自宅主人公・日暮白夜。
鍵介×主人公。エンディング後、同棲している設定。
* * * * *
きらきらと煌めいていた理想を内側から打ち壊し、再び見た現実は、やはり灰色のままだった。
何かが劇的に変わることはなく、ただ、一度は逃げ出した命題を再度突き付けられただけ。
まるで陸に打ち上げられた魚のように、あるいは、空から落とされた鳥のように、「わたしたち」は仕方なくここで息をする。
ピピピ、と携帯のアラーム音でふと意識が浮かび上がった。ぼんやりとした頭を軽く振って、目の前で震える携帯電話を手に取る。
『お風呂』
現在時刻と一緒に表示されたメモを見て、思わず「あっ」と声をあげた。そして慌てて立ち上がり、バタバタとバスルームに駆け込む。
湯船から白い湯気が上がり、お湯が張られている。あと少しで溢れそうだった。お湯と水、温度調節して捻っておいた蛇口を素早く閉めて、大きなため息をつく。
「あ、危ない……」
また溢れさせるところだった、と一人呟いて、彼女――眞白は湯船に保温用のカバーをかけてバスルームを後にした。
「大丈夫?」
「うわ!?」
ちょうどそこに彼が顔を覗かせたものだから、眞白は思わず声をあげた。すると彼――鍵介の方がびっくりしたらしく、目を丸くして彼女を見つめ返す。
「……そんなに驚かれるとは思ってなかった」
「け、鍵介。ご、ごめん」
ほっとしたところにいきなりだったから。そういうと、顔をのぞかせていた鍵介は一瞬バスルームを見て、にやりと意地悪気に笑った。
「その調子だと、今日はギリギリセーフかな?」
「うう、セーフだよ。ギリギリだけど」
「はいはい。成長しましたね、『先輩』。アラームが役立って良かったじゃないですか」
冗談めかしてそう言っては、鍵介は眞白の頭を撫でる。
あの仮想世界から帰宅を果たし、現実で年齢と身長が逆転して、ずっと敬語だった彼の口調は年相応に崩れた。しかしそれからも、時折彼は意地悪のように『後輩』として話しかけてくる。
『日暮白夜』が『日暮眞白』に戻ってから数年が過ぎた。色々な問題はあったが、それも最近やっと落ち着いたと言えるだろう。両親と親戚たちを振り切って一人暮らしをはじめ、それはもう、数えきれないほどの問題にぶつかった。
そのたびに一つ一つ対策を考えて、階段を上るように前に進む。さっきのことにしても、一人暮らしを始めた頃はよく居眠りをして、浴槽からお湯をあふれさせたものだ。
日進月歩、というには言い過ぎなほど遅く。しかし確実に、この息苦しい現実で生きていく努力を重ねる。
そうして、鍵介と同棲にまでこぎつけたのはつい最近だった。
「もう、鍵介に、迷惑かけずに暮らせると思うから。だから、宜しくお願いします」
眞白は、どきどきと高鳴る鼓動を抑えながらそう言った。実は随分前からさりげなく提案されていたそれを、まだ自信がないからと避けていた負い目もあった。
律儀に頭を下げて、恐る恐る顔を上げた眞白に、鍵介は苦笑ったものだ。
「そんなこと気にしてたんですか」
先輩は相変わらずだなぁ、と、その時も後輩の口調に戻り、鍵介は言った。
「迷惑なんて、二人でかけあっていけばいいんですよ、たぶん。これからずっと一緒にいるんですから」
今までだってそうだったでしょう、と。まなじりを和ませる。
それぞれが何か欠落を抱えながら、それを許して前に進む。メビウスでも二人でしてきたことだ。現実でもそれは変わらないのだと、彼は言った。
まるで息継ぎをするように、二人で手を取り合って生きていけばいい、と。
「あれ、怒った?」
ふと気が付くと、鍵介が少し気づかわし気に眞白を見ていた。考え事をしていて黙り込んでしまったからだろう。眞白は首を横に振った。
「怒ってない。道のりはまだまだ遠いなって思ってただけ」
「道のり?」
不思議そうに鍵介が尋ねると、眞白は少しだけその先を言うのを躊躇って、それからはにかんで微笑んだ。
「……えーと。いい奥さんへの、かな」
……そのゴールが、一体どれくらい先にあるのかはわからないけれど。
この息苦しい地上で、あなたと二人、息を分け合いながら生きていくのだ。きっとそれが、幸せというものなのだと信じながら。