三人が表に出ると、そこにはちょっとした人だかりが出来ていた。さっきの怒声を聞きつけた野次馬たちに、さらに野次馬が群がった結果だろう。
「僕は本当のことを言っただけです。むしろ、なぜ貴方はそんなにお怒りなのですか?」
「うるさいっ、お前のその言い方が気にくわないんだよ!」
その真ん中で、張本人たちはなおも言い争いを続けていた。
人数は…四、五人ほどだろうか。一人をあとの全員がまくしたてている、という構図だ。
数の上では勝っているにもかかわらず、ケンカを売られた方は涼しい顔をしていて、売った数人の方が焦っているようにも見える。
まずケンカを吹っ掛けている方を見てみると、服装や年齢は似通った感じだった。なぜかヴァイオリンを抱えているやつもいる。
「それは申し訳ありませんでした。僕の物言いはしばしば人の気に障ることがあるようで、理解はしているのですが治せずにいるのです。クセのようなものですね」
ケンカを売られた側が、いけしゃあしゃあとそう言った。
「(この声…それに、このいちいち腹の立つ言い方って、)」
ジタンはふと、思い当たることがあって慌てて人混みをかき分けた。
人垣が避けていくと、
「…フォード!」
銀髪に不思議な仮面、洗練された仕草の劇作家。ジタンが探していた人物が、そこに立っていた。
しかし、野次馬達のささやきのせいでジタンの呼びかけは聞こえなかったらしい。フォードはジタンには気づかず、なおも、興奮した様子の相手側と向き合ったままだ。
「さっきから生意気言いやがって…いい加減にしろ! 俺を誰だと思ってる!」
リーダー格らしい青年が、顔を真っ赤にしてフォードに詰め寄り、胸ぐらをつかみ上げた。さすがにフォードの表情も苦しげに歪む。
本格的に手が出る一歩手前だ。
「ジタン」
フラットレイも同じ感想だったらしい。言わんとしていることを察して、ジタンは頷くと人だかりをさらにかき分け、最前列に出た。
「おいおい待てって! 穏やかじゃねーなぁ。何の騒ぎだ?」
言いながら、ジタンはさり気なく、胸ぐらをつかみ上げた相手の手を押さえて「やめろ」と身振りで示す。
さすがにフォードもジタンに気づいたらしく、驚いたような顔をしていた。。
「なんだよ、部外者は黙ってろ!」
しかし、そんな茶々が入ったくらいでは相手は引き下がらないつもりらしい。今度はジタンに食ってかかってくる。フォードをつかみ上げた手を緩める様子もない。
ジタンは小さくため息を漏らした。
「落ち着けって。…お互い、武器抜く前に穏便に済ませたいだろ? 大人なら聞き分けろよ」
「……っ」
言われて初めて、ジタンの利き手がダガーに触れているのが見えたらしい。青年の顔色が一瞬で変わった。後ろにはもしもの時のフォローに入るべく、フラットレイとフライヤも控えている。
…結果として、青年たちはフォードから手を放し、悔しそうに歯がみしただけに終わった。
「なにが天才だ。…ふざけやがって」
それが捨てゼリフだったらしい。青年と取り巻きたちは互いに目配せすると、そのままきびすを返して人混みの中に消えていった。
あとには安堵のため息を漏らすフォードと、ジタンたち三人。そして、騒ぎの終息を知ってちりぢりになっていく人垣が残った。
ジタンは騒ぎがある程度収まるのを待ってから、フォードを振り返って言った。
「大丈夫か?」
「ええ、お陰様で。…ありがとうございます、トライバルさん」
フォードは相変わらずの笑顔で言った。さっきまでの苦しそうな表情が嘘のようだ。
こういうところが不思議なやつだ、とジタンは改めて思う。
「災難じゃったな。何があった?」
続いて、フライヤが気遣わしげに声をかけた。フォードは肩をすくめてみせる。
「今度のお芝居で、演奏を担当したいと言ってきた方です。どうやら、リンドブルム界隈ではとても有名な方らしいですね」
なんでもないことのように、フォードはさっき絡んでいた青年の名前を口にした。
それを聞いて、ジタンたちは目を丸くする。
「それは…本当に有名な演奏家ではなかったか」
「…オレも名前くらいは聞いたことあるぜ。今一番話題のやつじゃないか?」
まじまじと顔を見たことがなかったので、さっきは気づかなかったが、最近になって売れ始めた有名演奏家であることは間違いない。
しかし、フォードはごっそりと興味の抜け落ちた顔で、肩をすくめるばかりだ。
「どうでもいいことです。彼の実力や世間の評価がどうあれ、今回の劇に彼の演奏は必要ありません。イメージにそぐわない音楽は選ぶべきではない」
ばっさり、という音が聞こえてきそうなほど、ばっさりとフォードは言った。
「…それを、本人にも言ったのじゃな?」
言ってしまった、というべきか。フライヤは今日一番苦い顔で苦笑していた。
「ええ、一言一句たがわず。そうしたら『ならお前には演奏できるのか』と仰ったので、実演させていただきました。そうしたら…この有様です」
…しかも、その「なんでもできる」っぷりを相手に見せつけてしまったらしい。ジタンとしては少し相手にも同情してしまった。
「(確かにこりゃ、「空気の読めない天才馬鹿」だな)」
言い得て妙な評価だと、ジタンはこっそり納得しておく。
その時ふと、フォードは疲れたため息を漏らした。掴まれたところがまだ痛むのか、胸の辺りを押さえて大きく息を吐く。
「まあ、こういうことはよくあることです。どうやら僕は人の心を逆撫でるのが得意らしい。…そんなつもりは全くないのですが」
自嘲のようにはき出された言葉に、ジタンの心臓が跳ねた。
『そう言う人間はまた大変だよ。どんなに愛想良く招待状を送っても、嫉妬も一緒に招待することになる。…彼らは歯牙にもかけてくれないのにね』
数日前に聞いたばかりの、クジャの言葉がよみがえる。
ジタンは何か苦いものでも噛まされたように感じて、眉根を寄せた。
「ありがとうございます」
「え?」
そのとき、不意にフォードがジタンを見据えて、神妙な声で言った。
普段の人を食ったような口調ではない。なんというか、フォードらしからぬ真摯な口調だった。
「トライバルさん達がいなければ危なかった。僕はこの通り、非力さにかけても一流ですから」
その細腕を少し広げて見せながら、フォードは苦笑する。
…確かに、フォードにはケンカの才能だけはなさそうだ。この細腕で武器なんか振り回していたら、それこそポッキリ折れてしまいそうに見える。
「…こうやって僕を助けてくれるところも、そっくりです」
ふと、フォードが懐かしそうに、仮面の奥の瞳を細める。
「そっくり、って…」
「僕の友人です。【イル・ドゥ・モルビアン】の主役のモデルでもあります」
…初耳だった。というか、フォードが自分自身のことを話したのは、これが初めてだ。
フォードは演技指導や演出になると饒舌だが、自分のこととなるとほとんど話さなかった。どこから来たのか、どうやって過ごしてきたのか、きっとタンタラスの誰も…ボスでさえ、知らないかも知れない。
「だから、あんなにしつこく主役をやらせたがったのか?」
「…そうですね。その理由だけであなたにお願いしたいわけではありませんが…それも、あるかも知れません」
フォードは言って、それから、ぽつりぽつりと語り始めた。
ジタンに助けられ、友人の面影を思い出して、懐かしくなったのかも知れない。
「今となっては、ずいぶん昔のことのようですが…『僕』は昔、必要に迫られて友人達と旅をしていたんです。旅をしていた理由は、最初から最後まで『僕』の個人的な理由で、しかも途中からは、かなり危険な旅になりました」
そんな細腕で旅してたのか…というツッコミは、とりあえず飲み込んでおくことにした。
今、フォードが大事な話をしていることくらいは分かる。
「『僕』はこの通りの性格ですから、友人と呼べる人はあまり多くありませんでした。むしろ、知らないうちにあちこちに敵を作ってしまっていた。…命をねらわれたことも、少なくありません」
危険な旅だったというのは、おかしな比喩でも誇張でもないらしい。フォードの真剣な表情を見ればわかった。
「友人達は文句を言いながらも、最後まで『僕』に付き合ってくれました。無茶をした『僕』を救ってくれたことも、一度や二度ではありません」
ふと、フォードの表情が崩れ、一瞬だけ泣きそうに歪む。…何かを、思い出しているのだろうか。
そしてフォードは、手にした荷物からくたくたになった台本を取り出した。
タイトルは【イル・ドゥ・モルビアンの結婚式】。著作はフォード・エイヴォン…目の前の男だった。
「…この芝居は、まだ友人達と旅をしていた頃に書いたものなんです。途中、路銀が足りなくなって、どうにか旅費を稼ごうとして…今のように、その街の劇団に駆け込んで、演出から何から全部やらせてくれと打診しました」
くすくすと笑いながら話しているフォードは、今度はとても楽しげだ。
今も昔も、全部やらせてくれ、と打診して相手に納得させ、しかもやり遂げしまう辺りは「天才」なんだなと思ってしまう。
「もうとにかく時間が無かったものですから、主人公のモデルを友人にして書き始めました。ヒロインに至っては、役者でもなんでもない一般の方を引っ張り込んで…」
そこまで語ると、フォードはまたふと、表情を曇らせる。そして、今まで饒舌だった言葉が止まった。
街のざわめきだけが辺りに流れ、沈黙が逆に引き立つ。フォードはその続きを、もう語るつもりはないようだった。
「…良い友人だったのだな。そして、良い思い出をお作りになった」
フラットレイが、ぽつりとピリオドを打つように言った。フォードは薄く笑って、「そうですね」と返す。
「しかし、だからこそ僕は長い間この芝居を封印してきました。この芝居は『僕』にとって一番特別なもので、特別な人にしか演じて欲しくなかったから…そして僕は、この芝居を演じることの出来る人達を、失ってしまった」
フォードは仮面の向こうで、寂しそうに青い目を細めた。
遠い遠い昔を思い出している目だった。その目には、『失ってしまった』という友人達の姿が、今も映っているのだろうか。
もう二度と会えない、と、さっきフォードは言った。その言葉が意味するのがどういうことなのか、見当は付く。しかし言葉にするのはためらわれた。
フォードは手に乗せた台本を、愛おしそうに一ページ一ページめくっていく。
「でも、あなたと最初に出会ったとき、何故かこの芝居やりたいと感じました。そして、女王陛下の誕生日にあなたがやった芝居の話を聞いて…主役はやはり、あなたしかいないと確信したんです」
ガーネットの誕生日といえば、【君の小鳥になりたい】だ。ジタンがそのことをフォードに話した覚えはないが、お喋り好きの誰かから聞いたのだろうか。
フォードは台本を閉じ、手書きで書かれた【イル・ドゥ・モルビアンの結婚式】という文字を手で触れる。大切な壊れ物を扱うような仕草だった。フォードはそっと、台本をジタンに手渡す。
「…これは僕のわがままです。最初から、最後まで。でも、何度でもお願いします。…『僕』にとっての特別な芝居を、僕自身の手でも完成させるために。あなたに舞台に上がって欲しいのです」
その後に続いた沈黙は今までになく長かった。
ジタンは台本を手に、その表紙を見つめていた。フォードは変わらず、真剣な目でジタンを見つめている。
手の上に乗った台本の重みが、以前に手にしたときより、ほんの少し増した気がした。
「…ジタン。折れてやってはどうじゃ」
フライヤが横から、静かな声で言った。見ると、フラットレイも同じような表情でジタンを見つめている。
ジタンは二人と視線を合わせてから、もう一度フォードの方を見た。
フォードはもう、いつもの表情に戻っている。痛みも切なさも、もう仮面の奥に隠れて見えなくなっていた。
しかし、だからといって見なかったことには出来なかった。
ジタンは大きくため息をついて、それから苦笑してみせる。
「…わかった、わかったよ。一回だけな」
…ずいぶんと色々なことを考えた気がしたが、ジタンはそう結論を出した。
理由は自分でもよく分からなかったが、クジャの話とさっきのフォードの話を聞いて、決断したことは確かだった。
…フォードの友人も、こんな気持ちでフォードを助けていたのだろうか?
フォードは一瞬驚いたように目を見開いて、それから、頭を下げた。
「…ありがとうございます、トライバルさん」
「ジタンでいいよ。もう仕事仲間なんだろ」
ジタンが笑顔になって利き手を出すと、フォードはそれをそっと握り返した。
「…ありがとう、ジタンさん」
握手を交わしてしまうと、なんだか吹っ切れたような気がした。今まで色々考えたし逃げ回ったが、決めてしまうと案外気が楽だ。
ジタンは大きく伸びをすると、台本をしっかりと握り直し、きびすを返した。
「先に帰る。稽古しなきゃなんないしな。今から追いつくのは大変そうだ。フライヤとフラットレイも、またな」
はい、と背中側からフォードが応えた。ジタンは石畳を力強く蹴ると、劇場街の方に向かって軽い足取りで走り出した。
*
ジタンがエアキャブ乗り場に消えてしまうと、フォードはフライヤとフラットレイを振り返り、改めて頭を下げた。
「そちらのお二方にも、改めてありがとう。お礼と言っては何ですが、これを」
フォードがなにやら紙切れのようなものを取り出し、二人に手渡した。二枚ある。
見覚えがあるのは当たり前で、それはこのリンドブルムではお馴染みのものだ。
「…芝居のチケット?」
フライヤが言う。そして、タイトルとそこに記された日付を見て、目を丸くした。
フォードは、この世の誰が見ても魅力的だと思うだろう笑顔で、言う。
「ご来場を、心からお待ち申し上げております」
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