2011年発行 演劇物
それは麗らかな日のことだった。
ジタンは久々にアレクサンドリア城下を訪れた。街はいつにも増して賑やかで活気に満ちていて、前へ進むのにも苦労するくらいだ。
…世界を襲った災厄が遠ざかり、世界を救った女王陛下が帰国して、もう数年の月日が過ぎている。ジタンがガーネットの元へ帰ってきてから数えても、もう数ヶ月が経とうとしていた。
ガーネット女王は今のところ、臣民に親しまれ、善政を行う王として受け入れられている。
…それ自体はいいことだが、彼女のことだ、無理をしないといいんだけど――などと、考えていた時だった。
「ちょっと、そこの君」
「……?」
唐突に声をかけられて、ジタンは思わず振り向いた。
声のした方に視線を動かすと…そこには銀色の髪をした少年が立っている。
年は、ジタンと同じか、下手をすれば少し年下くらいだろうか? まだ青年とは呼べそうにない。その少年は口元に薄い笑みを浮かべて、じっとジタンを見つめている。
「何? 急いでるんだけど…」
「おや、そうですか。それは失礼。でもまあいいじゃありませんか、時は金なりとは言いますが、実際に金銭が失われるわけではないのだし」
ジタンの不審そうな、そして迷惑そうな様子を気にも留めず、少年はあっけらかんとしていた。
なんだこいつ? と、ジタンは思わず眉根を寄せて…そしてすぐに、少年の顔に強烈な違和感があることに気づいた。
少年の顔に、仮面が付けられているのだ。何か特殊な細工でもしてあるのだろうか。仮面舞踏会用の仮面のようにシンプルだが、上手いこと顔立ちや表情がわからないようになっている。とにかく、普通ではない。
「それよりも質問なのですが。舞台に立ったことはありますか? …いえ、立ったことがなくてもいい、立つつもりはありませんか?」
異様な仮面に戸惑うジタンを軽く無視して、少年はジタンにそう尋ねた。
…何を突然。何の脈絡もなく。というか、こいつは本当になんなんだ?
色々と言いたいことも聞きたいこともあるにはあったが、そもそも関わり合いにならないほうが良さそうだ、とジタンはアタリを付ける。
「悪いけど、今の俺は金より時が大切なんだ。役者なら他当たってくれよ!」
ジタンはそう言うと、少年の答えを待たずに走り出した。
人混みをかき分け、そそくさと自分を騒音と雑踏の向こうへと紛れさせていく。素早さには自信がある。ダテに盗賊を名乗っているわけじゃない。
「…フォード・エイヴォン」
そのとき、背中から少年の声がジタンを追いかけてきた。雑踏に紛れているにしては嫌にはっきりと聞こえてきて、不気味なくらいだ。
「僕の名前です。お見知り置きを。…また近いうちにお会いするでしょう」
ごきげんよう、と最後に聞こえた。
しかしジタンはもう気にも留めず、人混みの更に向こう…アレクサンドリア城を目指して走っていった。
*
「…なあ、変な奴だろ?」
「そうね、確かに変わった人かも知れないわ」
麗らかな日はそのままに、場所が変わった。
人混みはここまで来るとすっかり無くなる。ここは、アレクサンドリアの中心、女王陛下のおわすアレクサンドリア城内だからだ。
忙しい日々を送るガーネットに会うため、ジタンはタイミングを見計らってはアレクサンドリアを訪れていた。そしてガーネットをこうして中庭に誘い出し、他愛のない話をする。
本当はもっとゆっくり語らいたい、というのがジタンの本音だが、やりすぎるとスタイナーやベアトリクス辺りが目くじらを立てるので無理だ。ガーネット自身も責任感が強いので、やりすぎると怒られるだろう。
「初対面だったのよね。ジタンが役者だって分かってたのかしら?」
さあね、とジタンは首を傾げるばかりだった。
ガーネットは暫くじいっとジタンの顔を見つめていたが、急にくすりと笑みを浮かべて言う。
「でも、分かる気がするわ。ジタンには人を惹き付ける魅力があるもの」
…不覚にも鼓動が跳ねた。
しかし、全く意に介さない演技をしながら…好きな子の前で素直になりすぎるのは、ジタンとしてはちょっと頂けない…ジタンはいたずらっ子のように笑い返して見せた。
「今は、一人惹き付けられれば充分なんだけどな」
すると、さっとガーネットの顔が赤くなる。今度はジタンがくすくす笑い出した。
その笑い声が二人分に増えるのに、さして時間は掛からなかった。
*
「よう、やっと帰ってきたな、ジタン」
ささやかで何より楽しみにしている時間を終えて、ジタンはリンドブルムの地を踏んだ。
正確には、劇団タンタラスが根城にしている場所を、だ。
そこにはいつも通り、タンタラスの仲間達がいて、団長のバクーが居た。何人かは出払っているようだが、この人数ならまだ集まりの良い方だ。
しかしジタンの目を釘付けにしたのは、団員達でもなく、お馴染みのブランクやマーカスでもなく、そして団長のバクーでもなく。
「やはりまたお会いしましたね、ジタン・トライバルさん」
にっこりと口元だけで見事に笑う、あの銀髪の少年だった。
「な、なんでお前がここに…」
確か名前は…フォードと言ったか。ジタンは、去り際に告げられたその名前を、自分でもびっくりするほど鮮明に覚えていた。
フォードは美しい笑みをそのまま口元に貼り付けて、客用の椅子に座っている。
「もちろん、仕事です。ご心配なく、すぐにおいとましますよ。今日のうちはね」
ねえ、と同意を求めるように、フォードはバクーに目配せした。
机の上には数枚の書類らしきものやペン、書き込んだ跡などが見て取れた。バクーと二人で、何事か相談していたのか。
やがてフォードはおもむろにバクーの前の席を立って、ジタンの方へと歩み寄る。そして何気なくジタンの肩を叩いた。
「これから宜しくお願いします。明日から忙しくなりますよ。…では、バクーさん、僕はこれで」
「おう。気をつけてな」
バタンと扉が閉まって、後には呆然とするジタンと、にこやかにフォードを見送るバクー、他の団員達が残される。
…数秒後、ジタンは金縛りから解放されたかのようにハッとなり、バクーに詰め寄った。
「ちょ、ちょっとボス! どういうことだよ! アレ何だよ!」
「おいおい、どういうことたぁどういうことだ? それに明日から先生になる人に向かって、アレはねぇだろ、ジタン」
「せ、センセイ? なんだそれ、聞いてないぞ!」
「そりゃあそうだろ。ついさっき決まったんだからな! ガハハハハ!」
ガハハハって、おいおい…ジタンは相変わらず状況が飲み込めず、目をしばたかせた。
しかし絶対にこれだけでは終るまい。終わらないのがこのボスという人だ。このはしゃぎよう、もっと大変なことがあるに違いない、いや、絶対にある! と、ジタンは覚悟していた。
案の定、バクーはジタンが取り乱したのに全く構う様子はなく、さらに驚くべき事実を告げた。
「お前が帰ってくるちょっと前に、突然ここを尋ねてきやがったんだ。フォードって名乗ってたな。奴、どうしてもやりたい芝居がある、しかも、どうしてもタンタラスに演(や)ってもらいたいって言ってな」
こっからがまた面白いんだ、とバクーはにやりと笑う。
…ここまで聞いて、嫌な予感以外の一体なにがあるというのか。この破天荒なボスが「面白い」と評価するのだ、一体どんな話なのか見当も付かないし、絶対にろくでもない。
「配役選びも音楽も演出も演技指導も、何もかも自分でやると言ってきたんだ。平ったく言やぁ、今回の芝居に関する決定権を全部渡せとさ。じゃあ俺には何をしろってんだ、と言ったら、フォードの奴はこう言った。『あなたはそこで立っていて、お芝居が終わった後に降る金の雨を浴びればいい』」
「それでまさか…渡したのか! 決定権、全部!」
「あったりまえじゃねぇか。あんな面白いやつ、そうそう出てくるわけがねぇ。見た感じ悪いやつでも無さそうだったしな!」
言い終わると、バクーはまた豪快に笑った。
どうやら、フォード・エイヴォンと名乗ったあの少年は、よほどボスのツボを突いたらしい。しかも、普段なら歯止め役になるはずの団員達までもが、全員笑いながら頷くのだから手に負えない。
「あの子、仮面つけとったけどぜっったい美形やで! 上品やったし、どっかの貴族とちゃうか?」
お忍びのお仕事なんて…素敵やねえ、とルビィは早速やる気満々のようだ。もちろん、他にバクーの決定に異を唱えるものはいない。…どうやらジタンが居ない間に、フォードはすっかり団員たちの心を掴んでしまったようだった。
ジタンはこの何とも言えない空気の中、ふと、今までバクーとフォードが向かい合って座っていた席を見下ろした。
そこには椅子が二脚あり、テーブルが一つあった。
テーブルの上には台本がある。タイトルはこうだ。
【イル・ドゥ・モルビアンの結婚式】。著作、フォード・エイヴォン。