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世界が滅び始めた理由

Posted in Caligula-カリギュラ-, and テキスト

自宅主人公・日暮白夜。日暮白夜本編軸。
鍵介×主人公。
洗脳を繰り返されていたころの話。一番最後に見た白夜。

* * * * *

 彼は、微笑っていた。淡く、薄く、泣きそうな表情で、笑っていた。
 ただっぴろい、ただそこに僕と彼、二人だけが存在するだけの空間で、彼は仰向けに倒れ、天井を見上げている。さらさらとした黒髪が地面に散らばり、広がっていた。そしてそれを、僕は見下ろしている。何をすることもなく、ただ、呆然と。
 「……あなたが、気に病むことは、ないから」
 ね、と。彼は微笑んだまま、僕に向かってそう言った。
 どうして彼が僕を慰めるんだ。謝らなければならないのはきっと僕の方なのに。どうしてそんな風に、幸せそうに僕を慰めようとする。
 彼の、「覚えている」彼の最期を見届けながら、僕は少し前に起こった出来事を思い返していた。

 現実というままならない世界から逃げ出し、このメビウスへやってきた人々は、それぞれが理想と描く人生を再出発する。
 だが、彼はその中でとてもこの世界と相性が悪かった。体質なのか、そういう病なのか。彼は何度も現実の存在を思い出し、混乱し、僕の元へと戻ってくる。
 今日も同じだと思った。ああまたか、と思いながら、彼の記憶を消すだけ。
 ただ違ったのは、今日は彼が僕の手を握ってきたこと。そしてこう懇願したこと。
 「消して」
 ぜんぶ、と、彼はか細い声を震わせる。
 「もう二度と思い出さないように、消してくれ。これで、最後にしてくれ」
 あなたになら出来るんだろう、と、彼は、僕にすがるような目をして言った。
 その時、もう、オスティナートの楽士として固定化されきった僕の価値観が、音を立てて揺れた気がした。
 楽士はメビウスを守るもの。現実に傷つき敗れた人々を救い、夢も希望もない未来を閉ざし、理想を実現できる最後の楽園を維持するのが役目。誰しもが選ばれる役目じゃない。特別で、誇れる役目だ。
 現実を思い出して混乱する住民を見つけ出し、再洗脳するのだって、必要なことだ。気に病むことはない。
 ノイズがかった、その熱狂的な価値観が、彼の言葉と表情でぐらぐらと揺れる。
 「気に病むことはない」――そう、奇しくも、自分自身が自分に言い聞かせていた言葉と同じ言葉で。
 揺れながらも、僕はいつもと同じように……いや、彼の望んだ通り、いつもよりも深く強く、彼の中の記憶を取り去った。

 ……そうして、今。彼は僕の目の前で、彼が望んだとおりに全て忘れて、眠ろうとしていた。

 本当にこれでいいのか? 何故彼は笑って、幸せそうなんだ? これからこの「彼」は、記憶と一緒に消えてしまうのに。
 僕は今まで、何をしていたんだろう?
 地面に倒れる彼の手が、ゆっくりと、僕の方に伸ばされる。その手を取ったのは、ほとんど無意識だった。
 掌に何か固い感触がある。それは、指先でつまめるほど小さな小瓶だった。中に砂と、小さな貝殻が入っているだけの、観光地ならどこでも売っていそうな小瓶だ。
 「あなたが持ってて。俺が持ってると、また思い出すから。……邪魔なら捨ててもいいよ」
 と彼はか細く言った。彼の、「思い出したくない」現実世界での記憶に関わるものなのだろうか。もうそれを尋ねる時間も残っていない。白い肌に埋め込まれた瞳はもう瞼を閉じかけていた。
 僕の中で、何度も同じ問いが回る。
 これでいいのか? 僕は、本当に正しいことをしたのか?
 そのたびに、固定化された価値観が声を上げる。
 いや、正しいはずだ。これはオスティナートの楽士に必要とされる役目だから。
 問いと答えが僕の心を激しく揺さぶり、思考が停止しそうになる。
 「ありがとう」
 そうして彼は、最後まで淡く、薄く、幸せそうに表情を綻ばせ、目を閉じた。僕の手を握っていた手は離れ、力なく落ちる。僕の手の中には、貝殻の入った小瓶だけが残った。
 しばらくぼんやりと、眠ってしまった彼を見下ろしていると、ふと、彼のポケットから学生証が覗いているのが見えた。
 「(日暮……白夜)」
 ああ彼はそんな名前だったのだなと、その時初めて認識する。そんなことも知らずに、僕は何人もの彼を消してきたのか。
 果たしてそんなことが、そんな恐ろしいことが、正しいことだったのか?
 そう考えた瞬間、思考が止まる。固定化された価値観が、繰り返す問いに焦れたように、一気に僕を塗りつぶした。
 その頃の僕は、まだそれに抗う強さも、覚悟も、持っていなかった。

 ――かくて、メビウスの輪はほころび始める。