自宅主人公・神谷奏太。
主人公と鍵介。
「飛べる人が羨ましかったんですよ、たぶん」
夕暮れの音楽室で、鍵介はそう言いながら、ピアノの鍵盤を押す。
鍵盤は「ぽーん」と弱々しい音を立てた。奏太はそれを、鍵介の隣で聞いている。
「出来る人は、何でもないことみたいに、曲を作ったり、歌を歌ったりするじゃないですか。実際、本人は何でもないことだと思ってるのかも知れないですし」
奏太は黙って、鍵介の言葉に耳を傾ける。
偉人の中には、「努力を努力と思っているうちは、まだ道半ば」なんて言葉を残した人がいるくらいだ。鍵介の言う通り、そういう人からすれば、それは日常のうちの一つに過ぎないのかもしれない。
「でも、見てるこっちからしたら、ただ楽しそうで、羨ましい。空を飛ぶのはきっと楽しいだろうなって、思っちゃうんですよね」
何かの才能を得て、何かの能力を持って、成すということ。それは持たないものの目から見れば、とても華々しく映るのだ。
作家にとってのペン、奏者にとっての楽器、あるいは画家にとっての筆は道具かも知れない。だが、その能力を持たない者からしてみれば、魔法の杖とそう変わりはない。
だから、つい、思ってしまうのだ。その魔法の杖さえあれば――
「翅さえあれば、僕も飛べるって思ってたんですよね」
重たい現実から解放されて、何の不安も憂いも無く、飛べると思い込んでいた。
「でも、そうじゃなかった」
現実には魔法の杖など無く。鍵介の背には翅もない。
鍵介はそれ以上何も言わず、ただもう一度、ピアノの鍵盤を押す。また、「ぽーん」と頼りなげな音色が響く。
それを聞きながら、奏太は微笑んだ。
「でも、これから作ることは出来るよ」
君はまだ、可能性の塊なんだから。そう言うと、鍵介はちょっと目を見張って、照れくさそうに視線を逸らした。
「鍵介はやっと、その翅が何で出来ているか、考え始めたばかりなんだよ。きっと作れる」
鍵介の隣に寄り添ってそう言い、ちらり、とその背に目配せをする。今はそこにない、半透明で薄い、妖精のように軽い翅を想った。
「そう上手く行きますかね」
「さあ。それはどうかな。作るのもだけど、きっと飛べるようになってからも大変だ」
だって、と奏太は笑う。
飛ぶのはきっと楽しいけれど、楽ではないのだろうから。