恋人の日。遅刻した……
鍵介×主人公♀。現実に帰ってきてからの話。同棲している設定です。
ある日、家に帰ると、見慣れない鉢植えが置いてあった。
「なんですか、これ」
鍵介は荷物を置きながら、目の前に鎮座するその鉢植えをまじまじと見た。
両手で軽く持ち上がるくらいの小ぶりな鉢だ。中にはもうちゃんと土も入っていて、真ん中にはまだ小ぶりな花の苗も植わっていた。
何かの花だろうが、まだつぼみもついていない。鍵介は首を傾げた。元々花に詳しいわけでもない。苗だけでは何の花かも見当がつかなかった。
そうやってしばらく謎の鉢植えを見ていると、そのうち軽い足音が近づいて来て、おかえり、と弾んだ声が鍵介を出迎える。
この現実で、やっと同居を初めた恋人が、いじらしくも出迎えてくれたのだった。
「今日、偶然見つけたから、買ってきちゃった。ブバルディア」
綺麗に染まった茶色の髪を揺らし、少しだけ肩をすくめて彼女は微笑む。まるで上手いイタズラを思いついた子供のような笑顔だった。
「ブバルディア? この花ですか?」
聞き覚えのない花の名前だ。珍しい花なのだろうか。
鍵介がそう言うと、彼女はますます可笑しそうに、くすくすと声を上げて笑う。
「そう。鍵介のここに咲いてた花だよ」
そして白い指先で、そっと鍵介の胸元を撫でた。
あの、偽物ながらも優しく人を包み込んでいた世界――メビウスから出て、もう一年が経とうとしている。季節がひとめぐりし、鍵介たちの現実は、少しずつ遅れを取り戻し始めていた。
おかしな話だが「現実にも慣れ始めた」このころ、その花をもう一度見ることになるというのは、不思議な感覚だ。
「寒いの苦手らしいから、冬になったら部屋の中に入れてあげるね」
そして、その花に恋人が優しく語り掛け、甲斐甲斐しく世話をしているというのも、むずがゆい気持ちになる。
「(こんな花だったなあ、そういえば)」
ベランダに出された鉢植えを眺め、ぼんやりとそう考えながら、まだ若々しい葉に触れる。生きもの特有の、水分を含んだ柔らかい感触が返ってきた。
カタルシスエフェクト。アリアが調律して顕現するという、「人の心を形にした武器」。今はもう握ることのないそれを、今更ながら思い出す。
一つとして同じものは無いとアリアは言っていた。だとすれば、この花も、「鍵介だから」顕れたものだったのだろうか。鍵介の心とは、こんな形をしていたのだろうか。
「名札によると、ピンクのお花が咲くらしいよ」
楽しみだね、と彼女は鍵介の隣に腰掛け、目元を和ませた。そして、今汲んできたのだろう。小さなじょうろを傾けて、鉢植えに優しく水をかけていた。
今度はその横顔を見つめる。大抵の人間がそうであったように、彼女もメビウスにいた頃より幾分か大人びた。しかし、このときの彼女はなぜか、あのときの――まだ帰宅部の部長だった頃の彼女に重なって見えた。
『かっこ悪くなんてない』
将来を恐れるあまりに立ち止まった鍵介に、凛として言い放った彼女。鍵介がどんなに言い訳をして、逃げ回ろうと、この手を離そうとはしなかった。
『僕をこんな泥臭い人間にした責任、取ってもらいますからね』
そう言った鍵介に彼女は、
『望むところ』
と笑って見せた。
まるで花を育てるように。寒さを阻み、水を与え、優しい言葉をかけ続けてくれた。きっと、こんな風に傍に寄り添っていてくれたのだ。
「ちゃんと、咲きますかね」
そうやって、慈しんでくれた人に花が返せるものといえば、それくらいだ。花をつけ、鮮やかに咲くこと。
しかし、鍵介はそれを彼女に返せるだろうか。将来は不安を覚えた頃と同じく曖昧で何の保証もなく、現実には助けてくれる女神もいない。
花にはまだつぼみすらない。
「咲くよ。大丈夫」
しかし、彼女は確信に満ちた声でそう答える。まだ幼い葉を見下ろしてから、鍵介を見つめた。
「咲くまでずっと一緒にいるから」
そして、そっと鍵介に寄り添い、もたれかかる。心地いい重みが肩にかかり、安心感に変わっていく。
「……そうですね」
言いながら、そうっと肩に手を回す。何か言われるかと思ったが、幸い、彼女は鍵介に抱き寄せられるままになってくれていた。
「でも、悪い虫がつかないようにだけは気を付けないと」
ふと、その時彼女が真面目な顔をしてそう呟く。
「つくんですか?」
「つくんです。ついたら退治しないとなー」
その顔があんまりにも真剣で、思わず笑ってしまった。