琵琶主♂の短編。
部長=小鳥遊和詩です。
本編後、現実世界で楽士ルートの夢を見る部長。
目を開けると、辺りは真っ暗だった。
こんな夜中に目が覚めてしまったのは久しぶりだ。そんなことを考えながら、和詩は自分の部屋を見回した。
時計の針が時を刻む音。空気清浄機の稼働音。あと、隣で眠る恋人の寝息。それが今の和詩の部屋にある音の全てだ。
「寝顔は幼いのな」
琵琶坂はこちらに背を向けて眠っていた。寝相は悪くないのでひとつのベッドで眠ることに不自由はないが、たまには恋人らしく自分を抱きしめながら寝るくらいはしないのだろうか。などと考えて、いや、それはなんだか寝苦しそうだからやっぱりナシ、と自問自答した。
その広い背中にそっと触れた瞬間、違和感が和詩を襲った。
「え」
浮遊感。
高いところから落ちるような不快感がみぞおち辺りを撫でたかと思うと、和詩の目の前に広がる景色は一変した。
「……永至?」
名前を呼ぶ。
現実で再会を果たしたあと『呼び方を変えろ』と言われ、やっと慣れ始めた名前だ。
しかしカラカラに乾いた舌の上では、それはひどく薄っぺらな単語に感じられた。
まるで、名前から命が抜け落ちてしまったような。
ぬるりとした手触りの、生暖かい液体が手にまとわりつく。
自分はなぜか、白い手袋をしていた。
彼の体からこぼれた真っ赤な血が地面に広がり、鏡面のように和詩の姿を映し出す。
息を飲んだ。
黒ずくめの、見たことのない服を着た自分がそこにいた。本来あるべき場所に顔はなく、代わりに髑髏のような輪郭を描く黒い霧が漂っている。
幽霊。あるいは幽鬼か。
そしてその化け物は、血が染み込んだその手をただぼんやりと見つめている。
(なんで)
何故、こんな馬鹿げたビジョンが見えるのだろう。それを深く考えるより先に、激しい頭痛が和詩を襲った。
脳髄のなかに電気を通されたような、視界が白むほどの激痛。それにはわずかながら既視感があった。
(なんで、今更…)
それは、かつてメビウスで万能の歌姫より得た空想視……和詩はイマジナリィチェインと呼んでいたものの使用感だった。ここまでの激痛を伴うことはかつてなかったが、和詩の体はその感覚をまだよく覚えていた。
先読みの能力。予見。未来視にも迫りうる規格外の力。
それは、現実世界ではもちろん使えないはずの異能だった。
だが、自分が今いる場所は現実よりも限りなくメビウスに近い。根拠もなくそう思えた。
直感を口にする自分自身に、傍観者たるもう一人の自分が声を荒げる。
ならいま目の前に広がっているこの光景はなんだ。この先の未来だとでも言うのか。
痛みに翻弄されながら、しかし和詩は必死に声を上げた。
「琵琶坂先輩……っ!」
ビジョンが遠くなる。冷たくなって行く琵琶坂の体が、ひどくなっていく痛みにかき消されて行く。
和詩はそれでも必死に手を伸ばし、そして唐突に。
「なんだ」
視界が再び戻ってきた。
「!」
気がつくと、辺りは元いた自分の部屋だった。
時計の針が時を刻む音。空気清浄機の稼働音。そして、興奮した獣のそれをおもわせる、自分の呼吸音。
「せん、ぱい…」
「呼び方」
「あ…ごめん」
ふん、と鼻を鳴らして琵琶坂は仏頂面を作った。
「いつもは寝つき三秒で朝まで爆睡する君が、悪夢にうなされる繊細な神経を持ち合わせていたとは意外だったよ」
少し眠そうな声で言うと、大げさなため息がそれに続く。そこまできて、和詩はようやく今まで見ていたものが単なる夢だったと気づいた。
「夢……」
「僕が消える夢でも見たのかな?」
ふふ、と、からかうような声が聞こえて、そういえばこの男に隠し事はできないことを思いだす。
「似たようなもん。せんぱ……永至が、死ぬ夢」
白状すると、琵琶坂は一種あっけにとられたような表情を見せた。夢に落ちる寸前に見た寝顔とよく似た幼い顔だった。
「……なるほど。それで、僕が死んだあと君はどうした?」
しかしそんな表情は本当に一瞬で、気づいた時には、彼はもう不敵そのものの顔をしていた。
夢の続きを思い出そうとしたが、あれから自分がどうしたのかは分からずじまいだ。
「そこで目が覚めた」
正直に答えると、琵琶坂は肩をすくめ、流れるような動作で和詩の乱れた前髪を撫でる。
「ふうん。でもきっと、その君は僕が死んでも特に気にせず生きてゆくのだろうね」
ぎょっ、という効果音が聞こえた気がした。この男は本当に言うことなすことに予想がつかない。
「それ、仮にも恋人に言うセリフじゃ無いだろ」
「本当にそう思ったんだから仕方がないだろう? それに、きっと僕も君が死んだらそうするだろうからね」
それはまったく酷い言葉だった。しかし、なぜか和詩にはそれが心地よく響いた。
理由はわからないが、琵琶坂と話しているとそう言うことがたまにある。
そんなとき、和詩はつくづく自分が普通の人間と違う価値観の生き物なのだなと実感するし、琵琶坂自身もまた、人とは相容れない存在なのだと再認識するのだ。
そんな自分たちを言い表すため、冗長な言葉を避けるならばやはり「怪物」か。
「きっと夢の中の僕らは今みたいな関係じゃなかったのさ。それならどちらかがあっけなく死ぬこともあるだろう。でなければ、君を得た僕がみすみす死ぬものか」
どきりと心臓が跳ねた。そこにつながれた見えない鎖が、ガチャリと音を立てたような気がした。
「……先輩の口説き文句、心臓に悪ィ…」
「いいかい、心臓に良い口説き文句なんかに価値はないんだよ、部長くん?」
また呼び方が戻っているぞ、と暗に指摘され、慌てて口を抑える。
「でもさ、永至。俺は永至が死んだらきっと何もかもがどうでもよくなって、みっともなく泣いて、そのまま餓死するまでぼーっとしてる気がするよ」
そう言葉にすると、甘い言葉に震えていた胸の内に、とつぜん冷や水を浴びせられた気になった。心の中の温度差で病気になりそうだと思った。
「それはそうだろうね」
まるで、飼い主を喪ったことに気づかないまま立ち尽くす飼い犬のように。
そういうと、琵琶坂はそっと和詩の頭を撫でた。
「……さっきといってることが…っむ」
違う、と言おうとして、唇を塞がれた。
輪郭がにじむほど顔を寄せ合い、口内を冒し合う。嗅ぎ慣れたはずの香水の香りに、意識をさらわれそうになった。
「違わないね」
ひとしきり恋人とのくちづけを堪能し終えると、琵琶坂はぺろりと自分の唇を舐め上げ、嫣然と微笑んで見せた。
ふと考えることがあった。
もし琵琶坂に会わなかったら。もしくはこんなにも深い関係にならなかったなら、自分はどうなっていたのだろうと。
きちんと最後まで想像したことはない。だが、今が幸せであればあるほどそれについて考える機会は増えた。
悪夢がフラッシュバックする。
あるいは、そんな未来もありえたのか。みずから同胞の命を絶つ、そんな数奇な運命が。
「何を考えてる?」
再び琵琶坂の顔が近づいてきて、和詩はゆっくりと目を閉じる。
もうそれ以上思考を巡らせることは叶わなかった。
「つまんないこと」
それは本当のことだ。いまではない運命について考えを巡らせることは、つまるところ無駄以外のなんでもない。
想像してしまうのは今が満ち足りているからだ。満ち足りれば、怪物も人間も等しく倦んで娯楽を探す。あの悪夢もそんな暇つぶしのひとつにすぎないのだろう。
二回目の口づけに酔いながら、怪物は柔らかく微笑んだ。