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幕間・一場

Posted in 再録

2011年発行 演劇物

 もう誰も台本を手にしてはいなかった。
 役者達は皆、台本から自分たちの頭の中へとセリフを写し終えていたからだ。練習も終盤に差し掛かった今では、そうでなくては困る。
 やや遅れて、ジタンも全てのセリフを頭の中に叩き込んだ。今はなんとか、立ち稽古の段まで漕ぎ着けている。

 「『おれに興味がないなんて、ディナーに来て食事に興味がないというようなものだ。ここが誰の島か知っているんだろう。それとも他の女に嫉妬するのが忙しいのか』」

 まだ衣装は制作途中なので、普段着で立ち稽古だ。
 演じているのは主人公・マキシミリアンと、ヒロイン・マリーの出会いの場面だった。次はマリーのセリフだ。
 しかしマリー役は居ない。ジタンは一人で舞台に立って、一人で演技している。マリーのセリフを口にするのは、舞台袖から稽古の様子を見守るフォードだ。

 「『あら、おかしなことを仰(おっしゃ)るのね。私が今でも人形に嫉妬する子供に見えるの?』」

 ジタンだけ練習の進み具合が違うので、ヒロイン役の都合がつかなかった、とフォードは言った。そのため、掛け合いの所は全てフォードがセリフを読み上げている。
 最初は、男性のフォードに女役など出来るのかと思ったのだが、これがまた上手いのだ。
 というか、フォードは何を演じさせても達人級に上手い。恐らく今のマリー役だって、顔を隠して声だけで演技させたら、百人中百人全員がフォードを女だと思うだろう。
 何故、自分が俳優として舞台に立たないのかが疑問なくらいだ。

 舞台袖からジタンの演技指導をしていたフォードは、キリが良いところまでジタンが演技を終えるのを見計らって控えめな拍手を送った。
 「…上出来です。では、一人稽古はこの辺までにしておきましょうか」
 その言葉にジタンは一気に力を抜いて、安堵の溜息を漏らす。
 「はー、長かったぜ。お疲れさん」
 「ジタンさんもお疲れさまです。やはり僕の目に狂いはなかった、素晴らしいマキシミリアンを演じて頂けそうですね」
 「そう言って貰えると嬉しいけどな。でもこれからまだ通し稽古とリハーサルがあるんだ、気を抜かないで行こうぜ」
 ジタン以外の団員達は、既に個人の練習を終えている。後はジタンに対するフォードのゴーサインさえあれば、今日にでも最初の通し稽古が行われる予定だった。

 フォードが舞台装置のところまで降りてきて、照明を操作する。
ぱっと明るくなった客席には、他の団員達が座っていた。この後の通し稽古に参加するためだ。
 「皆さんも、今日までお疲れさまでした。後は通しとリハーサルだけですね」
 団員達に向かって、フォードがねぎらいの言葉をかけると、皆がわぁっと小さい歓声を上げた。
 いち早く立ち上がったのはルビィだ。
 「いやぁ、感無量やわ。やっと通し稽古やね! 今回はヒロインと違うけど、ウチも頑張るで~」
 「…え? ヒロインって、ルビィじゃないのか」
 ジタンは目を丸くして言った。

 タンタラスには女性スタッフが圧倒的に少ない。しかも役者となると、ルビィくらいのものだ。
 もっとも、今回の芝居は女性役が特に多いので、フォードがどこからか女優を抜擢して来た。しかし、彼女たちはみんな他の役を当てられていたし、やはりヒロインはルビィが演じるものと思っていた。
 ルビィは意外そうな顔で答える。
 「あれ、知らんかったん? うちは今回マキシミリアンの妹役やで」
 マキシミリアンの妹役。確か、気の強い長女が居たはずだ。確かに役柄はぴったりだが…だとすると、ヒロインは一体誰が演じるというのだろう。
 「じゃあヒロインは誰なんだ?」
 怪訝そうな顔で、ジタンはフォードを見た。
 この芝居に関する決定権は、全てフォードが握っている。配役に関しても、もちろんそうだ。しかし、フォードは薄く笑っているだけで何も答えない。
 「…まさか、フォードがやるとか言わないよな?」
 「よく分かりましたね」
 恐る恐る尋ねたら、満面の笑みでそう言われてしまった。

 途端に辺りがしーん、と静まりかえる。今まで和やかに談笑していた団員達までもが凍りついた。
 やがて重すぎる沈黙を破って、ジタンが言った。
 「…嘘だろ?」
 「嘘ですよもちろん。ジタンさんはともかく、皆さんまで本気にするとは思いませんでしたけど」
 あっさりとフォードは認めた。その場の全員が、あまりの安堵に胸を押さえる。
 フォードは冗談を言ったつもりだったのだろうが、彼は下手な女役よりも相当上手いだけに、冗談になっていない。
 フォードは少しからかい過ぎたと自覚したらしく、バツの悪そうな顔をして頭を掻いた。
 「ヒロインのマリーは少々特別で…演じられる女性は限られているんですよ。でもご安心下さい。今度の特別リハーサルには、必ずおいでになりますから」
 「リハーサルにはって…じゃあ、通し稽古にも来ないのか? そんなんで大丈夫なのかよ」
 ブランクが眉を顰めた。さすがに、リハーサルで初めて会う人間と共演するのは難しいのではと、他の団員達も不安げだ。

 この【イル・ドゥ・モルビアンの結婚式】は、リハーサルの段階から観客を入れて演じられることになっていた。つまり、リハーサルが事実上の本番と同じなのだ。
 しかしフォードは意にも介さない。
 「それもご心配なく。通し稽古はまた僕がマリーをやりますし、特別リハーサルや本番で何が起きても、僕が責任を持ちましょう。元々そういうお約束ですし、ね」
 そう宣言してから、フォードはピアニストのように細い手でパンパン、と二回手を打った。
 再び客席の照明が落とされ、舞台が明るく照らされる。照明に照らされたフォードが、不適に笑っているのが見えた。
 「さて、心配するよりも先に通し稽古です。冒頭から始めましょう。イレンヌ役とマキシミリアンの弟役達は準備を」
 美しく、良く通る声だ。俳優を目指す者ならば、誰もが喉から手が出るほど欲しい天性の声。フォードが指示を飛ばすと、団員達は夢から覚めたように動き出す。

 【イル・ドゥ・モルビアンの結婚式】の特別リハーサルは、数日後に迫っていた。

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