琵琶主。「Struggle」「Resistance」の続きです。
琵琶坂の本性についてネタバレ注意です。
初めてその『怪物』が現れたのは、10歳の夏だった。
俺が遊んでいたおもちゃを、ともだちが奪って壊した。
とても思い出深い、大切なおもちゃだった。
それが目の前で砕け、二度と元には戻らないだろうと察した瞬間、目の前が真っ暗になったことを覚えている。
気が付くと、俺の周りの人間がみんな怯え切った目でこちらを見ていた。
じんじんという鈍い痛みが厭わしかった。
それを伝えてくる自分の腕を、まるで別の人の腕みたいだと他人事のように思っていた。
どうして。と母は訊いた。どうしてこんなひどいことをしたの。と。
あんなにみんなの言うことをよくきく、いい子だったのに。
目の前には、血だらけになったともだちが倒れていた。
***
「やあ。こんなところにいたのか」
「げ」
その男は唐突に目の前に現れた。
高そうな青いスカーフが目を引く、こじゃれた服装の高校生が一人。その場所で彼の姿は明らかに浮いていた。
絶対にここなら会わずに済むという確信があった。なのに、彼……琵琶坂永至という名前のその男はあっさりと部長の居場所を突き止めたらしい。
はあ、と部長の口から重いため息が漏れ出た。
「おやおや、ずいぶん歓迎されてるようだね」
その反応に対しては息を吐くように皮肉を飛ばして、琵琶坂はいぶかしそうに腕を組んで見せる。
うへぇ、とわざと大げさに嫌な顔をして、部長は思わず口元を押さえた。
「あんなことしといて、歓迎されるわきゃねー」
思い出すのは、先日部室で琵琶坂とチェスとした時のことだ。記憶を掘り起こしたことで、唇にもあの感覚がよみがえってきそうだと感じた。
あれ以来、琵琶坂とは対戦していない。そんな気になれるわけがなかった。
――――僕らを理解できない人間なんか、殺してしまえばいいじゃないか。わかっていないのは君のほうだ。
耳鳴りのように、あの言葉が頭から離れない。
自分の中にいる『なにか』が醜くうごめいているような、異質な感覚。あのキスで、なにかのパスが繋がってしまったかのような。
彼はどうしてあんなことをしたのだろうか。そんなことを考えて、考えて、考えに耽りすぎて、逃げるようにここへ来た。
(なのに、この場所も知られたら、いくとこなくなるっての……)
視界の端に映るのは、薄暗い室内。効きすぎなくらい強い空調。混ざり合って不協和音と化した電子音。そしてやや行き過ぎた喧騒と、少々の罵倒。
ゲームセンターは部長の居場所だった。実際この場所は、世間からのはじかれ者にも等しく優しいところだった。
続いて琵琶坂のほうへ視線をやると、わかりやすくその眉間にはしわが寄っていた。
「琵琶坂先輩みたいな人にはゲーセンなんて馴染みないでしょ。しかもアーケード筐体コーナー……ここは俺たちゲーマーの聖地ですよ?」
そういいながら、部長は筐体に置いてあった炭酸飲料を口に含む。熱を持った機械の上に長い間放置されていたためぬるくなったそれは、正直言ってあまり旨くはなかった。
「別に馴染みのない場所ってわけじゃない。現実でもちょくちょく来たことはあるよ」
「へー意外」
ぷは、と飲み口を放して再び筐体の上に戻す。次に飲むときにはすっかり炭酸が抜けているだろうなと思いながら、部長は100円硬貨を求めて小銭入れのファスナーに手をかけた。
「今日はこれからミーティングだろう。その辺にしておきたまえ」
それを開けきる前に、小言がぶつけられる。また無意識にため息が漏れた。視線をずらしてそばの時計を見ると、なるほど確かにそろそろ集合を約束していた時間らしい。
はいはい、と生返事しながら筐体を操作し余っていたタイムを一気に進める。『GAME OVER』の文字を確認して椅子から立ち上がり、飲みかけのジュースはカバンへぞんざいに放り込んだ。
ふと顔を上げると、琵琶坂はじっと、先ほどまで部長が座っていた筐体の画面を見つめている。
どうした、と声を掛けようとして、先に向こうが口を開いた。
「『K@Z』っていうのが、君の名前なのかい?」
どうやら画面に表示されていたプレイヤーネームを読んでいたらしい。最近のアーケードゲームはネットワークを利用して戦績を管理してくれるサービスを取り入れているものが多いため、ゲームごとにプレイヤーネームを決めるのは珍しいことではない。
「そうだけど? 小鳥遊和詩だから『カズ』……それがどうかした?」
きょとん、とした顔で部長が肯定すると、琵琶坂はすこし考えこむようなしぐさの後、小さくかぶりを振った。
ほんの少し垣間見えたように見えた隙は、あっという間に跡形もなく消え失せてしまった。
「……いや、安直なネーミングだなと思っただけだよ」
「てめー」
おいてくぞ、と憎まれ口をたたくと、部長は……和詩はふいっと顔を背けて先にゲームセンターの出口をくぐった。
その背中を、琵琶坂は神妙な顔で見つめ続けていた。
***
ミーティングはそれほど長い時間を要さなかった。
部員も次々とカタルシスエフェクトに目覚め戦力も増強傾向。メビウスの探索とμの追跡はおおむね順調といってよかった。
今日行ったのは次に目指す場所の決定と、その探索メンバーの通知くらいだ。
案の定、すぐに解散の合図があり、部室はもとの静けさを取り戻した。
「んじゃ、俺はゲーセン戻るわ」
そそくさ、といった風に、和詩はカバンを肩に掛けると部室の戸に手を掛ける。
本当なら、この後はいつも琵琶坂と対戦ゲームに興じていた。
それが、今日もない。
同じように部室から出ていく部員たちも、明らかに和詩の様子がおかしいことに気づかわし気な表情を見せている。
いつの間にかその習慣は、自分にとっても、そして部員たちにとってもすっかり馴染みのある光景になってしまっていたのだ。
(いやな感じだ)
習慣だった。癖だった。
毎日顔を合わせ、命のやり取りを仮想化したこの中毒性の高い遊びを、自分ではない誰かと共有して。
盤上。あるいは画面の中でなら、勝利のためにあらゆる努力が推奨される世界だった。
相手を立ち上がれなくなるまで叩きのめしても、降り注ぐのは喝采と称賛の声だけ。
その快楽に身を投じたら、戻ってこられないのはもうわかっている。
だから琵琶坂が何かを言う前に、ここから立ち去らなければいけなかった。
彼といるとなにかが起こる気がしてならない。
それは和詩自身にとってはひどく不安を掻き立てる予感であり、また彼の中に眠る『怪物』にとっては、ひどく甘い誘惑であるように感じた。
その背中に、くだんの先輩は思いがけない言葉を投げつけた。
「おや、今日も逃げの一手か。世界大会にも出場したプレイヤーが情けない」
和詩の表情が、ひた、とその色をなくし、体は一瞬、凍り付いたように動かなくなった。
耳鳴りがするほどの静寂の中、瞬きすら忘れた視界が、乾いてじわりと滲んでいく。
勢いよく振り返ると、そこには『してやったり』といった風な琵琶坂の笑みがあった。
「てめー……どうやって調べた」
じり、と間合いを測るように一歩、慎重に床を踏みしめる。
対峙するもう一方は、涼しい顔でテーブルの上のチェスセットをいじりつつ、こちらの様子をうかがうのみだ。
やがて数秒の間をおいて、その爬虫類じみた目がすうっと細くなった。
「有名人のことを調べるなんてそんなに難しくないと思うがね。まあ、対戦ゲームのプレイヤーなんてその界隈でどれだけ有名だろうが、実質は無名みたいなものだが」
その言葉のどこに、彼を抉る力があったのかはわからない。だが、言い終わった瞬間、部長が強く床を蹴る音がした。
振りかぶられた腕が、まっすぐ、何の躊躇も遠慮もなく襲い掛かってくる。
加減をすることなど全く考えていないのがわかった。琵琶坂はまず顔の軸をずらし、急所を逃がしてから相手の攻撃を受ける。
受け止めた右手が悲鳴を上げるように痛んだ。しかし、ひるむことなくそのこぶしを自分の手のひらで捕まえ、動きを封じる。
「ワンパターンだな。この間も見たぞ」
煽った瞬間、答えの代わりに別の衝撃を左肩に食らった。和詩が最初の攻撃の勢いのまま、琵琶坂に体ごと突っ込んできたのだ。
うわ、と喉から声が漏れた。
もう崩れたバランスは元に戻らない。とっさに左手が動いて、背中を打ち付ける数舜前に床を押し返してくれたのは幸いだった。
幾分か和らいだ衝撃にそれでも低く呻く。
自分の体重だけではない、タックルをかましてくれた部長のぶんのそれも受け止めたのだ。受け身が成功したといっても申し訳程度の効果だった。
怒らせたのはもちろんわざとだが、こんな風に地べたに転がされることまでは望んでいない。
苛立ちは加速する。
なにかを飼いならすのは愉快だが、飼い犬に手を噛まれるのは我慢がならない。それが琵琶坂永至という人間だからだ。そこに自業自得だからと自分を慰める思考はない。
「貴様……っ!」
ぎらり、と毒蛇のそれのような目が恐ろしい迫力でもって和詩をにらみつける。
そして、膠着。
最初、部長も同じような目をして琵琶坂をねめつけていた。今から人を殺そうというような、いやさっき殺してきたばかりと言われても納得してしまいそうな目だった。
どこまでも純化され、研ぎ澄まされた殺意。人間というより獣の性質に近いそれが、瞳を通じてまっすぐ自分の脳に突き刺さったような錯覚を覚えた。
僕は知っている。この目をする生き物を、とてもよく知っている。
それは犬なんかじゃない。この生き物は、犬のように群れを成さない。
その生き物は。
「……っ」
しかしすぐ、正気に返ったかのように彼はたじろぐ。それがまたさらにイラつきを加速させた。
「逆切れするくらいなら、最初から怒らせんな」
しかし、一方で和詩の声はひどく冷静だった。まっすぐ琵琶坂と目を合わせ、怯えているくせに、ともすれば憐れむような表情さえ見せた。
気に入らない。どこまでも気に入らなかった。
お前も同類の癖に、なにを悟ったような顔で僕を見下すのか。
よくよく考えれば、この体制も琵琶坂が彼に組み敷かれているように見えなくもない。それに気づいて声を荒げた。
「早くどけっ」
容赦なく腹を蹴って、相手を押しのけた。くぐもった声を上げて部長が転がるのを見て、なんて無様なと思った。本当にこいつがさっきの目をしていたのかといぶかしく思いさえした。
はあ、はあ、とお互いの息遣いだけがしばらくこだまして、最初に言葉を発したのは和詩のほうだった。
「……悪かった。でも、その話はもうするな」
それはひどく憔悴したつぶやきだった。
埃を払い、痛む場所をさすりながら立ち上がる。まだ琵琶坂は和詩をにらみつけていたが、もう和詩があの目で彼を見返すことはなかった。
ああ、まただ。またしまい込んでしまった。
最初も、この前も、彼は自分の本性を晒そうとは決してしない。
目の前にいるのがたとえ自分と同じ種類の生き物であってもだ。
「世界大会とか、もう出ないから。何回出ても、もう意味ないんだ」
やがて、ぽつりぽつりと、まるで独り言のように和詩は言った。ニンゲンに擬態し終えた目で、じっと琵琶坂ではない何かを、うらやましそうに見つめているようだった。
そしてやっとこちらを振り向いたかと思えば、その顔には苦笑が浮かんでいた。
「……対戦しようか。ゲーセンより、やっぱ今は琵琶坂先輩との対戦が一番面白いわ」
***
「なあ、先輩。対戦ゲーマーの聖地ってどこかわかる?」
「なんだね急に。ゲームセンターじゃないのか」
ぱちん、ぱちん、と乾いた音が心地よく鼓膜を揺さぶる。白と黒のコントラストが美しい盤面だが、チェスとはほんの少し違っていた。
今日の種目はオセロだ。シンプルだが、スタンダードで奥が深いゲームのひとつでもある。
日はすでに傾き始めていた。夕日が降り注ぐ部室で、琵琶坂と部長は最後の試合を演じていた。
「そうじゃなくて、勝った奴だけが……一番強いやつが行ける場所。さあどこでしょう」
ぱち、とその指先がまたよどみなく琵琶坂の陣営に食い込んだ。それを、学園一の秀才は面白そうに見つめている。
差し手の意味を考え、相手の心理を読む。何を意図し、何を仕込み、こちらになにを期待し、どう誘導しようとしているか予測する。
脳が考えることに疲れ、悲鳴を上げているのがわかった。だが、だからこそ研ぎ澄まされていくものもある。
二人はその心地よい疲れの中で、今日一番の勝負を行っていた。
「……秋葉原?」
「ぶっぶー。はずれです。ヒントは『カジノ』」
ああ、とそのヒントで合点がいった。目の前にある複雑怪奇な盤面を読み解くことに比べれば、それは子供だましのように簡単な連想クイズだ。
「ラスベガス、か」
「正解」
にやり、とその口の端が持ち上がった。だがそれは不思議と不快な表情ではない。
釣られるように琵琶坂も微笑すると、持ち時間が無くなる前に、と、自分の決めた手を指した。
ラスベガス。おそらく『カジノ』という単語で一番想像しやすい街の名前だろう。
賭博と勝負の世界。華やかな夜景も、酒も、金と運さえあるのならばいくらでも出てくる、眠らない街。
「世界大会の本選は、ラスベガスでやるんだ」
その言葉で、ハッと盤面に落とされていた視線を上げた。
和詩は琵琶坂を見ていない。ただ、夕日のカーテンの中で、なにかを懐かしむような表情をしていた。
それはあの日、ひとりでチェスをしていた時と同じ種類の表情に思えた。
ただ、あの時は滲むようだった彼の苦しみが、今は感じ取れない。まるで凪いだ海のように静かだった。
「日本と違って、ラスベガスじゃ賭博は合法だからさ、対戦ゲームの勝敗にも金を賭けられるんだ。俺もいくらか稼いだし、俺の試合に金を賭ける人もいたよ」
淡々と思い出話を語る部長を、琵琶坂はじっと待っていた。やがて、待ち時間を使い果たす直前に、和詩も応手を指す。
それは熟考しているというより、まるでこの試合が終わることを惜しんでいるようだった。
「随分と楽し気にいうじゃないか。キミのことだから、金がかかった勝負なんて汚いとかいうかと思ったが」
次の差し手はすぐに思いついたのだが、なんとなく琵琶坂もそれをすぐに指すことをためらった。
この話には興味がある。だから、それを最後までしゃべらせてから決着をつけてもいいだろうと、ただそれだけのことだ。
「やっぱ普通のニンゲンは、そう思うのかな」
首をかしげて、彼ははにかむように、諦めるように言った。
もしかしたら、琵琶坂と自分しかいないこの空間で、擬態し続けることに疲れたのかもしれなかった。
どくん、と心臓が鼓動を打つ音が、このときだけやたら大きく聞こえた気がした。
「あくまでも俺の感覚だけど、金のかかった試合をこなしてきた奴と、そうでない試合をこなしてきた奴では、強さが桁で違うんだ」
そこからの彼は、まるで初めて遊びを覚えた子供のようだった。
「そういうのは、戦えばわかる。自分の強さに金を積んできた奴とやるのは最高に楽しい。ラスベガスにはそういうやつがゴロゴロいた。それを見分けられる目を持ってるやつも……」
琵琶坂は部長のそんな無邪気で、どこまでも隙だらけな表情を見たのは初めてだった。
初めての、はずだった。
(どこかで)
フラッシュバック。
その映像のなかで自分は、照明を目立たせるためにわざと薄暗くしたその空間で、壇上を見上げていた。
スポットライトがひらめく。この街でそれを浴びられるのは、催し物の仕掛け人やミュージシャンくらいだ。
プレイヤーはお客であり、金を出せるという条件下に置いてどこまでも平等だった。
金さえ出せば、どんなゲームにも参加できる。そのゲームに勝てば、それなりの報酬を受け取ることもできるだろう。
だがその勝負には優勝トロフィーもなければ、表彰台も存在しない。
そのスポットライトの中心に立つことは、決してできない。
そのはずだった。
だが『彼』だけは。
「琵琶坂先輩?」
そこで、思考が一気に引き戻される。
どうやら知らない間に呼吸を止めていたらしく、琵琶坂は慎重に、だが肺の中の空気を残らず吐き出した。
脳裏に先ほどの記憶がこびりついて離れない。
ゲームと賭博の街。壇上を見上げる自分。翻るスポットライト。
そして、その中心で自分に背中を向ける、彼。
また心臓の音が、いつの間にかうるさくなっていた。
「……はい、俺の勝ち。いい時間だから帰るか」
その言葉で、自分の手にまだコマが握られたままだったことに気づく。持ち時間はとっくの昔に尽きてしまっていた。
かたん、と椅子が小さく揺れ、和詩が立ち上がり琵琶坂に背を向けた。それを、夕日が音もなく照らし出す。
まるであの時の彼のように。
「え」
手を伸ばした。そのまま、部長の手首をつかんで力任せに引っ張る。
無理やり振り向かされた彼が二の句を継ぐ前に、胸倉をつかみ引き寄せた。
かくん、と人形のようにバランスを崩した少年の唇はそのまま、一瞬でふさがれる。
「っ!?……んんんっ!?」
驚いたのだろう。声を上げようと口を開いたところに舌を差し入れ、容赦なく蹂躙する。
逃れようともがくのが煩くて、空いた手で肩をつかみ、さらに強引に抱きよせる。
頭ごと抱え込んでやるようにすれば、もう琵琶坂が許さない限りこのキスから逃れることもできなくなるだろう。
あとは、こちらが好きなだけ味わうだけだ。
「ん……ぅ……ふ……」
やがて、腕の中の抵抗がだんだんとか弱く、小さくなっていくのがわかった。
それはまるで、蛇に飲み込まれた小鳥が、ゆっくりとその腹の中で溶かされていくかのようだった。
気分が高揚する。どうしようもなく満たされていく。
これが、衝動に鍵を掛けないということだ。琵琶坂にとってはそれが生きる理由で、目的だった。
「っ……お前ッ……性懲りもなく!」
ひとしきり堪能したあと、ようやく唇が離れた。顔を真っ赤にして、和詩は琵琶坂を見つめていた。
尻もちをついて、処女のように唇を押さえて震えている姿が滑稽で、どこまでも面白くて、無意識のうちに笑い声が漏れていた。
「なあ、約束をしないか」
とてもいい気分だ、と琵琶坂は心の中でつぶやいた。
夕日は傾き続け、その赤い光はゆっくりと力を失っていく。
このメビウスにも夜は来る。この世界に堕ちてきた人間はすべからく高校生になり、それに準じた幸せを手に入れる。
そう。だからこの世界にあの街はない。
「現実に帰ったらまた、あの街で逢おうじゃないか。今度はもっとキミに賭けてやるよ」
手を伸ばした。今度は捕まえるためではなく、手を取るためだった。
部長の目が大きく見開かれる。琵琶坂の言葉の意味を理解したのか、あの街のことを知っていることに単に驚いただけなのかはわからない。
けれど、今はどちらでもいい。
彼が戸惑いを見せたのは短い間だけだった。
吸い寄せられるように。あるいは魅了されるように。
やがてゆっくりと、だがしっかりと、その手に和詩の手が重ねられた。