黒子のバスケ。日向先輩→リコちゃんの小話。
伊月先輩も少し出てきます。
「付き合うことになった」
ふくよかな、よく通る声だった。
場所は繁華街のファストフード店。休日で賑わう店内は、少しくらい声を張って話をしたところで外野に聞こえることはない。
「……え?」
思わず声が出る。聞き返したつもりさえなかった。一呼吸くらいの間を開けて、やっと「付き合う」という単語が脳にしみて意味が理解できた。
誰が、誰と。次に当然浮かぶ問いかけには、すぐに答えが返った。
「リコと」
名前を聞いた瞬間、彼女の姿が脳裏に姿が浮かぶ。日向にとって、相田リコとはそれくらい近しい幼馴染だ。だが、「付き合う」という単語と、彼女がなかなか結びつかない。
「へえ。なんだ、お前らそんな話になってたのか。いいんじゃねえの、別に」
それでも、表面上理解だけはした頭で、努めて冷静にそう返した。……つもりだった。
木吉は少し黙り込み、そして、ふと頬を緩めて微笑む。
「そうか……いや、日向には言っておかないとなと思ってさ」
「んだよ、それは。あいつの親父さんじゃあるまいし、なんで俺なんだよ」
日向は呆れたように言い放ち、注文したジュースを飲み干す。木吉は、その答えが意外だったらしい。きょとん、としてからこう言った。
「そういえばなんでだろうな……なんとなく、リコは日向の隣にいるもんだと思ってたから、かな」
まあ、なんとなくだ、と木吉は続ける。
なんとなく。そう、なんとなくだ。日向とリコは幼馴染で、同じ中学で、同じ高校で、同じ部活の仲間で。
「そんなの当人らの問題だろーが。外野が口挟むことじゃねーんだよ、ダァホ」
そう、ただそれだけの、外野だった。
***
「なあ伊月」
空を見上げると、日はとっぷりと暮れていた。細長い月が夜空に浮かび、頭上には星明かり。部活の帰り道だった。
「うん?」
「木吉ってさ……いい奴だよな」
伊月が思わず立ち止まる。
「どうしたんだ、急に」
「……いや別に」
しかし、日向はそれ以上何を言うわけでもなく、どんどん先を歩いていってしまった。伊月は少しその背中を眺め、小さく息をついて後を追う。
この分かりにくいキャプテンが何を言いたいのか、なんとなくは分かったのである。
「いい奴だよ。おおらかだし、ちゃんと周りも見てる。バスケの腕前も言わずもがな」
正直な感想だった。それ以上でも以下でもない。多分、それ以上のものも以下のものも、日向は求めていない。
やがて、大きなため息が聞こえた。だよな、と言ったのかもしれない。
「……もしかして、例の話聞いたのか?」
例の話、と濁したが、この流れで木吉とリコの話以外を指すわけもない。案の定、振り返った日向の表情は複雑だった。
「なんだ、実はけっこう広まってるのか?」
「いや、俺は話の流れと雰囲気で察しただけ。言いふらすことじゃないだろ」
我らが誇るポイントガードは、コートの中でも外でも視野が広いらしい。
「日向こそ、どこで知ったんだ?」
「本人から」
その答えに、伊月は「ああ」というような顔をして黙り込んだ。
二人はしばらく無言で歩いていた。日が暮れきった帰り道は、街灯にたどり着くまでは互いの表情さえ読みづらい。
「木吉に」
不意に日向が口を開く。伊月は顔を上げ、その背中を見つめた。
「あいつは俺の隣にいるもんだと思ってたって、言われたよ。だから俺に話したかったんだと」
また長い沈黙が落ちる。そして、思い切ったように伊月が尋ねた。
「二人が付き合うの、反対か?」
日向が始めて足を止める。そして、振り返った。
「まさか」
薄暗い中、なんとか見えた表情は微苦笑だ。
「木吉はいい奴だ。リコも……あいつだったら心配ないだろ」
なあ、と誰に求めたのかも分からない同意に、伊月は躊躇いがちに頷くしかない。
『リコは日向の隣にいるもんだと思ってたから』。
耳の奥で、その言葉がずっと反響していた。反響するたび、どこかが波打つような、呼吸がしづらいような気がする。
それは、痛み、というにはあまりに曖昧だ。
「……俺も、そう思ってたのかもな」
と、呟いた。伊月は答えない。聞こえなかったのか、聞かなかったフリをしたのか、日向にはわからないし確かめるつもりもなかった。
変わらないものなんてないと、頭では分かっているつもりだった。進み続ける限り変わり続ける。バスケでも他のことでも同じだ。身体が変わるように、心だって変わる。子供から大人へ。いや、自分達ならまだその中間だろうか。
「(そりゃ、恋人くらい……出来るわな)」
あまりに当たり前のことだった。しかし、そのことに今まで気付かなかった。頓着しなかった自分に驚いていた。
リコだけはいつまでも自分の傍にいると、なぜ信じられたのだろう。
なんだか、無性に自分をり付けたくなった。
***
それから何度か、手を繋いで帰る二人を見た。人目を気にしているのは主にリコの方らしく、わざわざ校門を出てから歩いていく。
リコからも世間話のついでのように報告があったが、曖昧に流した。伊月が言うように、言いふらすことでもない。聞かれた場合は本人に聞けと流しておいた。
休日になれば、彼女なりにお洒落したらしい服を着て、家を出て行く姿も見た。
「……変?」
いつだったか、出先でばったりと出会ったとき。あんまり日向が見つめるので、むっとしたように尋ねられたこともある。
「いや、いいんじゃねえの」
なんとかそう答えたときには、以前曖昧だった痛みが自覚できるところまで膨れ上がっていた。
だが、だからと言って、今更どうすることも出来ない。バスケで言うなら、今自分の手元にボールはないのだ。もしかしたら、コートの中にすらいないのかも知れない。 そのことを、悔しいと思う自分は、たぶん、この幼馴染が好きだったのだ。
***
その爆弾発言を聞いたのは、ウィンターカップも近づいた頃だった。奇しくも場所は、部活メンバーもよく訪れるあのファストフード店だった。
「……はぁ?」
眉を目いっぱい顰めて、日向は唸る。対する伊月も、ため息混じりに繰り返した。
「だから、もう別れたんだって」
「誰と誰が」
だから、と伊月はじれったそうに身を乗り出し、繰り返す。
「木吉と、カントクがだよ」
「なんで!」
思わず席を立ち声を大にしてしまったが、はっと我に返って席に就いた。周囲の視線が集中している。
伊月は日向に注がれた視線が落ち着くのを待ってから、先を続けた。
「俺も知らない。根堀り葉堀り聞くことじゃないし」
本人達が話さないのに、突っ込んで聞くのは筋でもないし、柄でもないと伊月は言う。
「……言いふらすことでもない、だろ。なんで俺に言うんだよ」
思わず声を荒げた分、ばつが悪くなったらしい。そう言って視線を逸らした日向に、伊月はあきれ返ったため息で答えた。
「日向。言わせるなよ。お前には言うべきだと思ったからだ」
……やっぱり、我らが誇るポイントガードは視野が広い。
「別にアドバイスのつもりでもなんでもない。ただの事実だよ」
どうするかはお前が決めろと、伊月は言外にそう言った。自分の食べた分のトレイを持って、席を立った。そして、黙り込んだ日向を見下ろす。
日向のほうはと言えば、自分でも、自分が何を考えているのか、整理がついていなかった。
「俺は」
一呼吸置いて、苦々しく声を絞り出す。
「卑怯な真似はしたくねーんだよ」
伊月の気遣いはわかる。はねつける気はない。自分の心の問題だった。
二人がどんな事情で付き合って、そして別れたかはわからない。だが、別れてすぐのリコに、そういう気持ちを押し付けるのは……なんとなく、卑怯だという気持ちがあった。木吉にも、自分にも。
「馬鹿」
ぺしり、と。その時、伊月の手のひらが日向の頭を叩いた。驚いて顔を上げると、そこにはいつになく険しい顔をした親友が立っている。
「その気持ちから逃げるほうが、卑怯だ」
言葉は酷く厳しく響いたが、頑張れ、と、優しいエールが後にくっついていた。
「木吉鉄平はいい奴だよ。で、日向順平も負けないくらい、いい奴だ」
だから頑張れと、伊月は繰り返す。
長い長い沈黙だった。日向はうつむいたまま、色々なことを考える。今までのこと。これからのこと。あの日後悔したこと。
リコへの気持ちを考えることから逃げた日から、この後悔はずっと続いていた。自分はいつもそうだ。逃げ道があるよりも、ないほうが上手くいく。
ウィンターカップは目前だった。これから、キャプテンとして、バスケットボールプレイヤーとしても、決して逃げられない戦いが待っている。
「……ありがとな、ほんと」
驚くほど素直に、その言葉が口から出た。伊月も頷いて微笑んだ。
「それを……ウィンターカップで、証明できたら。まあ、やってみっかな」
この親友が信じてくれる自分になれたら。前に進んでみるのも悪くない。