Lucid×主人公♀。ねつ造同一人物CP注意。
当然楽士ルート前提。なんでも許せる人向けです。
唐突に書きたくなりました。
その扉をくぐるときはいつも、後ろめたさが後をついてきた。
朝焼けの色に似た淡い光。扉の形に浮かび上がったそれを見つめて、『私』は小さくため息をついた。
それは疲れから来るものというより、自分を鼓舞するためのものだ。息を吐き、吸って、意を決してから足を踏み出す。
『あなたは物事の一面しか見ていない』
『メビウスでしか生きられない人々の声も聞いてほしい』
薄紫の扉をくぐり、この世界――メビウスと「そうでない場所」との狭間に足を踏み入れる。不思議な浮遊感を感じながら思い出すのは、この扉を最初にくぐったときの、ソーンの言葉だ。
……私はその言葉を、拒絶することが出来なかった。
「…………」
目を閉じ、もう一度深呼吸した。この扉の向こうに出て目を開けたら、私は「Lucid」だ。切り替えはきちんとしないと、大変なことになる。
帰宅部である私は、楽士たちのことを何も知らない。それは事実だ。ソーンの言う通り、彼らがどうして帰りたくないのか――あるいは「帰れない」のか。それを知らずに彼らと敵対するのは、あまりに不誠実で、公平でない気がした。
では、帰宅部のみんなに事情を隠し、楽士として暗躍するのが誠実かといえば、それもきっと正しくはない。
結局私は迷っているのだ。帰る、帰らないだけではない。あらゆることを。でもそれは、出来るだけ正しい選択肢を選びたいからで――
『言い訳ばっかりだな』
そこまで考えたとき、唐突に耳元で声がした。私は思わず目を開ける。
「……誰?」
男の声だった。μやソーンの声ではない。ついで辺りを見渡すとそこは真っ暗で、扉をくぐる前にいた場所でも、楽士たちの控室でもなかった。
「(どこだろう、ここ)」
ただひたすらな、暗闇。目を凝らしても何も見えない。足元には固い地面の感触こそあるものの、それも実体を感じなかった。
普通に考えれば、楽士の控室へと続く場所……メビウスと控室の間に広がるという、メタバーセス……なのだろう。そう言えば、初めてμやソーンに控室へ案内される直前も、こんな真っ暗な場所に連れてこられた気がする。
『不誠実だから? 公平じゃないから? なるほど、確かに道理だ。けど本当のことじゃあない』
もう一度、男の声。またすぐ傍からだ。後ろから聞こえたような気がして、私は振り返る。しかしそこには誰もいない。
まるで、視界に入れた瞬間、消え去る幽霊のような。そう思い至って、反射的にぞわ、と背中に怖気が走る。
『こっちだよ、可哀想な迷子さん』
そしてまた、背後から声がした。今度は声だけじゃない。するり、と背中の方から二本の腕が伸びてきて、私を抱き寄せた。
「きゃ!?」
完全に不意をつかれ、私は小さく声をあげてしまう。
『おっと危ない。気をつけなきゃ』
私を抱き寄せた男は、心底可笑しそうな声でくすくすと笑う。声はやはりすぐ耳元――今度は吐息が感じられるほど近い。どうやら、後ろから強引に抱き寄せられ、抱き留められる形になっているらしい。
正体不明の男に易々と無防備を晒したことに、羞恥で顔が熱くなる。
「は、離して! 誰なの、あなた」
『まあそう言わずに。もう少し付き合ってくれよ。やっと会えたっていうのに』
男はしっかりと私を抱き留めたまま、尚も可笑しそうに言った。私が腕から逃れようとどれだけもがいても、びくともしない。
『でも、たしかに名乗りもしないのは失礼か。でも、俺はキミがよく知っている人物だよ』
そして男は、また私の耳元で囁いた。
『Lucid……μがそう名付けて、キミがよしとした』
私は思わず息をのむ。そんなはずはない。そんなはずは。だってLucidというのは、私の名前だ。
「何を、言ってるの……だってLucidは」
『そう。Lucidはキミだ。もうひとりのキミ。好奇心のままに、理想の奥を覗こうとするキミだ』
俺はキミなんだよ、と男は声を弾ませる。まるで、とっておきの宝物を見せびらかす子供のように笑う。それと同時に、私を捕まえていた腕が音も無く解かれ、私は自由を取り戻した。
男の気配が移動して、私の前にその姿がさらされる。私はただ、それを呆然と眺めていた。
黒く塗り潰され、裏地だけが鮮やかな赤に染まった衣装。白いマフラー。ああ、確かにこれはLucidの服だ。しかし一つだけ違うのは、帽子をかぶったその下、本来髑髏が覗いているはずのそこに、私ではない男の顔があること。
塗れたような黒髪に灰色の瞳。そして、雪花石膏を思わせる白い肌の男だった。
私じゃない。私ではなく、衣装が同じだけの全くの別人――
『――じゃない、って分かるだろう?』
不思議なことに、と男は付け加えてまた笑う。今度は声を上げずともそうわかった。私の目の前で、男は口の端を持ち上げて見せたからだ。
そう。私は男の言葉を、否定することはできなかった。
何故かはわからない。けれど、この男と私は無関係ではないと、そう直感した。それどころか、もうずっと昔から知っていたかのような、不思議な既視感がある。
『俺はキミ。迷い惑い悩み、そのあまりに全てを見ようと決めたキミだ。たとえ、その選択が愛しい仲間たちを裏切ることになろうとも。……いいや、愛しい仲間たちを裏切ったらどうなるのか、それさえも見てみたくなったキミだよ』
「わ、私は、そんなこと、思ってない」
男の言葉に、私は反射的にそう反論した。しかし、男は表情一つ変えず、首を横に振ってみせた。
『そうかな? そんなはずはないんだが。帰宅部の部長として、今まで非の打ちどころなくやってきたキミが、楽士として活動していたことを知ったら……彼らはどんな顔をするだろう? どんなふうに憤るだろう? あるいは泣くだろうか? そんなことを考えたことが、一度もないと言い切れるかい?』
あまりの酷い言いように、私は頭に血がのぼるのを感じていた。
「勝手なことを言わないで!」
私は確かにソーンの言葉に頷いた。Lucidであることを受け容れたし、実際にそうした。しかしそれは、帰宅部のみんなを裏切りたいからじゃない。それが正しい選択に繋がると信じているからで。
そう言い返そうと一歩、『Lucid』に向かって踏み出した。それと同時に、『Lucid』の手が私の頬に伸びる。
『そう。そして……手ひどく裏切ってやりでもすれば、彼らもキミを想わなかったことを少しは後悔するかもしれない。キミが彼らにそうしてやったように、キミに踏み込み癒してやればよかったと、キミが「助けて」と叫ばないのを良いことに、見て見ぬふりをしたことを、悔い改めるかも知れない!』
『Lucid』は言う。まくしたてるように。私を追い立てるように。酷い言葉を連ねていく。
恐ろしいのは、そのすべてが「私がかつて、考えたことのあること」だということだ。
『俺にとって『できる』は『やらなきゃいけない』だ。裏切り? 踏み込んじゃいけない? 踏みにじっちゃいけない? なんで? なんでだ? 信じたのはみんなだ。踏み込むことを許したのもみんなだ! だったら最期まで付き合ってもらおう、その顔が絶望に歪むさまだって、全部、全部見せてもらおうじゃないか!』
それはたとえ、ほんの少しだけ頭に過ぎった、妄想のような気持ちだとしても。叶わない夢を描くつもりで考えた、絵空事だとしても。
私の、誰にも言わずに胸にしまい込み、言い訳をして隠し続けてきたもの。決してそれをしてはいけないと強く蓋をして、もし現実に戻ったとしても、死ぬまで秘密にしておこうと思っていた心だ。
「……っ……やめてよ、そんなこと……!」
私は思ってない。もう一度そう言おうとしたその瞬間、私の頬に、『Lucid』の掌が触れた。まるで幽霊のように存在感のない『Lucid』の掌はしかし、意外なほど温かい。そしてその指は、まるでこの世でもっとも弱く儚く、美しい花を慈しむかのように優しかった。
『可哀想な『私』……俺ならわかってやれる。いつだってキミを理解してやれる。だって俺は、キミなんだから』
頬に触れた指が、ゆっくりと私の顎をなぞる。怖気にも似た感覚が、また体中をめぐった。が、私はなぜか、逃げる気にも抵抗する気にもなれない。
私を見つめ、愛おしむようなこの男の視線から、眼を離せないでいる。
この『Lucid』が私自身……そんなこと、あり得るのだろうか。いや、メタバーセスはネット上にある人の無意識だとアリアは言っていた。だとしたら、自分の中の別の人格がNPCのように実体を得たなんてことも、あり得るのか。
いや、仮にそうだとしても。
「私、二重人格とかじゃ、ないはずなんだけど」
やっとのことでそう言うと、『Lucid』は今度は拍子抜けしたように幼い顔をした。きょとん、というのはこういう顔のことだろう。
そして、すぐにまた破顔する。
『二重人格? あはは、なるほどね……悪いがそんなに救いのある話じゃあない。俺はあくまでキミ自身の欲望だよ』
俺はキミだ、と、もう一度『Lucid』が繰り返す。私の頬を撫でていた手が離れ、また、その両腕が私を抱きしめる。今度は正面から。私も、今度は抵抗しなかった。
『まだ迷うなら迷えばいい。俺もメビウスも、まだキミを急かしたりはしない。でもきっと、キミはその欲を捨てられないだろう』
『私』のことは全部見えている。全部わかっている、とでも言うように『彼』は嗤う。
『だってそれが人間の性だから』
見てはいけないものほど見たくなる。してはいけないことほどしたくなる。
愛おしければ愛おしいほど。大切であればあるほど。そのすべて、奥の奥まで覗き込みたくなる。『私』が仲間を大切に思えば思うほど、彼らの笑顔と同じぶんだけ、彼らの絶望だって見たくなるのだと。
『キミは悩むだろう。最後の最後まで。そして決断する。このまま行けば、必ず俺の手を取ってくれる。その瞬間が、俺は今から楽しみでしょうがないんだ』
私を抱きしめる腕の力が強くなる。恋人との別れを惜しむように、強く、『Lucid』が私をかき抱く。強く抱きしめられたせいで、呼吸が苦しい。しかし、やはり抵抗する気は起きなかった。
温かい。安心する。彼は私だ。私は彼だ。たしかに、それが実感だった。
『そうだ、このまま行くといい。たったひとりで。いいや、これからは俺とたったふたりだ。そして見せてくれ、その欲望の奥まで』
腕の力が緩む。呼吸が元に戻り、私は思わず息を吐いた。思わず『Lucid』を睨み付けようと顔を上げる。
「――――」
そして気付いた時には、口付けられていた。柔らかな唇が私の唇に触れ、思考が追いつく前に舌が割り入って来る。背中と頭の後ろに回された腕のせいで、身動きが取れない。
舌は容赦なく私の舌を絡め、歯列をなぞり、吸い付いてきた。
「んんっ、ぅ……っ」
抵抗しようとするが、力が入らない。優しく抱きしめられ、宥めるように口内を嬲られ、呻くことしか出来なかった。
ずぶり、と入り込んでくる。透明な、遮るもののないその身体が、私に染み込んでいく。唐突に、そんなイメージが脳裏に閃いた。それは音も無く、何の痕跡も残さず、ただただ、私の中に入り込み、居座り、『私』に絡みつく。
「(ああ、そうか)」
淫猥な水音に口内を犯されながら、私はぼんやりと思う。
魔が差すとはこういうことなのかも知れない。魔が差し、魔に刺されるといのは。
二重人格なんて、救いのあるものではないと『Lucid』は言った。別の人格が、私に何かさせようとしているわけではないと。全て私自身の欲望だと。
私のなかに、魔は存在する。いや、きっと誰の中にだって――
『そうだ。そして、一度捕まえたら、そう簡単に離しはしない』
うっとりと、酷く攻撃的な、獰猛な笑顔で彼は言う。その灰色の瞳が私を真っすぐに見つめている。決して逃がさないとでもいうように。
逃げられないのだろう。だって彼は私だ。自分から逃げることが出来る人なんていない。どんなに頑なな人でも、自分にだけは自分の心は隠せない。
その扉をくぐるときはいつも、後ろめたさが後をついてきた。