主人公→琵琶坂。
楽士ルート→追放ルート→帰宅を選択した主人公です。
お察しの通り琵琶坂は出てこない+ひたすらに暗いです。
Caligula ODをクリアしていない方、
追放ルートの意味が分からない方、苦手な方はお気を付けください。
生ぬるい都会の風に当たりながら、夜空を見上げていた。
ビルの屋上から見上げる夜空は狭く、星もまばらだ。けれど、月だけは煌々と輝いている。
今日は満月だ。メビウスから現実へ「帰宅」してから、最初の満月だった。
屋上から見下ろす街は、まだどこも明かりがついていて、見事な夜景だった。
しかし、この美しい景色を作り出しているのは、こんな時間まであくせく働く労働過多の人々なのだと思うと、やっぱり現実は地獄じみていると思う。
そう、メビウスの方がよっぽど――つい、そう考えてしまう自分自身に、苦笑する。
「彼」……琵琶坂永至がここにいたら、なんと言っただろうか。俺を馬鹿にしただろうか。それとも嘲笑っただろうか。
「先輩は、現実に帰りたい?」
まだメビウスにいた頃、彼にそんな風に尋ねたことがあった。
先輩は俺を値踏みするような目で一瞬見たあと、人当たりの良さそうな笑顔を浮かべて、こう返した。
「ああ、帰りたいとも。でなければ、こんなところにいないさ」
こんなところ、というのはもちろん、「帰宅部」のことだ。
当たり前だろう、というようなニュアンスを混ぜながら、迷いなく琵琶坂先輩は答えた。
俺はその態度に、その自信に興味が尽きなかった。俺自身は、現実に呆れ果て、疲れ果ててメビウスに堕ちてきた人間だったから。
もちろんメビウスだって、本当の意味での楽園なんかじゃない。けれど、現実よりは遙かにマシだ。少なくとも俺はそう思っていた。
「現実の方が、楽しかった?」
「ああ、メビウスよりよほどね」
それなのに、琵琶坂永至という人間は、心の底からそう言い切った。
不思議そうな俺を見て、いつも彼は意味深に笑う。嗤う。それを知らない俺が、哀れで無能だとでも言うように。
俺は多分、それが嫌ではなかった。むしろ嬉しかったのだと思う。
ただ俺が無能だったから、現実の良さに気付かなかっただけだ、と思えたから。
あの人の目に映る世界は違ったのだ。俺にとって取るに足らない、色彩を欠いた世界だった現実も、あの人の目にはきっと違って見えた。
あの人と一緒に帰ることが出来れば、俺も同じ景色が見られるのだろうか。あの人をもっと知ることが出来れば、俺も同じ色が見られるのだろうか。
そう思って、気付けば夢中で彼を追いかけていた。彼の話を聞き、彼の願いを聞き、知らない彼を知り、現実の彼を知ろうとした。
そしていつか彼と一緒に現実へ戻り、彼の目に映る色彩の、ほんのわずかでも共に見ることが出来たなら。
ほら、僕の言った通りだろう、メビウスなんてたいした世界じゃなかった。
そう言って、現実の琵琶坂永至が、また俺を小馬鹿にしたように嗤ってくれたなら。……それはどんなに素晴らしいだろうと、そんな空想を描いていた。
「…………先輩」
俺は浅く長く息を吐きながら、小さく彼を呼ぶ。応える声はない。だって俺は独りだ。
琵琶坂永至は、ここに来ることは出来なかった。現実へ、帰ることは出来なかった。
嘘みたいな話だ。あんなに現実を切望していた彼が帰れず、俺がここに立っているなんて。
俺に現実を説いた先輩は、あっさりと、あの楽園で息を引き取った。無数の硝子に貫かれ、押しつぶされて、あっけなく。
それを知ったとき、俺はどうしようもなく、呆然とした。
信じられなかった、というのが一番近いだろうか。まさかあの人が死ぬなんて。そして、それがこんなに唐突だなんて、という気持ちだった。死体も消えてしまったというのだから、余計にだ。
俺は一歩、また一歩と前に出る。ビルの屋上には粗末なフェンスがあるだけで、その気になればすぐその向こうまで行けそうだ。
無粋なフェンスさえ無ければ、きっと夜空も夜景ももっと綺麗だろうに、と思う。
そう、月だってきっと、もっと美しく見えるはずだ。
先輩が死んでしまってから。それでも俺たちは活動を続けた。メビウスを出るために戦い、俺はかねてから悩んでいた、帰宅部につくか、楽士につくかの選択にも答えを出した。
帰宅部の部長として、たとえμを壊すことになったとしても、現実へ帰る。
琵琶坂先輩が帰りたかった現実へ、彼がメビウスよりも良いと笑ったあの世界へ帰ろうと思った。
必死で戦って、必死で抗って、間接的には世界を救いさえもして――そうして帰り着いた現実で、俺は独り、生きている。
……先輩は確かに悪人だった。多くの人を不幸に陥れただろうし、人の命も奪ったのだろう。そういう意味では、琵琶坂永至という人間は、確かに罪人だし、裁かれるべき人だった。だからあれが報いなのだと言われても、俺は何も言い返せない。
けれど。それでも――
「やっぱ、つまんないよ、先輩」
現実なんてさ。
小さく零した。あの人がよくそうしたように、小馬鹿にしたように笑って見せた。そのはずなのに、声の後ろは小さく震えてしまう。
ああ、やはり、俺ひとりでは上手く行かない。
教えてくれないとわかんないよ。現実のどこが楽しいとか、どうしたら面白いとか。俺は先輩が言うように、馬鹿で無能だからさ。
生ぬるい風が、頬を撫でる。そのたび、頬を伝う水が冷たい。
「先輩が帰りたいっていうから、俺、頑張ったんだ。先輩が帰りたいって言った世界が見てみたかった。だから世界だって救ったのに」
先輩のために救った世界に先輩がいなくて。先輩のついで救われた世界が、知らん顔して続いてるなんて。
「こんなのおかしいだろ」
あんなに焦がれた人がいない。どんなに悪人だろうが、どんなに酷い人だろうが、俺にとっては大事な人だった。
大事な、大事な――そんなこと、メビウスにいた頃には、気づきさえしなかったけれど。
空を見上げる。まだ、綺麗な満月が煌々と俺を照らしていた。
「……先輩、月が綺麗だよ」
ぎしっ、と、手元でフェンスが小さく軋んだ。