第7話。博士は感傷に浸っているようです。
きっとそれが、私の初恋だったのだろう。
孤児院の外には真っ白な雪景色が広がっていた。
私は頻繁に外で遊ぶような子供ではなかったので、その日も窓の外に広がる銀世界を背に、クレヨンを走らせていた。
院内ではやんちゃ盛りの子供たち……実は私も同世代なのだが……が、所狭しと走り回っている。
雪がやんだら、外に出てもいいですよ。
しとやかな微笑みを浮かべて、先生がそういうのが聞こえた。それはつまり、外に興味がない私にしてみれば、雪がやむまではこの大騒ぎに付き合わなければいけないということでもあった。
私は小さくため息をついて、画用紙に空を描き足すべく『青い』クレヨンを手に取る。
「なんで紫で空塗るんだよ、へんなのー」
気が付くと、いつの間にそばへやってきたのだろう。私より一回りほど体格の大きい子供が画用紙を見下ろしていた。
「……むらさき」
独り言のようなつぶやきをこぼして、私は自分の右手に握られたクレヨンを見つめる。
『青い』クレヨンだ。少なくとも、私にはそう見えた。
ああまたか。ぎゅっと唇をかみしめる。
その間にも、私の絵を覗き込んだ子供は「おかしい、おかしい」とはやし立て続けた。
「あらあら、どうかしましたか?」
そんなときふと、先生の一人が騒ぎに気付いて駆け寄ってきた。私はあまり人と話すのは得意ではないので、このときも、事情を説明したのは私の絵を『おかしい』と言った子供のほうだった。
「こいつなんで紫で空塗ってんのー? 変な色ー」
思わず頬が紅潮するのがわかった。急いで『青』のクレヨンを手放し、『本当の青いクレヨン』を探したが、私にはそれがどれだか分らなかった。
そのことに、またどうしようもなくみじめな気持ちになった。
「××くんはそういう病気なのよ。シキサイイジョウっていうの。色が上手く見えない病気なの。だから仕方ないのよ」
自分が何と呼ばれていたのか正直もう思い出すことはできない。冬に拾われたらしいので、「氷」だとか「雪」だとかいう文字が入った名前だったかもしれない。だが私はそんな寒々しい自分の名前があまり好きではなかった。
先生はしゃがみ込むと、子供に目線を合わせそう説明した。それはとてもやさしい声だったし、彼女が私を気遣っていることは十分に理解できた。だが、こみあげてきたみじめさと恥ずかしさをどうにかしてくれるほどの力は有していない。
ふうん、と納得したような声を上げた子供を見て、先生は満足そうに立ち上がり、ほかの子供の様子を見に行く。
あとには、元通り私とその子の二人だけが残された。
「イジョウって、おかしいって意味だろ?」
「……」
顔を、上げたくなかった。
それにそんなことをしなくても、彼の顔に意地悪な笑みが浮かんでいるだろうことは容易に察せる。
「俺、前に聞いたんだ。お前、親に捨てられたんだろ。イジョウだから」
ぎり、とこぶしを握った。喉元に熱いものがこみあげてくるのがわかる。目頭がじわりと震える。
だが、私はそれを抑えた。
こんなことは今回が初めてじゃない。そして、こういう輩は弱気を見せると必ず付け上がる。それはこの孤児院という小さくも厳しい世界ですでに常識だった。だから私は必死に声を殺し、震えないように努めて言った。
「そんなの、お前だって同じだろう」
そういわれた瞬間、目の前の子供は何を言われたのかわからないでいるようだった。
私はそんな彼を一瞥すると、画用紙とクレヨンを片付けて立ち上がる。そうして隣の部屋へ移ろうとした瞬間、がっしりと肩をつかまれた。
「おまえ!」
泣いているのか怒っているのか、その中間くらいの変な声で、彼は私を怒鳴りつける。
あえて煽ったのだから仕方がない。だが、なにも言わなければあの煩わしい行為は明日も明後日もそのまた次の日も続いただろうと考えると、後悔はなかった。
「どうしました?」
また、先生の声がかかった。私はそちらのほうは見ず、肩をつかまれた姿勢のまま氷のように動かなかった。心配そうに駆け寄る先生の姿に口を開こうとしたが、その前に私をつかんだ彼がまくしたてる。
「こいつが!俺は親に捨てられたって!」
まあ、と先生が悲痛な声を上げる。
それを最初に言ったのはお前だ、と反論しようとしたが、それを声に出すことはできなかった。私の肩をつかんだ彼の手が震えていて、なんだかとても哀れだったのだ。
孤児院は、当たり前だが身寄りがない子供の行く場所だ。そんなことはわかりきっているのに、彼はその現実を受け入れられない子供だった。あまつさえそれを私にぶつけることで、その苦しみから逃れようとすらした。
とんだ現実逃避だ。嘲笑すら浮かんだ。
「××くん、謝りなさい」
先生は私が反論しないことで、それを真実だと思い込んだらしい。今にも泣きそうな彼の肩を撫でながら、私を厳しい目つきでにらんでくる。ついさっきまでのど元まで熱いものがこみあげてきていたのに、今は嘘のように冷えている。
先生が強い口調で何かを言っていたが、まるで聞こえない。どうせ見当違いの叱責なのだから、気にする必要もないのだが。
その日から、私の周りには本当に誰も寄り付かなくなった。
***
その日は読書をする日だった。
あの一件以来、孤児院の皆は私を遠巻きにしており、構ってくる人間といえば先生くらいのものだった。それもおそらくは、仕事のうちだからだったのだろうが。
だから私はその義務感まみれの気遣いをそれとなくかわして、ひとりで本を探していた。
本棚はほとんど空っぽだ。当然といえば当然だろう。人気のある漫画や絵本はとっくに年長の子供たちに奪われ、次に人気な児童文学や小説も、私を疎んで結託したものたちの手によって遠ざけられている。
残っていたのは教科書や、子供の頭では到底理解できない学術書くらいだった。だから私は、適当にそのうちの一冊を手に取る。どうせ読めないが、読むふりだけでもしなければまたいたたまれない目に遭う。
そうして引っ張り出した本の表紙には、上品な金文字で「哲学」と書かれていた。厚い装丁のせいで重いその本をなんとか膝に乗せ、ページをめくる。
「!」
さぞや頭の痛くなるようなことが書かれているのだろうと覚悟して読み始めた一行目は、しかし拍子抜けするほどわかりやすかった。そのまま、するすると読み進めていく。幸い漢字は書くのも読むのもほかの子供よりよっぽど得意だ。途中で詰まることも少ない。
その本は、さしずめクイズ本のようだった。様々な問題が章ごとに出てきて、私の想像力を掻き立てる。
子供向けのクイズ本と違うところは、そのすべてに『答えがない』ことだった。
例えば、宇宙の果ては存在するのか。世界はいつできたのか。神様は本当に存在するのか。
その本には答えが書いていなかった。あるのは、その問題について真剣に考えた先人たちの、無数の意見だった。
私はいつの間にか、夢中になってその本を読みふけった。そしてふと、とあるページで指を止める。
『マリーの部屋』
そこには、そう書かれてた。
シンプルなタイトルに惹かれつつ読み進めると、私はすぐにその問題のとりこになった。
マリーは白黒の部屋に閉じ込められた少女である。
マリーは生まれてこのかた、白と黒以外の色を見たことがない。
目を見開いた。
私と同じように、マリーもまたほんとうの色を見たことがない少女だった。それも青だけではない。白と黒以外のすべての色を、彼女は知らないのだ。他人事とは思えない書き出しに、私はドキドキしながらページをめくる。
しかしマリーは色に関して、世界的権威とも渡り合えるほどの知識を持っている。
彼女は適切で豊かな表現を使って、どんな色も正確に説明することができる。
「どんな、色も……」
自分の目が輝くのがわかった。
このマリーという少女に書き出しでは共感を覚えた。だが次の文章で私の手の届かないところにいる存在なのだと認識を改める。
彼女は色のことなら何でも知っている、とても賢い少女なのだ。自分がつかんでいるクレヨンが何色なのか調べもしなかった私とは違う。
このマリーが白黒の部屋を出るとき、彼女は色に関して新たな知識を得るか否か?
最後。問いかけで終わるのがこの本の法則だ。そして、そのあとには無数の意見が飛び交う。
しかし、もはや私の頭にはその意見は全く入ってこなかった。私にとって彼女が新たな知識を得るかどうかなど、すでにどうでもよかったのだ。
そっと音をたてないように本を閉じ、そのまま抱きしめた。
「マリー……」
小さな声で彼女を呼んでみた。もちろん答えなど帰っては来ないのだが、なんとなく満足感があった。
目を閉じて想像する。モノクロの部屋。見たことのない色。十分すぎるほどの知識。
マリーは色を見たことがなくとも、見たことがある人間よりよっぽど知っていた。きっと彼女は、青と紫のクレヨンを間違えたりしない。にこやかに正しい色を……青いクレヨンを手に取れるだろう。たとえそれが、彼女の眼には灰色に見えていたとしてもだ。
「いいなあ」
そう、マリーは幸せな少女だ。色がみえずとも、見えるようにふるまうことができ、それによって異常だと指をさされることもない。
しかしその少女はおもむろに立ち上がり、部屋の隅にある扉の前に立った。
そして、迷うことなくそのドアノブをつかみ、扉を開く。
私はそれを、扉の内側から眺めている。
「……どうして?」
彼女は外へ出ていった。色のない世界から、色のある世界へ。
彼女は部屋の中でも十分幸せだったはずなのに。
外に出ていけば、知らないことだらけで心細いかもしれないのに。
その答えはどこにも書いていなかった。
ただただ、私の目の前を横切って、迷うことなく新しい世界へ踏み出していったあの少女のビジョンが、脳裏に焼き付いて離れなかった。
***
「博士?」
ふと、意識が浮上するのを感じた。気が付くと、目の前には怪訝な顔をした同僚の男が立っていた。
「……ああ、聞いている。続けてくれ」
平静を装って促すと、男は咳ばらいをして再び口を開く。
「はい。蒔苗博士に観察を任されました例の、電子空間に突然現れたブラックボックス……通称『メビウス』は、その後も巨大化を続けています。また、それに比例して幽体離脱症候群の患者数も増加傾向です」
おおむね予想通りの答えに、私はそれとなく相槌を打った。
メビウス。それは、数週間前に発見された謎のブラックボックスの名称だ。
誰が、いつ、どうやって作りだしたのか全く不明。電脳空間に突如として現れた謎のデータの塊は、そうして今も電脳空間を圧迫しながら成長を続けている。
両手では数えきれないほどの技術者によるハッキングはすべて無駄に終わった。そして我々は今も、手をこまねいてその箱を眺めている。
「……それで、メビウス巨大化の原因は?」
「とにかく内部のデータ肥大速度が異常でして……その、馬鹿げていると言われるかもしれないんですが」
ぞくり、と背筋に痺れるような感覚が流れるのがわかる。恐ろしいからではない。ずっと待ち続けていた奇跡が、目の前にある興奮からだった。
「『幽体離脱症候群患者の人格が電子化され、電脳空間に取り込まれているとしか思えない』、かな?」
はっと男が顔を上げたのがわかった。興奮した様子で二、三度うなづいてみせる。私はにこりと笑った。
「君の想像に私も賛成だ。あそこには無数の人間の人格データが格納され、管理されているように思える」
人間の人格を電子化するとなると、その情報量は膨大になる。それを内包するためには、メビウスにそれ相応の『容量』がなくてはならない。巨大化しているのは、今もあの箱が人間の人格を電子化し取り込み続けているからだ。
「だとしたら、恐ろしいですね……人間の人格を取り込むなんて……」
身震いするようなしぐさをして、男はモニターに目をやった。そこにはメビウスの解析画面が映っていて、内部のデータ量が恐ろしい速さで増加していることわかるはずだ。
「確かにそうだな。だが、あの中はとても幸せなのかもしれないぞ?」
「……え? なんでです?」
私は踵を返し、研究室の扉に手をかけた。どうせ今日もこの部屋で進展はない。メビウスを外側から眺める行為に意味などないのだから。
「普通人間は全く知らない世界に放り出されるとパニックを起こす。それがメビウス内の人格には全く見られないどころか、私の把握している患者たちの脳波は安定してすらいる。ならばきっと、あの中はとても幸せなのだろうと……そんな想像だよ」
すっかり冷え切ったドアノブを回して、私はゆっくりと扉を開く。
「だからこそ、私は思う」
モニターの画面を見やすくするため照明を抑えている研究室に比べ、廊下は煌々とした明かりで満たされていた。
扉から漏れ出るそれに目を細めて、私は彼を振り返りこう結んだ。
「もしもその中から、自ら現実世界へ戻ってくる意志が現れたなら、きっとそれは素晴らしく尊い魂なのだとね」
彼はぽかんと口を開けて、私の言葉を聞いていた。
「えっと……つまり、その……」
あまりに気取った言い回しに対して、返事に困っているようだ。当然か。
「はは、少しでも早く患者たちが目を覚ませばいいという意味だ。それではな」
私はそう濁して、そのまま研究室を後にした。
***
それから数時間後、私は自分の個人的な研究室へやってきていた。
手早く荷物を棚に放り込むと、無数にある機器の様子をひとつひとつ丁寧に確認していく。
ちらりと視界の端に、昨日適当に放り投げておいた「人格の電子化とその保存について」という論文の原稿が見えた。
あれもいずれ片付けないとならない。ただひたすら面倒だった。
ともあれ、機器に誤動作は起こっていない。それにほっと息をつくと、お気に入りの椅子に腰かけた。
目の前には、自分でくみ上げた特製のPCのディスプレイがある。
『おかえりなさい。蒔苗実理博士。お仕事お疲れ様です』
その中から、少し幼い……だが私と同じだとわかる声が聞こえてきた。
続いてディスプレイの色が変わり、夜の街並みが映し出される。
「ああ。そちらも授業は……とっくに終わっているか。あれから様子はどうかな?」
私はその眺めに思わず目を細めた。この日本のどこにでもあるような、しかしどこにもない街並みだった。
『メビウスは今日も快晴。どうやら天気や四季の変化はないようです。楽士の探索は……今日から本格化したというところでしょうか』
単調な『私』の声を聞きながら、その音声がきちんと記録されていることを確認する。
「そうか。無事、帰宅部に所属できたことは喜ばしい。これからは彼らを守り、現実まで導くのがお前の使命だ」
ディスプレイの向こうで、「はい」と答えた『私』の声はほんのりと高揚している。
『あのひとたちが……帰宅部が”マリー”なんですか?』
おずおずと問いかけてくる。私はそれにすぐ答えることができなかった。
「まだそうと決まったわけではない。マリーは部屋から出たが、彼らはまだその意志を示したに過ぎない。だからすべては彼らと……お前次第だよ」
にっこりと笑みを浮かべてそう激励すると、ディスプレイの向こうの『私』……蒔苗実理は小さくうなづくような空白を空けて返事をした。
そして通信が途切れ、音声の録音が終了する。
一人きりの研究室で、私は大きく息を吐きながら背もたれに身を預けた。
そっと目を閉じると、まだあの懐かしい少女のシルエットが見える気がする。
あの世界が……メビウスが私の前に現れるまでは、記憶の片隅でうずくだけの影だったそれは、ここ数日ではっきりとその輪郭を取り戻しつつあった。
色彩(しあわせ)というデータだけで満足せず、その実感を求めて扉を開けた、聡明で強い少女。
生きてその少女の意志を継ぐ者に出会える日を、私は今日も待ち続けている。
きっとそれが、私の初恋だったのだろう。