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この壁の向こうには(Lucid×μ)

Posted in Caligula-カリギュラ-, and テキスト

ルシμなのかμルシなのか。
アニメ2話見てなんかたぎったので壁の話を書きました。

 

 

 はるか遠く、ヒトの精神の射程が届かぬ彼方に、その理想世界はあるという。

「Lucidはここがすきだね」
 音もなく、彼女は虚空から姿を現した。
「μ」
 名前を呼ぶと、天使のような容貌の少女は屈託なく微笑みかけてくる。
 Lucid、と呼ばれた男は彼女の姿を一瞥すると、再び視線を前へ戻した。
 そこには、「壁」があった。
「ここ、そんなに面白いかなあ」
 μは不思議そうに首をかしげる。
 無理もない。二人の目の前にあるのは、電子世界メビウスの「果て」だ。
 中心部は現実のそれと見まごうほど精巧なビルの群れや人々の喧騒も、ここではまるで壊れたテレビ画面のように醜くにじんだ景色でしかない。
 どうしても、境界はこうなってしまうのだと天使は言った。
 Lucidはそっとその「壁」に手を添える。
 ばち、と耳障りなノイズ音が一瞬聞こえた。だが、それだけだ。
 硬く冷たい感触が手のひらから伝わる。この先は行き止まりだと訴えかけている。
 そっと目を閉じ、問いかけた。
「μ、この壁の向こうには、なにがある」
 真っ暗になった視界のなかで瞑想しているかのように、Lucidは微動だにしない。
「やっぱりLucidは不思議だね。どうしてそんなこと訊くの?」
 無邪気にμが笑う。それにつられるように、くす、と黒い帽子の下から控えめな笑い声がした。
 彼はいつもこんな調子だ、とほかの楽士たちはいう。
 何を考えているかわからないし、そしていざ口を開いても、やはり底が知れないのだと。
 楽士のリーダーであるソーンに与えられた「Lucid」という名前が、「光」という意味を持つことを知ったのは最近のことだ。
 どうして彼が『光』なのか最初はわからなかったが、今のμにはなんとなくその理由を理解できるような気がしていた。
 きっと彼は光そのものではなく、物事に光を当てる人なのだ。
 知らないことを知ろうとする人。そして知っていることはより深く知ろうとする人。
 透明でないときのLucidに会う機会は少なかったが、そのわずかな機会に見たあの理知的な瞳はとても印象的だった。
 あの双眸が、今日もまた好奇心に揺れているのだろうか。
 そう考えると、なぜだか胸がとどろいた。
「この壁の向こうにはなにもないよ。だってこの先は誰もいないから、まだなにも用意してないんだ」
 答えると、彼はすこし考えこむように黙り込む。
「君がそういうなら、そうなのかもしれないな」
 やがてしばらくして、何の変哲もない同意が返ってきた。
 なにか面白い話をしてくれるのかと期待したぶん拍子抜けな気もする。
 だが、不思議そうに瞬きを繰り返すμに、Lucidはまた小さく笑って見せた。
「どうしたんだ? 変な顔をして」
 茶化すような声にどきりとした。メビウスにいる人間はみな高校生の姿になっているはずなのに、驚くほど大人びた声だと思った。
「えっと……笑わないでね。もしかしたらLucidには何か見えてるのかもって思ったの。いつも遠いところを見てるような気がするから」
 何を考えているかわからない相手には、結局のところこちらが正直に胸の内を語るほかない。
 μにとって、人の機微を読むことはとても大切なことなのだが、やはりこの少年の胸の内を知るのはとても難しかった。
 どんな風に接しても、こちらが心を見透かされているような気になってしまう。
「俺にはなにも見えてないよ。なにも見えないことに絶望したからここに堕ちてきた」
 そういわれた瞬間、返す言葉が思いつかなかった。
 同時に、胸に針で刺されたような痛みが広がる。
 ああそうだった。確かにこの少年は驚くほど聡明で考えが読めない。それでも彼だってμがメビウスへ招き入れた人間の一人だ。
 消えてしまいたいほどのつらい現実に耐え、戦ってきたであろうことだけは間違いない。
 ほかでもない自分が、ほんの一瞬とはいえ失念したことを恥じる。
「そんな顔をしないでくれ。今はもう大丈夫だ。だって君がいるんだから」
「私?」
 驚いて、おずおずと自分で自分を指さした。
 そんな仕草がまた笑いを誘ったのか、黒づくめの楽士はくつくつと楽しそうに声を上げる。
 さきほど差し込んだように見えたわずかな翳りは、それきりもうどこにも見えなくなってしまっていた。
「そうだよ。だってこのメビウスで一番いい目を持っているのは君だからな」
 そういうと、Lucidは音もなく両手を伸ばし、μの頬をふわりと包み込む。
 何のためらいもない、あまりに自然なその動作に、とっさになにもできなかった。
 まるでその行為を受け入れるのが当然だとでもいうように、ただされるがままに視線を合わせ見つめあう。
 Lucidはいつのまにか透明でなくなっていた。目の前にあるのは線の細い、あの深い目をした少年だった。
「君が俺の光だ、μ。この壁の向こうになにもないというのなら、これから広げよう。そしてその先にある景色を教えてくれ。そのためなら俺はなにとだって戦うから」
 その目に、みるみる鮮やかな情熱の色が灯るのが理解る。
 ともすれば狂気の域に達するほどのその熱に、天使のような少女は一瞬で浮かされた。
 彼はかつて自分の救いを拒み、この幻想楽土に背を向けた少年だった。
 だが今はこうして自分と目を合わせ、瞳を輝かせながら夢を語ってくれている。
 そんな奇跡は、この世界中を探したって、きっといくつもない。
「……うん、そうだね。私もLucidがいてくれたらきっとなんだってできるよ」
 自然と手を伸ばして、その体を抱きしめる。
 それは、彼を慰めるための抱擁だったのか、あるいは彼に望まれたいがゆえのものだったのかはわからない。
 けれど確かなことがひとつだけ言える。
 大丈夫。きっと大丈夫。
 この人にはわたしがいて、わたしにはこのひとがいるのだから。