鍵介×主人公。
付き合いたての鍵主がファーストキスする話。
お疲れさま、気を付けてね、また明日。
そんな、別れ際の挨拶が飛び交っている。
放課後、帰宅部の活動が終了し、一人、また一人と部室を出ていくところだった。部長である彼は、部員の一人一人に言葉を返しながら、いつも通り、柔らかな笑みを浮かべて見送っていく。
最後まで残っているのは、眼鏡をかけた新入部員の彼だ。
蜂蜜を溶き伸ばしたような夕暮れの空が、部室の窓から覗いている。鍵介は、それをぼんやりと眺めながら、部長の見送りが終わるのを待っていた。
「鍵介。お待たせ」
やっとそう声がかかったのは、解散のかけ声から三十分ほど経ったころだろうか。
待ったと言えば待った。しかし、機嫌を悪くするほどじゃない。……そう思いながらも気を引きたくて、わざと答えずにいた。目線はまだ窓の外に向けたまま。
いったい、どんな反応をするだろう。そんなささやかな、悪戯心だ。
「……鍵介? 怒った?」
案の定、少し心配そうな声で彼が言い、鍵介の視線を遮るように前に出た。
……夕日。オレンジよりもなお深い、飴色をした、金色をした、柔らかな日差しの中。鍵介の最も大事な人が立っている。
綺麗な人だなあ、と思った。白い肌に夕日の色が映えて、整った顔立ちに影が落ちて、大人っぽい。桜色の唇は柔らかそうで、微かに開いては、「鍵介」と甘く自分の名前を呼ぶ。
手を伸ばせば届く距離にいる。抱きしめられる距離にいる。
「いえ、怒ってませんよ」
そう言って、笑みを浮かべた。そしてその腕を掴んで、引き寄せる。鍵介よりも少しだけ背の高い彼は、それだけで簡単に鍵介の方へ倒れ込んできた。
少し驚いたような彼の声をやはり無視して、しっかりと抱き留める。
「わ」
驚きと非難の色をにじませ、彼が顔を上げる。そこを逃さず、顎に手をかけて、その柔らかそうな唇に自分の唇を合わせた。
ふわり、と、夕暮れの風にカーテンが翻る。影が、カーテンに合わせて自分たちに落ちる。桜色をした唇は思った通り柔らかかった。
深くなるわけでもない、ただ、互いの唇を触れさせるだけのキスが、こんなにも気持ちいいなんて知らなかった。大切な人に触れている、ただそれだけのことが、こんなにも幸福だなんて知らなかった。
最後の最後、名残惜しくて、少しだけ唇を舐めてから解放する。すると、彼は見る見るうちに顔を真っ赤にして、眉根を寄せた。
「い、い、いきなり、なんで」
「……すみません、どうしてもキスしたくなって」
鍵介は半ば呆然と、そう謝る。本当に衝動的に、キスしてしまった。逢魔ヶ時には魔物が来るというが、魅入られでもしたのだろうか。
「そ、そ、それでも、準備とか、段階とかっ、色々あるだろ!」
やや噛みながらも言う彼は、いつもの『頼れる部長』像からはほど遠く、しかし愛らしい。
ああ、本当に可愛い。もう一回キスしたくなる。
それに、鍵介と彼、二人はキスをしたって別に問題はないはずなのだ。
「いいじゃないですか。僕ら、付き合ってるんですから」
「そうだけど……そうだけど! は、初めてだったのに……」
はじめて。しばらく、その言葉が鍵介の頭の中をぐるぐると回っていた。
ファーストキス。ああそうか。ファーストキス。
その言葉の意味を認識すると、急に取り返しのつかないものを奪ってしまったような気がした。
しかし、ここであからさまに狼狽えるのも格好悪い。だから、真面目な顔をしてこう言い返した。
「……だ、大丈夫です。僕も、初めてですから」
「嘘だ! 絶対嘘!」
「なっ、なんで全力で否定するんです!?」
「鍵介、絶対こういうことはソツなく済ませてるタイプだと思う!」
「風評被害です! 僕は先輩が思ってるより、ずっと奥ゆかしいんですからね!」
逃げようとする部長に追いすがり、抱きしめて引きとめながら、鍵介は必死で弁明する。
「き、キスは、大事な人しか……先輩としか、しません!」
「…………!」
混乱した頭で紡いだ言葉は、思った以上に大きな声になって飛び出していった。その途端、腕の中でもがいていた部長の動きがぴたり、と止まり、今度は耳まで真っ赤になっていく。
ふわり、とまた思い出したようにカーテンが揺れ、蜂蜜色の空は、ゆっくりと藍色を帯び始めた。
「……そういうのは、ずるい」
ゆっくりと肩越しに振り返る部長と目が合う。羞恥と、そして喜色を帯びた瞳。
ずるいのはどっちだよ、と鍵介は心の中で毒づいた。