第6話。
笙悟さんが現実の蒔苗くんについて調べるそうです。
真夜中のことだった。しいんと静まり返った家の中で、笙悟は冴えた目で暗闇をにらみつけていた。
部室で倒れた実理を連れて帰宅したのは、ちょうど昨日の夜。結局彼はあれからまる一日中眠り続けている。『起きたら話を聞く』と約束したとおり、今でもその気は変わっていない。
だが、気がかりがあるとすれば。
果たして実理は正直にすべてを話してくれるのだろうか、ということだ。
笙悟は短い付き合いながらも彼のかたくなさをよく知っていた。実際、自分は彼のことを何も知らないままだ。
(まあ、いざ知ろうとしたとたんに拒否されたんだけどな)
笙悟が空になったコップを流しに戻すと、めぐらせた視線の先に『光』が漂っているのを確認した。それは蛍のように柔らかく明滅を繰り返しながら、ゆっくりとこちらへ飛んでくる。
「アリアか」
名前を呼ぶと、その光はうなづくようにふわりと揺れ、妖精を思わせる小さな少女へと姿を変えた。
「……笙悟」
自我を持つバーチャドール・アリア。
この理想の楽園メビウスを作り上げたμの片割れであり、帰宅部が急激に力を付けるきっかけとなった重要人物だ。
思えば、彼女が笙悟の目の前で実理に力を与えたことが、すべての始まりだった。
「最初から、お前に聞けばよかったんだな」
小さい溜息をついてそういうと、なぜかアリアは肩をすくめ、ばつが悪そうに視線を逸らす。
「ごめん笙悟、アタシ、」
「別に怒ってるとかじゃない。お前が黙ってたってことはなにか相当ふかい理由があるんだろう」
しょんぼりと頭を下げるミニチュアの少女に、笙悟は努めて優しく声をかけた。
「じゃなきゃお節介焼きのお前が、こうなるまでアイツを放っておくわけがないだろ」
初めて出会ったあのときからずっと、実理のポケットはアリアの特等席だった。彼が睡眠をとらずに今日まで活動していた理由もその意味も、彼女が知らないはずがない。
「教えてくれアリア。蒔苗は一睡もせずに一体なにをしていた」
アリアが顔を上げた。
「実理から聞くんじゃなかったの?」
縋るようなまなざしだった。自分の口から語りたくないと、彼女は暗に言っていた。そのか弱げな様子に一瞬だけ言葉に詰まるが、結局それは一瞬だけだ。
「あいつが正直にしゃべらない可能性もある」
笙悟はこの時もうすでに気づいていた。
自分は蒔苗実理という少年の心に踏み込もうとしている。たとえ目を覚ました実理が再び自分を拒否したとしても、後を追うことをもう躊躇いはしないだろう。
なぜそんな風に思えるようになったのだろうか。あの時彼の背中を追いかけることができなかった自分と、今の自分でなにが変わったというのだろうか。
自問自答して……やがて苦笑が浮かんだ。
「でもな、アリア。俺は」
また言葉に詰まる。浮かんだ答えがあまりにも傲慢だった気がしたからだ。だが、それこそが嘘偽りない気持ちだともおもえた。
「俺は、あいつがあんな無茶を好きでやってるとは思えない。だから、もし本当にそうなら、やめさせたいと思ってる」
驚くほどはっきりと出た声音に、自分でも耳を疑う。
ぽた、と水道の蛇口から落ちる水滴のおとがやけに大きく聞こえた。耳鳴りがするほどの静寂の中では、笙悟の決意を聞き逃すものは誰もいない。自分がたった今、後戻りできない場所へ踏み出したことを痛いほど悟った。
それからアリアが返事をよこすまでには、たっぷり数秒の時間を要した。
「ごめん……ごめんね笙悟……詳しいことは教えてあげられないんだ。そういう約束だから」
彼女の表情はひたすらに重く、悲しげなままだ。ただでさえぬいぐるみのように小さい身体が、委縮からさらに小さくなったように思えた。
「お前がそこまでかたくななのは、なんでだ?」
「……」
自分に力を与え、今まで励ましてくれた存在をこんな風に詰問するのは、笙悟としても心苦しかった。
だいたいアリアは本来、先ほど笙悟が指摘したようにおしゃべりでおせっかいなはずなのだ。今回のように無茶をする部員がいれば、必ず話を聞いてやめさせる側になるほうが明らかに『らしい』といえる。
「アタシとしても実理のことは、その、他人事じゃないってゆーか……帰宅部とはまた別のカテゴリで仲間ってゆーか……」
歯切れ悪く単語を並べる様子は、いつもの快活なそれとはうって変わって弱々しい。やがて、「ああもう」と自分で自分にしびれを切らした彼女は、まっすぐ笙悟のほうへと向き直った。
「やっぱり、全部は教えてあげられない。でも、ヒントあげる!」
小さなこぶしを握り、身を乗り出すようにして言った彼女は、またふわりと音もなく上昇し、笙悟の肩へ腰かけた。
「笙悟がほんとうに実理のことを知りたいって思うなら。現実の実理について調べてみて。そうすれば、実理の隠していることがなにか、わかるとおもう」
耳元でささやかれた言葉に、笙悟は眉根をわずかに寄せる。
「現実の……蒔苗?」
こくり、と繰り返した言葉にアリアがうなづく。
「そ。前に鳴子のスマホを現実のネットとつなげたでしょ? あれならきっと調べられるよ。もちろん笙悟がやっぱりやめるっていうなら、それでもOK」
そこまで一気にしゃべりきると、彼女は『ふう』とため息をついた。
それから再び、数秒の間が開く。
夜更けの台所には痛いほどの静寂が戻ったが、それが逆に笙悟の返事を急かしているかのように思えた。
「……わかった。明日、守田に頼んでみる」
そう答えたとき、アリアはわずかに目を見開いたのがわかった。もしかしたら、笙悟が「この話はなかったことにしよう」というのを想像していたのかもしれない。
その想像はおそらく間違いではない。
人を避け、蜘蛛の巣のように予防線を張り巡らせて、いつだって逃げ道を探していた。そんな生き方が、佐竹笙悟という人間の心にも体にもしっかりと染みついている。
やり直す機会も、時間も、どこにもなかったはずだった。
なのに。
「お前が俺にヒントをくれたとは言わない。あくまでも俺が勝手に思いついて、勝手に守田に頼んだことにする。それでいいな」
「笙悟、そこまで実理のこと……」
戸惑いが強いアリアの声に、思わず自嘲の笑みが浮かぶ。
今まで自分はどれだけ人の心に踏み込むことに怯えていたのだろう。こんなにも小さな存在にここまで心配されているのが情けないような気もしたし、やっと自分の力で決断できたのだという実感がうれしくもあった。
「たぶん、単にアイツのことを心配してるだけじゃないんだ。この気持ちの半分は、疑いだよ」
もう一度アリアが小さく息をのんだ。
「前に鍵介が忠告してくれた。『実理の後ろには誰かがいる気がする』ってな。琴乃もなにかがおかしいと薄々気づいてる。そして昨日あいつは、帰宅部じゃない誰かに帰宅部のことを『監視している』と報告してた。俺はこれをどうしても確かめなきゃならない」
しかし、厳しい言葉を並べ立てる自分の表情は、きっとおどろくほど穏やかなのだろう。
目の前のアリアは、何かを期待するような目でじっとこちらを見つめていた。
「傲慢って言われるかもしれん。だが、今のアイツには疑ってかかるくらいのお節介が必要な気がするんだよ」
お前にそれができないなら、代わりにやる奴が必要だろう。
淡い光が、切なさを表現しようとするようにわずかに瞬いた。
「……お願い」
その小さな両手が祈るように組まれ、アリアは震える声で言った。
「実理を、お願い」
繰り返された言葉に、笙悟は今度こそしっかりとうなづいて見せた。
* * *
「なるほどそれであたしのところへ来たわけかぁ」
そう答えた鳴子は、なんとも複雑そうな表情でスマホを揺らして見せた。
んー、と、唸って彼女は空をにらむ。何かを悩んでいるようだった。
「笙悟先輩さ、変わったよね」
「ん……そうか? まあ、そうかもな」
後輩の瞳が眼鏡の奥で探るようにこちらを見ているのがわかる。
それはほんの一瞬のことだったが、やがて鳴子は納得したように「にっ」と笑うと、スマホを両手で持ち直し、笙悟のほうへと差し出して見せる。
「いいよ。手伝ってあげましょう! さすがにこのスマホを預けるわけにはいかないから、あたしも一緒にみせてもらうけどね!」
「いいのか。蒔苗に許可はとってないんだぞ」
鳴子のスマホを使うのは仕方がないとはいえ、笙悟ひとりでその情報を見るか、二人で見てしまうかでは意味が変わってくる。
誤解を恐れずに言うのなら、これは蒔苗実理という少年が何を企んでいるのかを秘密裏に調べようという試みだ。
手を貸せば、鳴子だって実理に対して今まで通り接することができなくなるかもしれない。
「それはそうだけど、フタを開けてみたら案外拍子抜けってパターンも、ないとは言い切れないっしょ?」
それにさ、と鳴子は続ける。
「もし蒔苗くんがあたしたちを騙してたんだとしても……絶対なにか理由があるんだよ。だったらまずそれを知らないとなにもしてあげられないじゃん」
その答えは笙悟の予想していないものだった。
守田鳴子という少女は、こんなにも他人に入れ込むような人間だっただろうか。その驚きが顔に出ていたのか、鳴子は照れたように頭を掻いた。
「む、なにその顔。そんなに意外かなぁ」
えへへ、となぜか彼女は照れたように笑って見せる。
「……まあ、いいじゃん! あたしにもいろいろあったの! いろいろ!」
ほほ笑む鳴子の表情は晴れやかだ。
帰宅部に入ったばかりの頃、様変わりしてしまったこの楽園におびえていたその姿が思い出される。
だが、そんな頼りない後輩の姿は、いつの間にかどこにも見あたらなくなっていた。
その理由を、きっと笙悟が知る権利はない。
「お前のほうこそ変わったじゃねえか」
「そう? じゃあお互い様だね!」
今度はいたずらを企む子供のように笑うと、彼女は『では』と前置きし、自分のスマホを操作し始めた。
「ええーっと『まかなえみのり』っと……でもさ、いくらネットになんでも転がってる時代っていったって、特定の人物の個人情報はさすがに……」
言いながら、鳴子の言葉は途中で止まる。しかしそれは笙悟も全く同じだった。
『蒔苗実理』。
その名前が、ずらりと検索画面に羅列されているのが見える。
思わずぞっとしたが、その理由はすぐに明らかとなった。
「天才、エンジニア? AI心理学者? 人間の人格の電子化に成功……ってなんかすごいひとじゃないの!?」
鳴子のリアクションも無理はない。
笙悟もそれほど詳しい世界ではないが、それでも耳にしたことのある賞や本の名前が目に付いた。
それだけで、この蒔苗実理という人物が社会的にかなり有名な人物であることがわかる。
「こいつが……蒔苗?」
ふと、その膨大な記事の中から写真を一枚見つける。
一目見て思わずいぶかしげな声が漏れた。
白衣に眼鏡という、典型的な科学者という風の男だった。
帰宅部の蒔苗実理よりほんの少し大人びていて、確かに彼をそのまま成長させたような姿と言える。
だが、なぜか言いしれない違和感があった。
「あ、動画があるよ、笙悟先輩。見てみよ!」
その正体を突き止めるより先に、鳴子が画面をスクロールし、動画サイトへのリンクを指さす。それはどうやら、なにか有名な賞をとった時のインタビュー動画のようだった。
細い指が慣れた手つきでディスプレイをタップすると、すぐにそれは流れ出した。まぶしいフラッシュの中心にいるのは、先ほど写真で見たあの白衣の男だ。眼鏡の奥のまなざしは深く、しかしどこか鋭利な雰囲気をはらんでいる。
「……誰より人間の人格や性格、精神について研究してこられ、ついに『人間の人格を電子化する』という偉業を達成された蒔苗博士ですが、たとえばその知識を活かして理想の女性を探したり、なんてことはしないんですか?」
動画の中で、インタビュアーの女性がそんな質問を投げかけるのを、蒔苗博士は軽く笑って答えていた。
「あはは、そんな……できたとしても、私みたいな偏屈に付き合ってくれるかはまた別の話ですし」
研究にはなんの関係もなさそうな下世話な質問にも丁寧に答えるその様子からは、研究者とは思えない人当たりの良さを感じさせる。
だが、それをうすら寒いと感じてしまうのはなぜなのだろうか。
「けれどそうですね、死ぬまでにぜひお会いしたい方ならいらっしゃいます」
わあ、と歓声が上がり、先ほどより強いフラッシュが次々とたかれる。
その光を反射する眼鏡の奥で、薄灰色の瞳がじっとこちらを見ていた。
「っ!」
目が、合った気がした。
ひどく鋭く、そして冷たい。それでいて見つめる相手を値踏みするような、ひどく粘り気のあるまなざしだった。
ああ、と唐突に理解した。
(お前が……あのときの『蒔苗』か)
脳裏にあの夕焼けのなか出会った『彼』の顔が浮かんだ。
『今後、この子に余計なことは学習させなくて良い。君たちは現実へ帰ることだけを考えたまえ』
自分を見上げながら、どこまでも見下すような目で笙悟を見ていたあの少年のなかには、この科学者が居たのだ。
そして、実理の主導権をどうやってか奪い、笙悟に釘を刺した。
実理はあのあとからずっと不眠不休だったのだろう。それにもきっと、この博士がかかわっているに違いない。
あの時つかんだ肩が小さく震えていたのを今更になって思い出した。
こみあげてくる感情があった。だが上手く言葉にできない。とにかく何かが気にくわなかった。
「……蒔苗実理」
確かめるようにもう一度唱えた自分の声は、思ったより低く重苦しかった。