琵琶坂→主人公♀の短い話。
その言葉を口にするのは簡単だった。
簡単すぎて、拍子抜けするほどだった。こんなことは誰でも言える。誰にでも言えると、心の底から思った。
あいしているよ、なんていう言葉。なんて薄くて軽いのだろう。
「……どうしたんですか、琵琶坂先輩。変なものでも食べましたか」
しかし、そんな誰にでも言える文字の羅列に対し、彼女は怪訝な表情を見せる。
ときめいた風でもなく、狼狽える風でもなく。琵琶坂は彼女のいやに冷静な反応が可笑しくて、思わず口角を上げ目を細めた。
「いや、特に思い当たらないな。至って普通のものしか口にしていない」
琵琶坂が含み笑いを滲ませてそう答える。すると、彼女は視線を窓の方に視線を動かし、席を立って窓際に移動した。
「じゃあ、明日は雨でも降るんでしょうか」
「それはいい。雨でも雪でも大歓迎だね。このメビウスでそんなものが降るなら見てみたいものだ。僕が『愛している』というだけで天候が変わるっていうのなら、だけど」
彼女の掌の向こう、窓の外は今日も嫌になるくらい、雲一つない晴天だ。
みんな雨の日より、お天気の方がいいよね――あの能天気な女神なら、きっとそう言うのだろう。
この世界の全ては、あの女神の凝り固まった価値観のまま、何の疑問も抱かれることなく流れてゆくのだ。雨よりは晴れがいい。暗いよりは明るい方がいい。大人より子供の方がいい。少ないよりは多い方がいい。小さいよりは大きい方がいい。満たされないよりは、満たされていた方がいい。
愛されないよりは、愛されたほうがいい。
女神だの天使だのと祀り上げられたあの電子のカタマリが言うその「幸福」を、何の疑問も無く信じていられる奴らが、可笑しくてしょうがなかった。彼らが「幸福」だと信じているものは、琵琶坂にとってこの上なく薄っぺらだった。
この薄っぺらな世界も、この世界がもたらす「幸福」も、うんざりだった。琵琶坂が求めるものは、すでにここにはない。だからこそ、現実へ帰るためにここに――この少女のところにいるわけだが。
「そういう言葉は、あまり軽々しく言うものじゃありませんよ」
少女が琵琶坂を振り返り、そう咎めた。口調は静かだが、明らかに『指摘』の口ぶりだ。まったく、生意気な娘だ、と思う。
「それは失礼。部長君は存外奥ゆかしいね」
冗談だよ、と一応言い添えつつも、言葉の最後の方で挑発する。
しかし帰宅部の部長である少女は眉一つ動かさず、また窓の外に視線を戻しただけだった。この少女は、普段は同年代の部員たちと馬鹿をやることもあるのに、たまにこういう顔をする。
そうしてしばらく、彼女は何も言わず窓の外を見つめていた。雲一つない、汚点一つない、青空を見ていた。
「……自分で言っておいて何ですけど。先輩がいくら愛を囁いても、きっと何も変わりませんよ」
そんなことは当たり前だ。
「おいおい、まさか本気にしたわけじゃないだろう? ただの冗談だ」
「いえ、そうではなくて」
琵琶坂の言葉を少女が遮る。嫌に透き通った声は、さして大きくもないし、琵琶坂がいつもするように大袈裟なトーンをしているわけでもない。それでも、よく響く。嫌でも耳に入って来る。
「愛なんかで世界は変わったりしないから」
ピン、と空気が張りつめる。透き通った声が空気に糸でも縫い付けていったかのような気分だった。
ああそうだ。その通りだ。愛なんかで世界は変わったりしない。まして、こんな薄っぺらな世界で語る愛なんかで。
「……そうかい」
そんなことは分かっていた。少女の語るその真実に驚いたわけではない。
けれど、それをほかならぬこの少女に、先に指摘されたのが、なぜか腹立たしかった。