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彼の戦場

Posted in Caligula-カリギュラ-, and テキスト

自宅主人公・神谷奏太。
主人公×鍵介。エンディング後、奏太のキャラクターエピソードをやってみる。
ダブルクロスThe 3rd Editionとのクロスオーバー要素が強いです。

* * * * *

 「責任取ってくださいね」
 こんな泥臭い、こんなに面倒くさい生き方を選ばせるのだから。そう、冗談交じりに笑って見せた。
 すると彼は一瞬「きょとん」と目を見開いて、それから、何故か泣きそうに顔をゆがませた。そんな彼――帰宅部部長の顔を見たのは、初めてで。鍵介は一瞬、息を呑んで固まってしまう。
 「……うん。わかった」
 そして彼はそう言った。泣きそうな顔のまま、笑っている。そして、鍵介の手をそっと握り、世界で一番大切な宝物にそうするように、自分の胸元に当てた。
 温かい。先輩の心臓の鼓動が、掌から伝わってくる。
 「責任、取るよ。鍵介が逃げないなら、僕も……逃げずに」
 そう言って、もう少しだけ強く、鍵介の手を握った。
 その時感じた気持ちは、いつもの苛立ちや不安ではなく……もっともどかしく、切ない感情だった。

 そうして、その感情の正体を確かめる暇もないまま、鍵介と彼は今ここに立っていた。
 もうすぐメビウスは崩壊する。そんな崩壊する世界のきわで、彼は鍵介の隣に立ち、ぼんやりと、うち崩れていく電子世界の残骸を見上げていた。
 帰宅部が一人、また一人と現実へ帰還を果たすために消えていく。次は鍵介だろうか、それとも隣の彼だろうか。
 「鍵介」
 隣の彼が、鍵介を呼んだ。優しい灰色の瞳は、穏やかに笑んでいる。そのきめの細かい白の、透けそうな肌を張り付けた手が伸び、鍵介の腕を唐突に掴んだ。そして強い力で引き寄せる。
 「……先輩?」
 呼んだ声に、彼は答えない。そのまま、鍵介を抱きしめる。
 ちょっとどうしたんですか、何ですかこれ。
 そんな言葉も言おうと思ったのかも知れないが、言えなかった。鍵介を抱きしめた彼の身体は、細かく震えていたから。世界が壊れる振動なんかじゃなく、彼自身が、何かに怯えて震えていた。
 「好きだよ」
 強く強く、その言葉を言ったのと同時に、彼が鍵介を抱きしめる。そして、そのあと身体を少し離して、口付けられた。
 思わず目を見開いた。拒絶なんて全く過ぎらない。ただただ、その美しい瞳と、背景に崩れる電子の壁と、この崩れゆく世界に二人だけなのだという非現実感に、酔いしれた。
 崩落する世界の中で、たった二人。甘く長いキスをする。
 「……お願いがあるんだ」
 やっとそれが終わった時、彼は切ない声で言う。遠くに何かが崩れる音を聞く。鍵介はただ、呆然と、見慣れた彼の顔を見ていた。見慣れたはずなのに、初めて見る彼の、心細さでいっぱいの表情を見つめる。
 「現実へ戻ったら」
 視界が揺らぐ。ああ、次に帰るのは僕なんだ。そう悟る。揺らぎ、頼りなさを増す視界と聴覚を必死に研ぎ澄ませ、彼の、メビウス最期の彼を聞く。
 「僕を助けて」
 神谷奏太という名前の彼は、初めてそう、言葉にした。

* * *

 スマートフォンが鳴っていた。ピリリリ……と初期設定のまま変えていないその音は、仕事用として使っている方だ。
 カーテンから差し込む光はまだ柔らかく、早朝の気配を感じさせる。
 ベッドから手だけをのろのろと出して、彼女は音の原因を手探りし、なんとか掴んで布団の中に引き入れた。七時半過ぎ。彼女にとっては十分早朝だった。表示された発信者の名前を寝ぼけ眼で確認してから、彼女は通話マークをタッチする。
 「……はぁい、四方田……ただいま営業時間外、ですー」
 『ふざけんな。そんならとっとと起きて営業しやがれ』
 その途端、聞こえてきたのはこの暴言である。まだ年若い少年のその言葉に、彼女――四方田まみこは、思わず眉根を寄せてスマートフォンを見つめた。そして改めてそれを耳に当て答える。
 「あのねえ羽鳥くん。世の中には労働基準法というものがあるんだよ。自営業だってね、法律は守らなきゃダメなんだから」
 それでも言いながら上半身を起こし、布団を跳ね除け、自室のフローリングに足を降ろして立ち上がる。ぺたぺたと部屋を横切って、洗面台へと移動した。
 スマートフォンの向こうで、羽鳥と呼ばれた少年が鼻で笑う。
 『何が労働基準法だ。今更俺らに法律なんてもんが適用されるわけがねぇし、法律違反が仕事みたいなアンタが言うか、【調達師】』
 「あはー、違いないわー。で? わざわざモーニングコールくれたわけじゃないんでしょ?」
 スマートフォンをフリーハンドにして、身支度を開始する。
 電話の相手――羽鳥ミカエラという名前のこの少年は、決してマメに知り合いに連絡してくるタイプではない。いざ電話をしてきたという時は、絶対に急ぎか、相当に重要な要件の時だ。軽口を言える時間があるということは、今回は後者なのだろう。
 そして、四方田が予想したとおり、羽鳥はしばし沈黙して、用件を口にする。
 『……神谷が目を覚ましたそうだ』
 カタン、とブラシを洗面台に置いて、四方田が一瞬だけ動きを止める。
 「確かなの?」
 『これで嘘だったら、俺は二度と日本支部の命令では動かねえと奴に言ってやった』
 「そりゃ、霧谷さんも気の毒に」
 UGNにその名をとどろかす【竜血公】にそっぽを向かれては、日本支部もたまったものではないだろう。まして、彼が「ああなってしまっている」今は特に。
 くすりと笑ってスマートフォンを再度手にして、部屋を移動する。キッチンは昨日、夕飯の食器を付けたまま放置されていた。
 「オーケー。準備出来たら向かうわ。ええと、行き先はどっちがいいのかな? 病院? それとも日本支部?」
 軽い口調で尋ねる四方田とは対照的に、羽鳥は苛立つ口調で『日本支部だ』と返した。予想通りの答えに、四方田は初めて――しかし納得したように「そう」答える。

 * * *

 晴天だった。突き抜けるような青空は高く、白い雲がゆっくりと流れていく。高いビルに遮られていてなんとももったいないが、そうでなければ文句なしの気持ちよい陽気だっただろう。
 東京都、某所。文句なしの一等地に立つその巨大な建物を前に、彼らは違和感を感じずにはいられなかった。
 「……こんな大きい建物、絶対無い。絶対」
 うう、と若干怯えたような声で言ったのは、鳴子だった。スマートフォンを操作してこの場所の地図を見ているが、現在地を示す場所にはこんな建物はない。「存在しない」はずだ。
 「『何を見ても驚くな』……いえ、驚いてもいいけど、うろたえるな、だったかしら? 事実は小説より奇なりだわ」
 鳴子よりはまだ冷静な様子だが、琴乃も何とも言えない表情でその建物を見上げている。その頭は、数日前のことを回想していた。

 『神谷奏太について知る覚悟があるのなら、ここへいらしてください』

 少し前、「奏太の上司」と名乗る男が彼らを訪ねてきた。非常に丁寧で誠実な印象を受ける、それは思い描く通りの「大人」という印象の男性。彼は「霧谷雄吾」と名乗り、彼らに名刺と、この建物の場所を記した地図を渡してこう言ったのだった。
 「彼がどこまであなた方に話しているか、私は存じません。しかし、あなた達には神谷奏太の世界に「踏み込むか」「踏み込まないか」を選ぶ権利はある……私はそう判断しました。彼も、あなた達にそれを選んでもらうことを望んでいます」
 その言葉に、その場の全員、つまり現実へと帰還した帰宅部が、全員顔色を変えた。
 現実世界へ戻ってから、一度も連絡をよこさない帰宅部部長、神谷奏太。人づてとはいえ、その言葉を現実で聞いたのは、これが初めてだったからだ。
 「あのっ、先輩は……無事なんですか?」
 思わずそう尋ねたのは鈴奈だっただろうか。霧谷と名乗る男はゆっくりと頷く。
 「そこはご安心ください。あなた達と同じで、彼のアストラルシンドロームについても回復しています。むしろ、彼の身が危険になるとしたら、これからでしょう」
 「そりゃ、どういう意味だ?」
 思わず聞き返したのは笙悟である。男は躊躇う様子もなく答えた。
 「そのままの意味です。これ以上は、今すぐにお話することは出来ません」
 『踏み込むか、踏み込まないか』。それを選ばない者にはこれ以上与える情報はない。男は言外にそう言いたいようだった。
 男は朗らかではあるが、表情も口調も淡々としていて、そこから余計な感情は読み取れない。見た目はごく普通のサラリーマンに見えるが、おそらく高度な訓練を積んでいるのだ。
 やがて男は来た時と同じように丁寧に頭を下げ、帰っていった。
 そして帰宅部は全員でその言葉の意味を吟味し、悩み、そして今日を迎えたのである。

 どん、と何かが身体にぶつかり、鍵介はよろめいた。回想にひたっていた思考が一気に現実を取り戻し、たたらを踏む。
 「すまない」
 すぐさま、高く愛らしい少女の声が鍵介にかかった。思わずそちらを向くと、そこには16、7くらいの、整った顔立ちの少女が立っている。
 少女はどうやら、鍵介たちの隣をすり抜け、目の前の巨大な建物へ入ろうとしていたらしい。
 「怪我はないか。少し急いでいて、不注意だった。許してくれ」
 「いえ、そんな。こちらこそ、入口で広がっててすみません」
 少女が気遣わしげに言う。どう見ても自分よりも年下の少女から流暢に謝罪され、鍵介は面食らう。そしてなんとか首を横に振った。続いて、少女の後ろから小走りに男性が駆け寄ってくる。
 「大丈夫ですか、支部長」
 黒いスーツを来た、温和そうな顔立ちの男性だった。年頃は明らかに20代を越えて、30代に手がかかりそうだ。そんな男性に支部長、と呼ばれたのはどうやら少女らしい。敬語で、しかも明らかにそぐわない肩書で呼ばれた少女はしかし、ごく自然に「問題はない」と答えて見せている。
 「本当にすまなかった。今は急いでいるのでこれで」
 もう一度軽く頭を下げ、少女は男性を伴って建物の中へと入っていってしまった。その背中を見送っていると、今度はくい、と控えめに服の裾が引っ張られた。
 「で、どうすんだよ。行くか、行かねーか」
 鼓太郎が何とも言えず、不安そうな顔で言った。鍵介は即答できず、鼓太郎と建物の入り口――少女が消えた方を交互に見やる。
 鍵介の中で答えは、すでにあの日に出ている。霧谷と名乗る男が帰宅部を尋ねたあの日にだ。
 「僕は行きますよ。正直、鬼が出るか蛇が出るか、ってところではありますけど」
 苦笑し、言う。ちらりと周りを見ると、全員似たようなものだった。
 「……毒を食らわば皿まで、だ」
 結局、維弦が呟いたその言葉が全員を代弁していた。
 「大丈夫です。先輩は全部、受け止めてくれました。今度は私たちの番ですよ」
 美笛が明るく笑って言った。そして全員で顔を見合わせ、巨大な建物の入り口へと足を進める。
 ――かつて、彼は帰宅部全員の心に恐れることなく踏み入り、救ってくれた。踏み込まれた時の痛みは決して小さくはなかったが、それは破片を飲み込んだまま塞がった傷を癒すための痛みであり、彼を責めようと思う者はいない。
 そして、彼が一度だけ、「僕は決して救われない」と泣いたことも、皆覚えていた。原因不明の破壊衝動の暴走。帰宅部にそれを止められ、理性を取り戻した後も、彼はそのことについて深く語ろうとはしなかった。ただ一言、「そういう体質であり、決して治らない」と説明しただけだ。
 あえて説明しない、つまり、神谷奏太があえて隠し通したことを、今から全員で暴こうとしている。
 もう後戻りはできない。するつもりもなかった。なによりも。
 『僕を助けて』
 そう言った彼の言葉を、叶えるために。

* * *

 辺りはざわついていた。大学の大教室を思わせる広いホールに、一定の間隔をあけて人が席についている。
 帰宅部のメンバーはその中の一角、少し離れた「特別席」に並んで座っていた。会議場を見渡すことが出来るその席からは、様々な顔が見える。老若男女、年齢や服装もてんでバラバラで、統一感のない構成だった。中には、明らかに成人していない少年少女なども混じっている。
 「ねえ、鍵介君。これから『会議』が始まるって言ってたわよね」
 「ええ、そのはずですが……とてもそうは思えませんね」
 隣に座る琴乃が、声を潜めて言う。鍵介は苦笑でそれに答えた。先ほど、「説明役」を名乗った女性の言葉を思い出す。

 「これから、『会議』が始まるわ。神谷奏太の今後を決める会議がね」
 若く美しい白衣の女性は、そう言って、まるで授業でも始める教師のようにホワイトボードに向かう。
 「あなた達が会議をちゃんと理解できるように、今から必要最低限の『説明』をするわ」
 よおく聞いてね、と女性は念押しする。
 それから帰宅部に与えられた情報は、まさに夢物語、控えめに言っても、誰かが小説でも書くために考えたトンデモ話と変わりなかった。
 ……昨日と同じ今日。今日と同じ明日。世界は繰り返し時を刻み、変わらないように見えた。
 だが、人々の知らないところで、すでに世界は大きく変貌していた。
 発端は「レネゲイド」と呼ばれる新種のウィルス。その未知のウィルスは、人を内側から変容させ、人を遥かに超えた異能力を与える。しかしその異能の力とウィルスは、同時に人の理性も蝕むのだという。
 「今日は駆け足だから色々省くけど、このウィルス、実はもう人類のほとんどが潜在的に感染していると言われているわ。発症者がそう多くない理由は様々あるけど、ざっくり言えば発症する『きっかけ』がないから。もしかしたらあなたたちも、『きっかけ』さえあればもしかして、ね?」
 さらりと怖いことを言いながら、白衣の女性は妖艶に笑う。そして、ホワイトボードに大きく「レネゲイド」「ニンゲン」「オーヴァード」「ジャーム」と書き出した。
 「レネゲイドがニンゲンに感染し、潜伏。その後、なにかの『きっかけ』を経てレネゲイドが活性化し、発症する。その結果、ニンゲンは変容し、『オーヴァード』か『ジャーム』のどちらかになるわ」
 女性が一度振り返り、全員を見渡してから、再びホワイトボードにペンを走らせる。「ニンゲン」から走った二つの矢印は、それぞれ「オーヴァード」と「ジャーム」へ向かう。
 「レネゲイドが最初に発症する際には、母体に多大な負荷がかかる。具体的言うと、全身への激痛と精神的ショックね。これに耐えきったものは『オーヴァード』になる。平たく言えば超能力者。神谷奏太はこちら。あと、私もね」
 「オーヴァード」の下に「神谷奏太」を書き加え、女性はさらに続ける。
 「そしてこの最初の負荷に耐えきれなかったものは、『ジャーム』になる。異能力を持ちながら理性を失った、バケモノよ。最初の発症時、実に五割以上のニンゲンがジャーム化すると言われているわ」
 五割。そのあまりの高さに、全員が息を呑む。実に半分ものヒトが理性を失い、バケモノになるほどの激痛とショックとは、どんなものなのか。想像するだけでも背筋が寒くなる。
 情報の洪水に頭が破裂しそうな錯覚に陥るが、なんとかそれを振り切り、美笛がさっと手を挙げる。
 「あ、あの! じゃあ、奏太先輩は、その、ジャームっていうのにはにならなかったってことですよね!」
 「発症時は、ね。でも、オーヴァードは後からジャームになり得るわ」
 一筋の希望のようなその言葉を、女性があっさりと切って捨てる。
 「オーヴァードはウィルスに蝕まれるのと引き換えに、異能力を手に入れる。手に入る力は人によって違うけれど、神谷奏太を例に挙げるなら、視覚、聴覚、反射神経の発達辺りが分かりやすいかしらね。彼なら、空気中の塵の動きを捉えて撃ち抜くくらいは簡単なんじゃないかしら?」
 ……誰も言葉にはしないが、常軌を逸している。しかもこれは、メビウスでの話ではなく、現実での話だ。
 しかもこれは珍しいことではないらしく、オーヴァードの中には、数キロメートル離れた場所の出来事を見聞きする、手を触れずに電子ロックを解除する、仲間同士でのテレパシー、果ては自身の代謝活動さえ制御し、永遠の若さを保つ者などまでいるという。
 「その力を使うたびに、オーヴァードは発症時と同じく精神的なショックを受ける。いわゆる『理性を削り取られる』のよ。それが繰り返されて、オーヴァ―ドの精神が限界を迎えれば、やっぱりジャーム化してしまう」
 「オーヴァード」から新たに矢印が引かれ、「ジャーム」に向く。
 ではなぜ――その時、全員が思った疑問を、鍵介が口にした。
 「じゃあなぜ、先輩はその力を使い続けるんですか」
 理性を削り、精神を削り、いつか自分をバケモノに変えてしまう力。いくら人間を超えた異能力とはいえ、命……いや、こころに代えられるものではないはずだ。少なくとも、帰宅部の知る神谷奏太は、力が手に入ればこころは必要ない、と斬り捨てる人間ではなかった。
 説明役の女性は、そこでしばらく黙り、全員の顔をゆっくりと見渡す。
 「それは――」
 そして言いかけた時、後ろにあるドアが三度、ノックされた。女性が口をつぐみ、ドアを見る。やがてドアが開いて現れたのは、霧谷雄吾だった。
 「すみません、時間です。みなさんは会議室へ」
 どうやら時間切れのようだった。帰宅部は煮え切らない顔のまま、しかし促されるままに席を立つ。
 それぞれがそれぞれの歩幅で部屋を出て行く。もう姿も年齢も皆バラバラだ。ここは現実――メビウスではない。当たり前だ。しかしこうやって同じ席につき、同じように未知のものに触れている感覚は、メビウスにいた頃を思い出させた。
 「(先輩だけがいない)」
 鍵介は思う。それだけが、違う。
 いや、メビウスにいた頃から、ずっとそうだったのかもしれない。奏太以外の帰宅部は、それぞれ深い事情を抱えながらも同じ現実を目指していた。ただ、奏太だけは違う現実を、今説明されたような、非日常な現実を目指していたのだ。
 『与えられた才能なんて、空しいだけだ。今は良くても、きっといつか後悔する』
 かつて、鍵介がそう言われた時。なんてお綺麗な、なんて教科書通りの言葉だと正直思った。しかし今は、その言葉が180度変わって聞こえる。
 与えられた才能、異能なんて空しい。最初は良くてもいつか……日常が恋しくなると。
 メビウスでの彼の姿を見ていれば、それが心からの言葉だったと今なら分かる。なぜなら、メビウスでの神谷奏太は「普通の高校生」だったからだ。
 超人的な視覚も聴覚も、反射神経もない、ただの高校生。それが「神谷奏太の理想の姿」だった。ウィルスによって与えられた才能を全て取り払った、「本当の自分」。それは、メビウスにしか存在しないから。

 そこまで回想した時、会議室全体が大きくざわめいた。ハッとなって顔を上げると、席に着いた面々がしきりに隣と顔を寄せ、なにやら囁き合っている。
 「おい、あれ……まさか京都の」
 「四季野支部の新支部長か?」
 「なんでわざわざ関東に?」
 かろうじて聞き取れた単語は全く意味が汲み取れないが、彼らの視線は一貫して会議室の入り口に向いている。それを辿ると、そこには先ほど入口でぶつかった少女と、その付き添いらしい男性の姿があった。
 「あれ、あの子って、さっきぶつかった子だよね?」
 鳴子も気付いたらしく、隣の鼓太郎の服をくいくいと引っ張っていた。
 少女はそんな会議室内のざわめきなど聞こえていないような顔をして、優雅な足取りで進んでいく。そして、用意されていたらしい席の椅子を男性に引かせ、これまた品のある仕草で座った。
 「さて、皆さん。定刻ですので会議を始めます」
 少女が席に着いたその時、会議室中央のモニターが点いて、霧谷雄吾の顔が映し出される。霧谷は会議室の檀上、議長席に座っていた。
 「議題はご存知の通り、日本支部所属のエージェント、神谷奏太の処遇について」
 ざわめきが止まる。帰宅部が全員、息を呑んだのが分かった。こんな直接的に部長の名前が出てくるとは思わなかったのだ。
 モニターが切り替わり、今度は書類が映し出される。神谷奏太、と書かれた書類の右端には、奏太の顔写真。かつてイケPと戦った時、彼の履歴書を盗み見たことがあるが、それに近いものだ。
 「神谷奏太、現在22歳。ハヌマーンとエンジェルハィロゥのクロスブリードです。14歳でレネゲイドを発症し、UGNに保護。能力の訓練後、チルドレンを経て、現在は日本支部所属のエージェントとして活動。およそ半年前、ジャーム討伐任務を受け出動し、交戦の結果勝利したものの、戦闘後に浸食率が下がらず暴走状態が確認されています。この時、『ジャーム化の疑いあり』と報告が上がっています」
 淡々と報告書を読み上げる霧谷の声に、感情は見えない。会議室の面々も、多少ざわめきはするが、静かなものだった。
 「その後、同じ日本支部エージェントによって捕縛され、同支部によるジャーム化認定中に意識不明。その後、彼の状態は『幽体離脱症候群』に当たると診断されました。意識を失うのと同時に暴走状態は収まり、彼のジャーム化認定については続行不能のため中断、保留。これが今までの経緯です。そして彼はつい一か月前、意識を回復しました。検査の結果、『幽体離脱症候群』は治癒しており、現在は浸食率も低下。暴走状態も見られません」
 報告書の束を置き、はるか遠い壇上で、霧谷が再び会議室を見渡す。
 「端的に言いましょう。本会議で決定すべきことは一つです。すなわち」
 誰もが、緊迫感に、少しも動くことが出来ないでいた。しかし、霧谷は一人だけ時間を進めているかのように流暢に先を続ける。
 「神谷奏太はジャームか、オーヴァードか。彼を殺すか、生かすか――です」
 ひっ、と息を呑んだのは、帰宅部の誰だっただろうか。あるいは、鍵介自身だったかも知れない。
 『むしろ、彼の身が危険になるとしたら、これからでしょう』
 そう霧谷が言ったのは、比喩でもなんでもなく、単なる事実だった、ということだ。
 「私は即刻『処理』すべきだと思うが。むしろ、こんな会議を行う理由の方が理解できない」
 早速声が上がる。モニターに映っているのは壮年の男性。金髪に眼鏡、日本人離れした顔立ちから、おそらく外国人だろう。鋭い眼光をこちらに向けて、冷酷な声で淡々と告げる。
 「なぜか冒頭の報告では省かれているが、確か神谷奏太は世界に何人もいない『音使い』だったはず。しかも衝動は『破壊』で、生粋の前衛要員ではないか。暴走、ましてやジャーム化などしてしまえば、広範囲に被害が及ぶ可能性が非常に高い。アストラルシンドロームのせいで正式なジャーム化認定が出来なかったとはいえ、ほぼ確定していたんだろう。それとも、日本支部は身内可愛さに一般人を危険に晒すのかね?」
 ふん、と鼻を鳴らす男性に、霧谷は無言で画面を見つめ返す。そして柔らかく微笑んだ。
 「いいえ。我々日本支部も、他の支部も方針は変わりません。我々の目的はレネゲイドの脅威から世界を守ること。そして、オーヴァードが人類と共存できる世界を目指すことです。違いますか、レドリック議員」
 共存。その言葉を強調し、言外に批判を跳ね除けた霧谷に、男性はふん、と鼻を鳴らしていったん黙り込んだ。すると、別の席から手が上がる。
 「あっ、あの~、現在の彼は、もう浸食率も正常値なんですよね? 報告書によれば、意思疎通も問題なく行えますし、レネゲイドコントロールにも問題は見られません。そ、それに……その」
 手を挙げたのはちょうど鍵介と同い年くらいの女性だった。成人したかしていないかというところだろう。しかし妙に子供っぽい口調と仕草で、印象的だった。そして彼女は、ちらり、と帰宅部の座っている席に視線を向ける。
 「か、彼には、その、もう、お友達が……大切な方々がいらっしゃるようですから。だから、大丈夫だと思うんです~」
 「私も薬王子支部長と同じ意見だわ」
 薬王子、と呼ばれた女性に追従して声を挙げたのは、そんな彼女よりずっと幼い――下手をすれば鼓太郎と同い年くらいの少女だった。豪奢な金髪に理知的な瞳、ともすればビスクドールのような美貌を称え、はっきりと発言する。
 「どんな理由があれ、彼はジャーム化認定されていない。そして現在も、彼はジャーム化していない。そんな彼を処分するのは、UGNの根本的な理念に反することよ。それに、彼はまだ病み上がりでしょう」
 「……くだらない感情論や希望的観測に時間を費やすのは感心できませんね。あなたの悪い癖です、テレーズ議員」
 しかしそんな少女の声を遮ったは、まるで刃のように冷たい美声だった。霧谷の隣に座るその女性が、淡々と先を続ける。
 「重要なのは、彼がまだUGNにとって安全かつ有効に活用できる人材かどうか、です。神谷奏太は、後者はともかく、前者については非常に怪しい。意思疎通が問題なく行えるジャームなど、いくらでも存在するではありませんか。そんなヒトの皮を被ったバケモノに、我々は何度も寝首をかかれそうになったはずですが……中枢評議会の議員ともあろう方が、まさかお忘れとも思えませんね」
 皮肉を目いっぱい込めたらしい女性の言葉に、さすがに周囲から苦笑が漏れた。霧谷は涼しい顔を貫いているが、ちらり、と女性を見やって目を細める。
 「さすが『異端審問官』……バスカヴィル副支部長は相変わらず手厳しいな」
 「中枢評議会の犬には絶好の機会なんだろう。よっぽど日本支部の責任を追及したいと見える。この件をきっかけに、霧谷支部長から主導権を奪えれば御の字というわけか?」
 「テレーズ様は穏健派だからな。中枢評議会の内部でも、色々抗争もあるんだろう」
 声を潜め、あちこちから不穏な言葉が飛び込んでくる。奏太の処遇以外にも、何やら水面下で組織的な駆け引きがあるようだ。
 「こんな……先輩がいない場所で、先輩以外のひとが、先輩の生き死にを決めるんですか」
 そう、小さく呟いたのは鈴奈だった。あんまりです、と囁いた彼女は、すでに涙ぐんでいる。
 しかしそんな彼女の想いは空しく、少しずつ、「神谷奏太を処分すべき」という声が大きくなっていった。

 「……なんや、皆さん会議室ではようお話しになりますなぁ」

 そんな会議室に、凜、と鈴が鳴るようにそんな声が響き渡る。まるで池に波紋が広がるように、その声は不思議な威厳をもって、あんなに騒がしかった会議室に静寂を取り戻させてしまう。
 話しているのは、あの、入口でぶつかった少女だった。確か、「四季野支部長」と呼ばれていた少女だ。
 「支部長」
 席に座ったまま、尚もくすくすと声をあげて笑う少女に、隣に立つ男性が窘めるように声をかける。
 「おお怖い。そない睨まんといてな、天野。皆さんがあんまりにもお仕事熱心なんで、関心さしてもろてるんよ。ま、その調子で現場でも動いてくれはると助かるんやけどねぇ」
 ふふ、と優雅に手を口元に当て、少女はさらにころころと笑った。
 「神谷奏太。うちもあの子とは浅からぬ縁があってねぇ。あれは稀に見るよう出来た子や。上司として、そう思わはりませんか、霧の方」
 「……もったいないお言葉です、四季野支部長」
 年端も行かない少女の声は高く無邪気だが、その言葉はまるで老女のように老獪で、重みがあった。騒がしかった会議室が一瞬で静まり、議長を務める霧谷までもが恭しく対応するので、一層その違和感が際立ってしまう。
 「小さい頃から、まぁ文句も言わんとようUGNに尽くして、すこーし前にはうちの支部もこの子の世話になった。そうやったねぇ、天野?」
 「はい。私と、そこに座る羽鳥くん、四方田さんが証人です」
 言って、少女の隣に立つ男性が、帰宅部のすぐ隣の席に視線を向ける。金髪を雑に掻き上げて鼻を鳴らす少年と、眼鏡の奥で不敵に笑う女性が座っていた。
 まずは羽鳥と呼ばれた金髪の少年が立ち上がり、好戦的な表情で会議室を見渡す。
 「……フン。こんだけのメンツが雁首揃えて、わめきたてるのは殺せ殺せ、そればっかか。くっだらねえな。何がUGNだ。そんなに殺してぇならテメェで現場出て、好きなだけ『ジャーム』の首を掻っ捌いてろ木偶共が。善良な『オーヴァード』を巻き込むんじゃねぇ」
 「おーこらこら。もう少し『慎み』をお口に持たせなさいな、羽鳥くん」
 次に四方田と呼ばれた女性が立って、羽鳥の口を強引に塞ぐと席に座らせた。羽鳥はまだ何か言いたそうだったが、また鼻を鳴らして黙り込む。
 「ま、あたしとしても神谷くんをジャーム化認定ってのは避けたいですねー。個人的に彼、とってもお得意様だし、生きた資料だしー。ま、ジャーム化しかけたってことは、あたしとの『絆』は切っちゃったのかなーって感じですけど、今はこの人たちと結んでるみたいだし。問題ないんじゃないですかねー」
 へらへらと緩く笑いながらそう言って、四方田は唐突に、帰宅部の面々を指さした。突然会議室中の視線が帰宅部に集中し、帰宅部は見えない圧力におののく。
 「絆、か」
 維弦は状況がわかっているのかいないのか、唯一表情を変えずにその言葉を繰り返す。
 奏太と帰宅部の絆。本当にそんなものが残っているのだろうか。一瞬、全員がそれを自問しかけて――
 「この子たち、逃げることも出来たわけじゃないですか。こんな意味わからないところにわざわざ来て、神谷くんのためにって話も聞いて。これで彼を『日常』に繋ぎとめて無いって言うなら、あんた達が信じてる『絆』なんてそもそもこの世界に存在しないんですよ」
 四方田の言葉が、その自問に答える。そして、まだ疑念の声を囁く会議室の面々を、凪ぐかのようにそう言い切った。
 「……以上が、我々の見解です。神谷奏太はジャームではない。私も二人と同じく考えます。あの事件で一緒に戦った彼は、生半可な誘惑や絶望に負ける青年ではなかった」
 最後に天野と呼ばれた男性がそう締めくくり、口を閉じる。くす、と、更に満足そうに、老獪に四季野が笑った。
 「そういうことや。これだけ聞いても神谷奏太を『処分』する、言わはるなら、私は日本支部の手がよほど余ってはると思わざるを得ませんなぁ。そない手ぇが余ってはるんやったら、少しうちに人手くれはってもええんちゃうかなと思いますけども。どうですの、霧の方」
 「………………それは」
 少女の提案に、霧谷は一瞬言葉を詰まらせた。どう答えたものか、少女の思惑を測りかねているようにも見える。すると、少女がさらに言葉を重ねた。
 「うちら四季野支部に神谷奏太を任せてくれはるんなら、こっちは責任もって彼の状態を詳細に調査させてもらいます。もちろん、何があっても責任はうちが取らせてもらいましょ。……ほとんどジャーム化してたオーヴァードが、日常に『戻って』来たんや。その理由、興味津々な方はたくさんいはりますやろ?」
 その言葉が決定打だったようだ。ざわついていた面々が、また水を打ったように静かになる。そして、ぎらり、とした視線が少女に集中した。
 少女の――四季野彩葉の勝利が確定した瞬間だった。
 そのあと、細々とした話し合いは続いたが、結局少女の提案を覆す意見は出ず、霧谷は最後にこう締めくくった。
 「……では、四季野支部長の提案については詳細な打ち合わせをするとして、本日はこれにて終了します」
 中央のモニターがふっと暗くなり、会議室の面々が一斉に立ち上がる。帰宅部の面々も慌ててそれに倣い、会議終了の礼をしたのだった。

 * * *

 ピアノの音が響いていた。
 執拗なほど白に染め上げられた病室で、彼はそのピアノに合わせ、懐かしい歌を口ずさんでいる。病室にピアノが置けるはずもない。
 しかし、他に音を出すプレーヤーなどの類は一切置かれていなかった。何もない空間でひとりでに空気が振動し、彼が望む通りの音を奏でている。そんな不思議な光景にも一切驚かず、彼はか細く歌い続けた。
 歌は細く、しかし透明で美しく、聞く者が聞けば感嘆の声を漏らすほどの音色だ。
 彼はそんな歌声を紡ぐ自らの喉元に、そっと手を当てる。どんなに美しかろうが、素晴らしかろうが。ここから紡がれる声は、歌は、全て偽物だ。無意味だ。それでも、今は歌いたい気分だった。
 『そして本当の僕を、』
 愛して、と。
 ふつり、と音が途切れ、その歌を終えて、彼は部屋に設えられた時計を見た。もうそろそろ、会議が終わる頃だろう。
 彼らは来ただろうか。彼は、来てくれただろうか。そして、自分は生き延びられるだろうか。
 「鍵介」
 名前を呼ぶ。あの日、まだ仮想世界にいた彼の手を握った時のことを思い出す。胸に当てた彼の手は細く温かく、ああ、この手を、この子を守れるのならば、あの非日常に帰ろうと思えたのだ。
 あの子が、泥臭く恰好悪くても、生きるのだと、帰るのだと言ったから。なら、鍵介が生きるその世界は、やっぱり自分が守りたいと思えた。そしてその世界の中で、あの手を取って歩いてみたいと――バケモノにあるまじき願いを、夢見たのだ。
 帰宅部と鍵介の人生を大きく狂わせることになるのは分かっていた。世界の裏側、日常に潜む非日常の存在を知ることは、それだけで彼らを危険に晒す。だから、最後は彼ら自身に選んで欲しかった。
 ……神谷奏太という人間と関わり続けることは、彼らにとって、それだけの危険を冒すに足るか。それを考えてほしかった。
 賭けだった。自分というバケモノの価値を、一般人である彼らの価値観の皿にのせることは、それだけでとても勇気がいることだ。それでも、そんななけなしの勇気を振り絞ってでも、彼は、帰宅部と――響鍵介という男の子と、一緒に生きてみたいと思う。
 賭けの結果は、どうなっただろう。神谷奏太というバケモノの価値は、果たして彼らの中でどれほどの重みがあっただろう。あとは奏太にはあずかり知らぬこと。出来るのは、どんな結果も受け容れるだけだ。
 けれど、願いだけは抱き続ける。
 「あいたいよ」
 この地獄で、もう一度君と。