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Struggle

Posted in Caligula-カリギュラ-, and テキスト

ODクリアして琵琶主に滾ったので。
琵琶坂の本性について書いているのでネタバレ注意。
二人にゲームしてほしい。

 

 

 

 

 

 僕らは化け物だ。
 ニンゲンという群れの中にぽつんと生まれた、醜悪で苛烈な本性を持つどうしようもない怪物だ。

 彼の前の席はいつもぽっかりと空いていた。
 それを見るたび、新雪の降り積もった野原を見たときのように、胸がとどろいたものだ。
 なにかの写真から写し取ってきたように整然と並べられたその布石。
 日を跨ぐたびに装いを変えるのに、ただ一つとして同じ戦局はない。
 その無意味さの意味を、僕はまだ知らなかった。

「訊いても構わないかい?」
「ん?」
 間延びした返事があって、彼は面倒くさそうにこちらを見た。
 理想の世界メビウスから脱するために結成された反逆者組織・『帰宅部』の部長。
 そんな肩書を背負っているはずの彼は、気だるげでやる気のかけらも見せない様子の男だった。
 暇さえあれば、モニターかゲーム盤を相手に自分との戦いに没頭している。根っからのゲーマーなのだと本人が自称していたのを聞いたのはいつだったか。
「どうしていつも一人でチェスをしているんだい」
 琵琶坂の目線は、ゆっくりと彼の目の前にある盤面に注がれた。
 そこには年季の入ったチェスセットが一組、部室の机の上で白と黒のコントラストを描いていた。
 部長はそれを相手に、たったひとりで白と黒の駒を交互に操りチェスを指しているのだ。
 ひとりチェスというものがないわけではない。例えば感想戦、反省戦と呼ばれるたぐいのものは、電話やネットを通じて一人で盤面を再現することもある。
 だが、部長は部室で暇をつぶすとき、必ず一人でチェスを指す。誰かと対戦しているところを見たことはなかった。
「……対戦する?」
「訊いているのは僕だ。まずは質問に答えてくれないか」
 そういいながら、もてあそぶように白い駒をひとつ取り上げる。
 クイーン。
 チェス最強の駒と呼ばれる、切り札の駒。
 持ち上げたそれが琵琶坂の視界に入るより先に、鋭い痛みが手首を襲った。
「対戦するなら、」
 じん、と遅れて熱さが広がる。部長が自分の手首をつかみ上げていたことに、そこでやっと気づく。
「片付けてちゃんと相手するからそう言え。水を差すな」
 息をのんでその目を見つめ返すと、滑るように部長の前髪が流れ、その隙間から表情がうかがえた。
 凄絶、という言葉はこういう時に使うのだろうか。普段の怠惰そうな様子からは想像もできない、敵意と悪意がむき出しの据わった目がそこにはあった。
「……それはすまなかったね」
 視線で縫い留められたように微動だにせず、しかし琵琶坂はそのまま白いクイーンを握りしめ、もう片方の手で机の上のチェス盤をまとめてひっくり返した。
 どしゃ。という鈍い音が床に散らばる。
 からから、と駒が転がる音がそれを追いかけ、机と椅子、そして部長と琵琶坂の足にぶつかっては止まる。
 机の上にかろうじて残っていた黒のルークが、最期の抵抗をやめたように零れ落ちた瞬間、琵琶坂の胸倉がものすごい力でつかみ上げられた。
「ぐっ」
 ばしゃん!という派手な音とともに、背中をロッカーへとしたたかに打ち付けられる。
 自分より小柄な相手とはいえ、全体重を乗せたその攻撃はなかなかに効くものだ。わずかに呼吸が乱れた。
「っらぁ!」
 薄目を開けると、息つく暇もなく部長のこぶしが振り上げられるのが見えた。
 反射的に体が動いたのは重畳だった。ぎりぎり、殴られる前に手首をつかみ返して阻止する。
「ガキか、君は」
 ぎりぎりと手首を締め上げて力を殺ぐ。その間も、部長はずっと底冷えするあの目でこちらをにらみつけていた。
 まるで、恋人を奪い取られた男のようだ。
 その考えに至るころにはもう、琵琶坂は自分の口角が意地悪く持ち上がるのを抑えることができなくなっていた。
 それは、まるで新雪を踏み荒らすような。
「そうやって、そこに座っていた対戦相手のことも殴ったのかな?」
「────!」
 手ごたえがあった。彼の心の柔らかい部分を踏み抜いたという、それは恍惚な感触だった。
 掴んだ手首を引き寄せ、重心を乱す。
「あ!」
 間抜けな声が耳をくすぐったのと同時に、バランスを失った体をかろうじて支えていた部長の足を払う。
 そのまま、二人は重力に従ってもつれ合い、床に墜落した。
「……ッ…!」
 肺の空気を無理やりに押し出されたのか、自分の下であえぎ声が上がる。
 ざまあみろ。と心の中で悪態をつく。僕の言うことを聞かないからこうなるんだ。
「いきなり殴りかかることはないじゃないか」
 暴力反対だよ、などと嘯きながら、微動だに出来ないように彼を押しつぶす。
 さらに言葉をぶつけようと口を開いた瞬間、その凶悪な感情は一瞬で消え失せた。
 思ったより近くにあったその端正な顔は、死人のように真っ青だった。がくがくと取り上げた手首も震えている。
 琵琶坂の暴力におびえているわけではない。もしそうなら、その目はまっすぐこちらを見ているはずだからだ。
 部長の視線はただひたすらにさまよっていた。まるで、彼にだけ見える『何か』がそこにいるようだった。
 そこで気づく。
 彼は踏みとどまったのだ。やっと膨れ上がり、はじけたはずの己の衝動に蓋をしてしまった。
 ぎらぎらと光っていたあの瞳がまだ脳裏に焼き付いている。
 彼は人を傷つける側の人間だ。それも、傷つけることが染みついている、どうしようもない人間。
 けれど普段は巧妙に牙を隠し、日常に擬態して生きている。
 そう、琵琶坂永至と同じ種類の化け物。
 それなのに。
「ごめん」
 唐突に謝罪の言葉を浴びせられた。
 その声すらもう虫のそれのようにか細く儚い。
 先ほどまで高揚していた気分が一気に冷めたのがわかった。
 なんだ、これは。もう終わりなのか。
「つまらないな、君は」
 心底落胆した、というような色をこめて琵琶坂がいう。
 それでも、もう部長が激昂することはなかった。
「お前にはわかんないよ」
 ただ、諦めたように呟くだけだった。

***

 扉を開けると、先客がいた。
「やあ、相変わらず早いね、部長くん」
 ピンと背筋を伸ばしたまま、琵琶坂永至はこちらを見やり、薄く微笑んだ。
 目の前には、昨日彼がひっくり返して見せたあのチェス盤が元通りに並べられている。
 彼が座っているのは、昨日までは空っぽだった部長の対面だ。
「……おまえ」
「対戦してくれるんだろう? お相手願うよ」
 いけしゃあしゃあ、という言葉がこれほど似合う状況もないな、と部長は深いため息をついた。そして観念したように自分の席に着く。
 それを合図に、琵琶坂は流れるような動作で駒の初期配置をはじめた。
「抑えなくていいから、君とは真剣勝負がしたいな」
「……どういう意味だよ」
「僕はそう簡単に殴られたりしないよという意味さ」
「!」
 また、あの虚をつかれた表情が見られた。
 ひとまず琵琶坂にとってはそれだけでよかった。
「僕にはわかるよ。君は燻ぶっている。ゲームに没頭するはただの転嫁行為に過ぎない」
 ゆっくりと、その爬虫類じみた目が細められる。
 それだけで、部長が蛇に睨まれた蛙のように動けなくなるのがわかった。
「勝ちたいんだろう。人を負かしたいんだろう。そうして積み上げた死体の数で、自分の価値を証明したいんだ」
 化け物、と。人間は自分たちを呼ぶ。
 肉食動物と草食動物が共存できないように、自分たちのような生き物とニンゲンは、手を取り合うことはできない。
 琵琶坂はそれを否定したりしなかった。むしろ喜々として受け入れさえした。
 だが目の前のこの男は。
「……お前と、一緒にするな」
 まだあがいているのだ。人間の振りができると……そうすることで、いつか人間になれると信じているのだ。
 その幻想を粉々に踏み壊してやりたいと思った。そうすることで見られる表情がどんなものか知りたくなった。
「さ、準備ができたよ」
 にこやかに手を差し伸べる。部長の前には白い駒。琵琶坂の前には黒い駒がずらりと並べられていた。
 チェスでは互いに最善手を指した場合、先手必勝と言われている。そして先手は部長だった。
「負けない」
「そうこなくちゃね」
 僕らは化け物だ。だから今日も、その本性をひた隠しにして生きている。
 琵琶坂が真実を口にしないのは、そのほうが面倒がなく有利だからだ。
 だが、彼は違う。
 とっくの昔に卵から孵ったくせに、まだ必死に殻をかぶって、自分は小鳥だというふりをしている。
 化け物はニンゲンにはなれない。きっと彼の衝動はいつかまた彼の大切なものを壊すのだろう。
 その瞬間を、自分の目で見てみたかった。
「お手並み拝見といこう」
 その悪あがきの。
 そういって、琵琶坂は自分に一歩踏み出した白いポーンを見据えた。