琵琶主。「Struggle」の続きです。
琵琶坂の本性について書いてあるのでネタバレ注意です。
群れを成す生き物の中に、ぽつんと異物が生まれることがある。
ひとつだけ柄の違う卵。君はまさにそういう存在だった。
「はい、今度は僕の勝ち」
「あー……くそ、また負けた」
晴天以外を認めないとでもいうような、うららかな昼下がり。
反逆者集団・帰宅部の部室では、もうすっかり恒例となった琵琶坂と部長によるゲーム対戦が行われていた。
対戦種目は毎回変わるようで、チェスから始まったこの試みは、カードゲームからクイズ、電源ゲームと多岐にわたった。
ゲーマーだとは聞いていたが、この守備範囲の広さにはさすがの琵琶坂も感心せざるを得なかった。
この男は、とにかく『勝敗がつくもの』ならなんでもやるのだ。さすがにジャンケンまで真剣にやる人間を見たのは初めてだった。
「勝率は……僕が頭一つ分上、といったところかな? いやあ、すまないねえ」
くすくすと笑って見せるが、部長は別にそれで気を悪くしたりはしないようだ。
鼻を鳴らして琵琶坂を睨みはするが、その唇は不敵に持ち上がり、今日も熱戦を演じてくれた好敵手を前に、頬もわずかに上気している。
「それくらいだろうなぁ。でも俺、追われるより追うほうが性に合ってるからいいよ」
からからと、いつも気だるげな表情が嘘のように部長は笑う。
ゲームをしている時だけは、いつも彼はこんな表情を見せる。
――――勝ちたいんだろう。人を負かしたいんだろう。そうして積み上げた死体の数で、自分の価値を証明したいんだ
そう彼のことを指摘したことがある。それを部長もまた否定はしなかった。
けれどなんどかやり取りを繰り返して、その考えは少し違っていたことに気づく。
「君は、負けても構わないのかい?」
この少年は、人を傷つけたいという衝動を抑え込んで生きている。
きっとその推察は間違いではない。こんなにも穏やかにやり取りをするようになっても、まだその瞳の奥で、なにか黒く得体のしれないものが燻ぶっているのがわかるのだ。
だがそれなら、きっと勝敗は彼にとって大切なもののはず。
人を虐げたいという欲望を抑え込むためにゲームに没頭しているなら、求めるものは勝利ただ一つ。きっとそうなるはずだから。
「誰にでも、ってわけじゃない。負けても良い試合内容だったら別に気にしない」
ふうん、と琵琶坂は相槌を打った。
どうやらやせ我慢などではなく、彼なりのこだわりがあってけろりとしていられるらしい。
「つまり、僕との試合は君のお眼鏡にかなうものということかな。光栄だね」
よそ向きの笑顔を作って、『ありがち』をべたべたに塗りたくった言葉を投げた。
こんなことで帰宅部の部長の信頼が深まるなら安いものだし、彼の本性を暴いてやりたいという個人的な欲求のこともある。
しかしそんなありふれた言葉を受け取った彼が見せたのは、泡が浮かぶように自然で、無防備な表情だった。
「そうだな、琵琶坂先輩とする試合は面白い。そう思える相手に出会えるのは、この世界じゃ奇跡みたいなもんだから」
ありがとう、と、満ち足りた笑顔で部長は言った。
それは、初めにみたあの気だるげなものとも、この間見た殺意にまみれた本性とも違う、まったく新しい顔だった。
奇跡、なんて大げさな表現を恥ずかしげもなく使うことが、この少年にもあるのか。
そう思ったら、その言葉が自分に向けて手渡されたことに、少しだけ……ほんの少しだけ気分が高揚した。
「……それじゃあ、また明日もやろう」
「ああ、明日は勝つから、よろしくな」
***
次の日、また部長があのチェス盤を前にしているのを見かけた。
目の前の席を空けて、白と黒を交互に動かして。
その表情は険しく、まるで何かに追い立てられているように苦しげですらあった。
「……っ」
名前を、呼ぼうとした。
その瞬間、部長が握っていた白い駒を握りしめ、呼吸の仕方を忘れたようにあえいだのがわかった。
あの時と同じ。彼がやっているのは過去の試合の再現だ。熟考の必要はないはずだった。
なのに、まるでそこに見えない壁でもあるように彼は駒を置けずにいる。
そこから1ミリでも動いてしまえば、世界が壊れてしまうとでもいうような、強く強い恐れ。
(なにを、そんなに)
彼は何をそんなに苦しんでいるのか。
彼は今、何を考えているのか。
あの空席に本来座っているはずの人間は、いったい誰なのか。
わからない。
わからないと思うたび、琵琶坂はじぶんの胸の奥がざわめきだつのを感じた。
ただわかるのは、あの席に本来いるはずの人間は、このメビウスにはいないのだろうということ。
だから部長はあんなにも苦悩している。
あの局面の意味を共有し、戦局に一喜一憂できる、本当の好敵手がいないから。
――――誰にでも、ってわけじゃない。
――――そう思える相手に出会えるのは、この世界じゃ奇跡みたいなもんだから。
頭を強く殴りつけられたような気がした。
あのとき満たされた自尊心と味わった高揚感のぶんだけ、今は羞恥と怒りの感情がにじむ。
ああ、あの言葉を。
あの席を。
きっと、琵琶坂より先に受け取ったニンゲンがいたのだ。
そして部長と共有し、勝利の喜びも、敗北の味も、等しく分け合っていたに違いない。
彼があの笑顔を向けた相手が、この世界の境界を越えたどこかにいるとすれば。
なら、僕はなんだ。そいつの代わりか?
それと知らず、僕は。
その結論にたどり着いた瞬間、滲んだ感情が反転し、胸の内に黒いものが沸き立つのがわかった。
(ふざけるな)
あの言葉も、あの席も。
(今は、僕のモノだ)
暴走する心に従って、体はゆっくりと、しかしわざと大きな靴音を立てて部長のほうへとその歩みを進めていく。
やがて、琵琶坂の存在に気付いた彼は青ざめた顔をこちらに向ける。
「あ、琵琶坂せ……」
せんぱい、と呼ばれる前に、無造作に突き出した右手で盤上の駒を握りつぶした。
がぢゃ、とにぶい音を立てて、白と黒の駒がぶつかり合い倒される。
チェスの局面のパターンは無量大数にも及ぶという。先ほどまで構築されていた局面を再現することは、すぐにはできないだろう。
部長はそれを、唖然とした表情で見守っていた。
「この間みたいに、掴みかかってみるかい? それでも僕は構わないよ」
彼のチェス盤を汚すのはこれが2度目だ。1度目、彼はその狼藉を許さなかった。
またあの化けの皮がはがれた部長を見られるならそれでもかまわない。
だが、それはかなわなかった。
あたりはずっと、時が止まったように静かなままだった。
「……いや、やめとくよ」
まだ恐怖が色濃く残った顔を逸らして、彼はそういった。
あの時の激情も、それだけで人を殺せそうな声色も、どこにもない。
彼の何もかもが、今、琵琶坂永至には向いていないのだと、痛いほど理解できた。
「ふざけるな」
怒りがこぼれて、あふれる。
部長の胸倉をつかみ上げ、あの時とは真逆の構図になる。
男同士とはいえ、年齢も体格も上の琵琶坂に、その体は簡単に翻弄された。
「なにを腑抜けている。俺を馬鹿にしてるのか。妄想の中のお友達になにを期待して、いつまでじゃれあってるつもりだ!」
頭の中に浮かぶ言葉を手当たり次第に投げつけた。
そうだ、あのときも彼はそうだった。
琵琶坂なら自分の中にいる怪物をなだめたり、隠したりはしない。
好きなように暴れさせるし、そうすることでニンゲンよりも自分が優れた存在だと知らしめすらする。
だってそれが正しいのだ。最初から理解し合うことなどできないとわかっていれば、どうやってだって生きていける。
一番やっかいなのは、中途半端に理解しあった気になって、こちらが一方的に被害を被ること。
ニンゲンは、自分たちのなかに異物がいたと知れば必ず抹殺しようとする。
そんな彼らが叫ぶのはいつも笑えるくらい同じ言葉ばかりだ。
騙したな。と。
そんなものと隣人でいることなど不可能なのだ。できたとしても、それは一時的なものに過ぎない。
琵琶坂の心は変わらない。化け物とわかりあえるモノがいるとしたら、それは同じ化け物同士だけだ。
「……ッるさいな……俺だってわかってるよそれくらい。あんたなんかに言われなくてもわかってんだよ!」
やっと激昂した声が返ってきた。だがそれは、半分泣いているような、自棄になったような震え声だった。
また、あの感触がした。彼の心の弱い部分にずくりとナイフを刺したような、鈍く甘い感触が。
怒りに染まりきっていた脳に、その快楽が嫌というほど沁みるのがわかった。
「不安なんだよ俺だって。だから必死に考えて、抑えてるんだろうが! じゃなきゃうまく現実に帰ることができたって、また暴走する。また人を傷つけるだけだ。どんなに大事なひとだって、どんなに大切な相手だって! 俺は『そう』なんだよッ!」
荒い呼吸を挟み、息も絶え絶えに彼は吠え続ける。
ぼろ、と、感極まったのか、その白い頬を涙が零れ落ちた。
それを皮切りに、大粒の涙が何度も何度も流れ続ける。そのうちのいくつかは、琵琶坂の手に落ちてはじけて消えた。
「こ、今度は……殺すかもしれない……っ」
そのあとの言葉は、嗚咽になって意味をなさなくなっていた。
彼の涙で濡れた手が、やたら熱いような錯覚に囚われる。
「お前にはわかんないよ」
びり、と、脳裏に電撃を浴びせられたような気がした。あるいはノイズか。
お前にはわからない。ニンゲンとわかりあおうとしたこともないお前には。
線を引かれた。
お前と自分は別の生き物だと断じられたのだ。同じ化け物同士であるこの男に。
それは、自分があの空席に座っていた人間の代わりとして扱われていたと知ったときより、もっともっと熱く鋭く琵琶坂の心を斬り付けた。
急に、世界に自分がたった一人であるかのような気さえした。
真っ暗な穴に落ちたような、そんな不思議な感覚を覚えて。
そのとき、自分がなにをしたのか、琵琶坂自身にもすぐには理解できなかった。
「んんっ……!? ふ、ぁ……っ!」
次に意識が浮上し、正常な判断力を取り戻したとき、唇と舌には柔らかく、温かい感触が残っていた。
酒に酔った時のような酩酊感と浮遊感。脳の裏側がずくずくとうずくのは、嗜虐心と支配欲が満たされたと訴えているからか。
はあ、と熱い吐息を吐き出してやっと、自分が彼の唇に自分のそれを重ねたことを理解した。
「……殺せばいい」
押し殺した声で囁く。彼にだけ聞こえるように。
その言葉に、部長がおびえたように肩を震わせたのがわかった。
「僕らを理解できない人間なんか、殺してしまえばいいじゃないか。わかっていないのは君のほうだ」
自分でも驚くほどあっさりと、本性が声という形を取って吐き出された。
底冷えするような、冷たく冷たい自分のなかの怪物の声。でもそれは、琵琶坂にとっていつも天啓に等しい声だった。
これに身を任せれば、上手くいかないことは何もなかった。
ニンゲンたちが有難がる、倫理や法律といったばかばかしい取り決めも軽く飛び越えて、自分の求めるものを好きなだけ手に入れることができた。
今までもそうだった。これからもそうなるのだ。
そして今この瞬間だって。
「俺は……俺には……!」
怯えた声が浮かんでは消えていく。琵琶坂の言葉に汚染され、なにも紡げずに霧散して飲み込まれていく。
とっくの昔に化け物として生まれたのに、必死に殻を被ってニンゲンの振りをしている生き物。
最初は彼をそんなふうに見ていた。
「……違うね。君はまだ産まれてすらいない」
「は……?」
突然わけのわからない言葉を浴びせられて、戸惑いの声がまた上がる。
その意味をいちいち解説してやる気にはなれなかった。
だからその代わりに、もう一度、今度は鮮明な思考のままで唇を重ねた。
群れを成す生き物の中に、ぽつんと異物が生まれることがある。
ひとつだけ柄の違う卵。君はまさにそういう存在だった。
それを僕が拾い上げたのは、たぶんきまぐれだったのだろう。