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有機生命体進化論01

Posted in Caligula-カリギュラ-, and テキスト

第1話。
蒔苗くんがメビウスにきたようです。

 

 父はよく言っていた。
 人間と動物の違いはなにか?それは理性の有無である。知性の光のあるなしである。
 父はよく言っていた。世界にはそれを台無しにしてしまう毒が存在する。
「おまえは私の最高傑作だ。私はおまえを人と同じように作った。人のように考え、人のように泣き、笑い、怒る心を与えた」
 人と同じ精神のカタチをした、電子の生き物(カタマリ)。
 生まれ方が異なっても、生物となる過程をどれだけ逸しようとも。
 そこにある輪郭は人間の理性とほぼ同じ線を描いている。
「けれどひとつだけ、おまえに与えなかったものがある」
 人に本来あって、俺にはないもの。
 それがなんであるのか、何故そんなことをしたのか、父は繰り返し俺に言い聞かせた。
「『愛』を知ってはいけない。だからおまえは生涯、誰も愛することはないだろう。作り手の私さえも、おまえは愛したりはしない」
 俺はほんの少し首を傾げて、問いかける。
 どうして?と。
「『愛』は世界最悪の乱数だ。あまりに広義で、あまりに未知数だ。作りものであるおまえが理解するには、荷が重すぎる」
 ゆっくりと目を細め、言い聞かせるように答える父の様子を見て、俺は理解する。
 父が俺に愛を与えなかったのは、それを貴ぶが故にではない。
 愛が、憎らしいからだ、と。
「残念ながら、おまえの中から『愛』を消し去ることはできなかった。だから代わりに、厳重に封印しておいた」
 私の姿を与え、私の知性を与え、私の理想を与えた。
 そして私がどうあがいても捨てられない、唯一の汚れを生む箱には鍵を掛けた。それがおまえだ。
 愛を知ってはいけない。その箱を開けてはならない。
 その言葉を反芻させながら、父は俺の手を放した。
「さあ、行っておいで。そして私の代わりに『彼ら』を導き、現実に連れ帰っておいで」
 それは、0と1の泥からヒトの形を作りたもうた、神の意志。
 途端に俺の身体は傾ぎ、ゆっくりと沈んでゆく。まるで海の中をたゆたうようにゆっくりと、だが確実に黒く暗い水底へ落ちていく。
 電子世界メタバーセス。そこはまさしく電子の海と呼ぶに相応しい場所だった。
 俺の意識はそのなかをゆっくりと落ちていく。父が目指せと囁いた円環の深海を目指して沈んでいく。
 そのとき、歌が聞こえた。
 「……?」
 美しいピアノの音色が溢れる。それを追いかけて激しいギターがかき鳴らされる。
 透明度の高い歌声がその中で踊る。突然のハウリング。ノイズ。
 そしてまた、目が醒めたような静かなピアノ。
『君がいない世界なんて、認めないよ』
 歌詞がそこにふわりと乗り、俺の思考に入り込んでゆく。
『君がいれば、何もいらない』
 慟哭。
 その歌からは、行き場のない悲しみと絶望が痛いほど伝わってきた。
 これは海の底へ到達するまでの、長い長い待ち時間。
 きっとこれが、ゆっくりと休むことのできる最後の時間になるだろう。
 他になにかすることもないので、俺は静かに思考実験に没頭することにした。
 検索。
 「痛み」も「悲しみ」も識っている。だが、まだ俺はそれを実感という形で学んだことはない。
 歌とは。芸術とは、知識にできない実感を形にする数少ない手段のひとつだ。
 俺が感じたことのない痛みを、そして悲しみをまっすぐに伝えるこの歌に、ほんの数秒で惹かれた。
 俺には鍵のかかった箱を開ける手段はない。
 それでもこの歌は、長い間ブラックボックスのままだったその中身に淡い光を当てたような気がした。
 やがて、思考に耽る時間は終わりを告げる。
 肉体というくびきのないこの世界では、意識したことが現実になった。
 ゆっくりと心の手を伸ばし、円環の名を持つ世界の入り口に……メビウスの扉に触れる。
 その瞬間、電気が走ったような気がした。
「あ」
 膨大な情報量が脳内を駆け巡り、文字通りあっという間にオーバーフローを起こす。
 俺は、その時確かに拒絶された。
 父の持たせてくれたハッキングスキルは、未知と神秘の扉の鍵とはなりえなかった。
 その時からすでに、思惑は外れていたのだ。
 
 終わることのないメビウスの環。
 またあの歌が聞こえてくる。
 それに誘われるように、電子の海底に住まう意志が、音もなくその首をもたげる。

「メビウスへようこそ。君の名前は?」

 人の形を模し、人の声を模し、誇大表現もいいところの仕草と抑揚で、彼女は俺に話しかけた。
 それは白い少女の姿で俺の前に降り立ち、当たり前のように取り込もうとする。
(離脱を。せめて抵抗を)
 しかし、彼女の細い手に触れられた瞬間、思索は無駄になった。
 ごとん。
 鈍い……それはなんの音だったのか。
 その正体を知るには、俺が再び目覚める日を待たなければいけない。

 それからの日々は、電気信号でできた生き物にとってあまりに怠惰だった。
 デジタルでは表すことのできない、ありとあらゆる幸福。
 整数では説明できない人間的快楽をすべて経験して。

 「……在校生代表、蒔苗 実理(まかなえ みのり)」
 少年はまどろみから目覚める。

 それを開けてはならない。
 愛を識ってはいけない。
 きっとあのとき、あの鍵がかかった箱の底には、小さな穴が空いていた。