自宅主人公・日暮白夜。
鍵介×主人公
2018年・白夜の誕生日記念。現実に帰ってからのお話です。
例によって例の如く、糖度マシマシでお送りします。
スマートフォンを、まるで命綱のように握りしめて、やっとここまでやってきた。
「ここ、だよね……」
白夜は誰に言うわけでもなく呟いてから、顔を上げる。
目に飛び込んできた看板には「予備校」の文字。スマートフォンのメモに書いてあるのと同じ名前だ。あってる。
目的地に着けたことを確認して安心すると、忘れていた生温かい空気がここぞとばかりに肌を撫でた。まだ七月に入ったばかりだというのに、今年の夏は気が早い。
じんわりと滲んだ汗をハンカチでぬぐい、ついでに、洋服にしわがないかも一緒に確認した。この間、鍵介と一緒に買い物に行って選んだ洋服だ。鍵介は気付いてくれるだろうか。
そうしてから、腕時計を見る。授業が終わるまで、もう少しかかる。はやる気持ちを抑えながら、白夜はスマートフォンを鞄にしまい込み、手に持ったビニール袋をのぞき込んだ。中身は今夜の夕飯……になる予定の食材だ。
「鍵介、喜んでくれるかな」
今夜からの予定に心を弾ませながら、白夜はこれまでのことを思い返す。
* * *
すっかり休む準備も終えて、部屋着に着替えた頃。寝る直前のこの時間は、いつも鍵介とWIREのやりとりをする時間になっていた。
しかしその日の晩は珍しく、鍵介の方から電話がかかってきたのだった。
『今度の土曜日、先輩の誕生日ですよね?』
おめでとうございます、と鍵介は少し先取りで、そう祝ってくれた。
『せっかくの休日ですし……その、よかったら何か、ちゃんとお祝いしたいなと思って。先輩、何か希望あります?』
現実に戻って、白夜と鍵介の年齢は逆転した。しかしまだその事実に二人とも慣れていなくて、メビウスにいた頃と同じ口調になってしまう。
それも含めて、すべて、少しずつあるべき形に戻していこうと二人で決めた。
「希望……ううん」
『『今のままで十分』とかそういうのはナシですよ。先輩は自分が思ってる五倍くらい、欲張りになった方がいいです』
「そんなに?」
大げさな物言いに、くすくすと、つい声に出して笑ってしまった。鍵介も同じように電話越しで笑ってくれる。
……本当に、白夜にとっては、こんな時間が二人で過ごせるだけで十分なのだけれど。
好きな人に出会い、恋をして、その人も自分を好きになってくれる。そして、平穏に二人で過ごして行ける。そんな奇跡は世界にいくつもないのだ。それを思い知っている白夜だからこそ、これ以上を望むのは、少し怖い気もする。
でも、好きな人が「あと五倍」というのなら、期待に添うのも大切なのだろう。
「……じゃあ、週末は、鍵介とずっと一緒にいたい」
そう言うと、鍵介は虚を突かれたように意外そうな様子だった。
『そんなのでいいんですか?』
「金曜日の夜からずっとね。それがいい」
しかし、白夜がもう一度念押しすると、「わかりました」と了承してくれる。
ずっと二人きりで一緒にとなると、鍵介の家では難しい。自動的に、場所は白夜の家……やっと許された一人暮らしの自宅、ということになる。
『じゃあ、予備校が終わったら、先輩の家に向かいますね』
そう言った鍵介の言葉を、白夜が「待って」と遮った。
「……出来たら、迎えに行きたい。予備校って、どんな場所か知りたいし」
中学三年間、プラス丸一年を、ずっと軟禁されて育った白夜だ。当然、今から普通の高校生活は望めない。
しかし、自分の興味のある分野で、進学したいと考えてはいた。そうなると、予備校や塾という場所を知っておくのは大切だろう。
それに何より、五倍もワガママを言っていいなら、ほんの少しでも長く、鍵介と一緒にいたかった。
『わかりました。住所、送っておきます。金曜日は予備校が終わったら、ずっと一緒にいましょう』
鍵介の声は、照れくさそうにしながらも、心なしか弾んでいた。うん、と答える白夜の声だって負けじと軽やかだ。
* * *
思い返していると、人の声が大きくなった。
顔を上げて校門に当たる入り口を見る。出口らしい場所から、授業を終えたらしい人々がぞろぞろと出てきていた。
あの中に、きっと鍵介もいるはずだ。そう思って、背伸びをしながら辺りを見渡す。
しばらくすると、見慣れた恋人の姿が視界に入った。
「鍵介!」
喜色があらわれるのを抑えきれず、白夜は鍵介の名前を呼んで、小走りに駆け寄る。鍵介の方もすぐに白夜に気付いて、軽く手を上げて応えてくれた。
「先輩。ありがとうございます。ほんとに来てくれたんだ」
「うん。鍵介、ここで毎日勉強してるんだね」
「なんか、しみじみと言われると、照れくさいというか……まあ、そうです」
まだまだですよ、と付け加えて、鍵介が眼鏡を持ち上げる。その仕草は、鍵介が照れたときの癖だった。メビウスにいた頃と変わらない。
「ところでその荷物――」
どうしたんですか、と、鍵介が白夜が抱えたビニール袋を指して言った、そのとき。
「響くん、お疲れさまー!」
鍵介の肩を、別の誰かが叩いた。かなり勢いの良い叩き方だったせいで、鍵介の身体が大きく揺れる。思わず小さく悲鳴をあげかけて、白夜は一歩、後ずさった。
「わ、っと……あ、あぁ、お疲れ様」
「これからみんなでご飯行こうかって言ってるんだけど、響くんもどう?」
鍵介に向かって話しているのは、鍵介と同い年か、少し年上にも見える女性だった。
綺麗に染めた髪を大人っぽく結って流し、薄く化粧をしている。すらりとした手足に白い肌、スタイルもいい……もっと突き詰めると胸も大きい……ような気がする。
七月に入ってぐっと気温も上がったせいか、思いきって肩を出したトップスとジーンズというシンプルな服装。しかも、スタイルがいいのでやっぱり似合っている。
つまり、文句なしの美人だ。
「(綺麗な人)」
白夜は呆然と、その女性を見上げていた。そう、女性は白夜より随分背も高かった。
良い匂いがするなあ。やっぱり綺麗な人は、香りまで綺麗なのかな。白夜はぼんやりと彼女を見上げ、そんなとりとめもないことを考えていた。
「いや、今日は止めとく。……先約あるし」
「ええー? 先約? まさか彼女? もしかして、この子が前言ってた彼女さん!?」
鍵介の言葉を聞いて、女性がやっと白夜を視界に入れた。大きな瞳が見開かれ、長いまつげの向こうから、女性が白夜を見下ろす。
「あ、え、と……あの」
白夜はなんと言っていいのかわからず、言葉になる前の声をぽつぽつと漏らしながら、もう一歩後ろに下がることしか出来なかった。
女性は元々背が高いうえ、ヒールも履いているからか、どうしても威圧感を感じてしまう。
「ちっちゃ! かわいー! えぇー、もしかしてけっこう年下? ってことはリアル女子高生!? うわー、響くんも隅に置けないなぁ」
女性の声が次々耳に飛び込んできて、何か言った方が良いと思いながらも、何も言えずに白夜は立ち尽くしていた。
頭が真っ白だった。心臓が、言葉の代わりに忙しく脈打っている。
小さい。かわいい。
褒められているのかも知れないが、その言葉を聞くたびに、心臓が変にどくどくと鳴る。
そうしていると、見かねて鍵介が白夜と女性の間に割って入った。
「はいおしまい。返事はしたんだから、もういいだろ。また今度」
「はいはーい。じゃあまた来週ね、響くん! 彼女さんもばいばーい!」
鍵介にそう言われると、女性は悪びれる風もなく、からからとあかるい笑い声をあげてそう言った。そして踵を返し、彼女を待っていたらしい集団の中に駆け戻る。
……響は?
彼女さんとデートだから、来ないってー。
マジで? 彼女って、あの隣の子?
えーかわいー! もしかして高校生?
人だかりのほうから、微かにそんな会話が聞こえてくる。白夜はそれを、どこか遠い国の言葉のように聞いていた。心臓は相変わらず早鐘を打っていて、お腹の深いところで何かが沸騰しっぱなしになっている。
『小さい』『かわいい』……か弱い、頼りない、何も出来ない女の子。
ああそうだ。そういうニュアンスだ。だから、嫌な熱がずっとお腹の中でぐるぐるしている。
強くて頼りになる、鍵介の隣に並び立つことのできる「白夜」は――高校生の『白夜』は、メビウスに置いてきた。
ここにいるのは、何も無い、ただの女の子だ。何も持たない、やっとよたよたと自分で歩き始めた、『日暮眞白』という少女だった。
さっきの女性のように、自分で選び生きてきて、髪を染め、好きな服に身を包んで、颯爽とヒールを鳴らし、歩けるような女性では無い。
そのことが、なんだか急に情けなく思えた。
「眞白、大丈夫?」
鍵介がそう声をかけてくれてから、白夜はのろのろと視線をあげる。
「大丈夫。ちょっとびっくりして……ごめんね、鍵介のお友達に、ちゃんと挨拶出来なかった」
「そんなの、いいんですよ。気にしないでも」
気遣わしげに微笑む恋人に、白夜もつられて微笑んだ。そして、女性が友人たちと歩いて行った方向を見つめる。
「綺麗な人だったね。いいなあ」
それは素直な感想だった。
あんなに綺麗で素敵な人が、鍵介の傍にいるのだ。それは少し不安で、少し羨ましかった。
毎日鍵介と同じ場所に通い、勉強して、放課後はあんな風に気軽に食事に誘える。メビウスでは当たり前だったことだが、今の白夜には出来ないことだ。
不思議だ。メビウスにいた頃は、帰ろうと言いつつも現実へ帰るのが不安だった。大人になるのが怖かった。けれど人間は勝手なもので、今は大人になりたくてたまらない。
鍵介はそういった白夜を少し驚いたように見つめてから、気まずそうに視線を泳がせる。
「僕は、眞白のほうが、可愛いと思います、よ」
そしておずおずとそう言って、鍵介の指が白夜の指に絡まった。仄かな温かさを感じながら、白夜はそっとその指を握り返す。
「……私、背低いし、もう強くもないし、あんなに上手に、しゃべれないよ。なんにもないよ?」
「なんにもなくありません、眞白は眞白な時点で十分です」
「スタイルも、あんなによくないし、胸だって」
「いや、他はともかく胸は…………って、なんでもありません!」
思わず口を滑らせたのをなんとか留めて、鍵介は白夜に向き直る。
灰色の瞳が、まっすぐに白夜を見つめていた。その目には覚えがある。あの日、メビウスで最後に見た彼の目と全く同じ。
「とにかく! 僕は眞白の方が好きです! 僕と買った服わざわざ着て来てくれて、誕生日に「一緒にいたい」とかめちゃめちゃ可愛いお願いしてくれる眞白が好きなんですっ!」
ぽかん、とする白夜を前に、鍵介はそうまくし立てる。自分でも恥ずかしいことを言っているという自覚はあるらしく、顔も真っ赤だ。
しかも、まだ帰っていない生徒たちが騒ぎに気付いて、こちらを見ては何か可笑しそうに囁いている。
「あの、鍵介……み、みんな、見てるけど」
「いいんですっ! いや、正直めちゃくちゃ恥ずかしいですけど! でも、恥ずかしくても泥臭くても、眞白と生きていくって決めましたから!」
白夜の心臓が、さっきまでとはまるで違う鼓動で震えるのを感じた。
顔が熱い。恥ずかしいのもあるが、それ以上に、嬉しい。
鍵介が、柔らかく握っていた白夜の手を強く握って引き寄せた。
「帰りましょう。で、週末はずっと一緒です。眞白の誕生日なんですから、ちゃんと眞白のお願い、叶えますよ。……手料理、作ってくれるんでしょう。僕は、さっきのお誘いよりそっちの方がよっぽど楽しみなんです」
白夜の手に握られたビニール袋をちら、とみて、鍵介は言った。
そうだ。鍵介と一緒にいたくて、喜んでほしくて、出来ることは何か考えた。今の自分でも出来ることをだ。
大好きな人の声を聞きながら、大好きな人の香りに包まれて、抱きしめられる。白夜は思わず、その幸福に目を閉じた。
ああ、大好きだ。この人が大好きだ。誰よりも。やっぱり誰よりも大好きだ。
上手にしゃべれなくても。他の誰かより、美しくなくても。
思い描いたようには、大人になれなくても。
私はこの人が好きだ。この人に選ばれたい。この人に好きでいてほしい。
「…………うん。鍵介、だいすき」
そして、ぎゅうっと、出来るだけ強く、抱きしめ返す。頭上で慌てたような鍵介の声がしたが、聞こえないふりをした。
ただただ、この心が鍵介に伝わるように、強く抱きしめていた。