより少しそわそわと落ち着かない様子の白夜がいた。手元には見覚えのある包み。この間、鍵介と一緒にいたとき買った、チョコレートだ。
いったい誰に渡すんだ。部員の女の子? クラスメイト? 三年生?
そんなことを悶々と考えたあげく、鍵介は白夜に見つからないようこっそりと、後ろをついて回っていた。
「(って、これじゃまるでストーカーじゃないか! やめやめ、こんな……)」
と、定期的に思うのだが、白夜が休み時間に教室を出て行ったり、小走りに廊下を駆けていくと、反射的に追いかけてしまうのだった。
実際白夜は休み時間のたびに誰かを探しているようで、校内の色んな場所に顔を出しては、相手がいないとわかって肩を落としているようだった。
相手は今日、学校を休んでいるのだろうか。それなら、探している先々でそう言われて諦めても良さそうなものだが。
結局白夜の探し人は見つからなかったようで、時間はそのまま放課後を迎えた。
白夜はすっかり落ち込んだ様子で、部室の中に入っていく。相変わらず手の中にはチョコレートの包みを持ったままで、結局渡せずじまいだったようだ。
ぴしゃり、と閉じてしまった部室のドアにそうっと近づいて、鍵介は窓から中を盗み見る。
白夜は項垂れて、ソファに座っていた。机の上にはぽつん、とチョコレートが置かれている。ため息をついたらしく、また、小さな肩が落ちた。
「渡せなかったなあ……しょうがないか」
桜色の唇が、ぼんやりと、そんなことを呟く。眉が下がり、切なげに目を伏せる。
その姿に、なぜか胸が痛んだ。
白夜が想いを告げるために用意したチョコレートは、誰にも渡らないままだ。その結果は、鍵介にとって決して悪いものではないはずだった。
少なくとも、白夜が自分以外の誰かにあれを手渡している場面を見ずに済んで、よかったと思っている。きっと、そんなところを見ていたら、冷静ではいられない。
けれど――そんな悲しそうな顔をされたら。
そのとき、白夜の手が机の上のチョコレートに伸びた。そのまま包みのリボンを解き、包装紙をはがして、中身を開けてしまう。
やがて出てきたのは、あの日見たスタンダードな、けれど凝ったデザインのハート型。
それをしばらく眺めてから、白夜は諦めたように少しだけ微笑んだ。そして、そのチョコレートに両手をかけ、力を込める。
「……先輩!」
そして、同時に鍵介が部室のドアを勢いよく開ける。
白夜は当然、目を丸くして鍵介を見た。ばぁん、と少し遅れて引き戸がもの悲しく音を立てる。
「鍵介?」
どうしてここに、と、白夜が鍵介に尋ねた。
どうして? どうしてって。
白夜がせっかく買ったチョコレートを渡せなくて。とにかく悲しそうで、寂しそうで、それで反射的に飛び出しただけだ。
「…………チョコレート」
ぐちゃぐちゃになった思考をなんとかいなし、口をついて出た言葉をなんとか形にする。
「そのチョコ、一人で食べようとしてたでしょう」
「え、うん」
言われて、白夜は驚いた表情のまま、手に持ったチョコレートを見下ろす。鍵介はそんな白夜につかつかと歩み寄り、言った。
「先輩のことですから、渡しそびれると思ってたんです。案外抜けてますからね、先輩は。どうせしょぼくれて一人で食べるだろうと思って、慰めに来てあげたんですよ」
感謝してくださいね、なんて、自分でもあからさまな憎まれ口を叩きながら、その実、心臓はどきどきと脈打っている。
その鼓動に気付かれないか心配になりながらも、もっと白夜に近寄って、手を伸ばした。
「それ、半分ください。片付けるの、手伝ってあげますから」
そして、白夜の手の中のチョコレートの端を掴む。そしてそのまま力を入れて、そのハートを真っ二つに割った。
ぱきん、と軽い音を立て、茶色いチョコレートの半分が、白夜の手に。そしてもう半分が鍵介の手に残る。
そしてそのまま、白夜が何か言う前に口に入れた。そのまま、硬い音と一緒にかみしめたチョコはほろ苦くも甘く、なんだか懐かしい味がする。
白夜はじっと、鍵介を見上げていた。やがて、自分の手の中に半分残ったチョコレートを見下ろして、呟く。
「おいしい?」
「はい。先輩、チョコを見る目はありますよ」
「そっか。……ならよかった」
そして、少しだけ笑った。そして、白夜も自分の手の中のチョコレートを口元に持ってきて、小さくかみ砕く。
そのまま何を話すでも無く、ぱきん、ぱきん、と、二人で黙々とチョコレートをかじっていた。
白夜が渡そうとした気持ち。甘さ。それをひとつずつ小さく砕き、飲み込んでいく。そう思うと、なんだか少しだけ、気分がよかった。
けれど、この気持ちは、自分以外の誰かに渡すためのものだったのだ。それがすこし、いや、けっこう切ない。
それでも。
「来年は……きっと、渡せますよ」
やがて、手の中のチョコレートが全てお腹に収まった頃。鍵介はぽつりと、そう言った。
白夜は鍵介を見上げて、少しだけ切なそうに眉を寄せる。しかし、すぐにまた微笑んで見せた。
「うん。……今度こそ、ちゃんと、渡せればいい」
ありがとう、と小さく呟いた白夜の声をどこか遠くに感じて、鍵介は頷く。
口の中にはまだチョコレートの甘さと苦みがこびりついて、しばらく忘れられそうに無かった。