自宅主人公・日暮白夜。
カギP×主人公。
「世界が滅び始めた理由」
「間違い続き」
以上を前提とした、エンディング直前のカギ主です。
背後で、重い音を立てて扉が閉まった。その音を聞きながら、白夜は一歩、足を踏み出す。
こつん、と固い感触と音が返り、心地よく鼓膜を揺らした。視線を上げる。満天の星空に、星座のような幾何学模様が美しかった。
この場所には覚えがある。μが楽士のために用意した場所、今の、「彼」の居場所だ。
「こんにちは、先輩」
明るく、無邪気な声が、懐かしいトーンで白夜を呼んだ。白夜は夜空のような天井から視線を正面に戻し、声の主を見つめる。
亜麻色の髪に、甘い瞳。重さを感じさせない、軽やかな声色。あの日、あの時のままの「彼」が、楽士の舞台に立っていた。
「久しぶりですね」
「うん」
眼鏡の奥から覗く瞳が、いたずらっぽく、白夜に微笑みかける。白夜も、微笑み返した。
「会いに来てくれたんですか。先輩の方から、わざわざ」
「そうだよ。もう一度、鍵介に……ううん、カギPに会いたかったから」
言って、白夜は微笑んだまま、また歩みを進める。硝子のような感触の、宇宙を引き延ばしたような部屋の中を、一歩、また一歩と、確かめるように歩を進める。
カギP、と楽士の名前で呼ばれた彼は、嬉しそうに笑った。まるで、お気に入りのおもちゃを手にした子供のような笑顔だった。自分の手の届く位置まで歩いてきた白夜に手を伸ばし、抱き寄せる仕草からは、本当にそのままの感情が伝わってくる。
「また、辛いことがあったんですか? 忘れたいことが出来ましたか?」
白夜を抱きしめるカギPの声は優しく、無邪気で、屈託もなく。それが、白夜にはやはり、酷く懐かしく思えてならない。
耳元で彼は囁く。「あの日」と同じように。
「忘れさせてあげられますよ。今ならまだ。いや、『また』ですかね?」
ほっそりとした指先が、白夜の耳を撫でる。そうして、塞ごうとした。
何て心地いい感覚だろうと、白夜は思う。
すべすべした指先。何の痛みも知らない指。
この彼の指が、白夜の耳を塞ぎ、「すべて」を消し去って、真っ白な記憶に塗り替えてくれることを想像した。
それは、なんて気持ちのいいことだろうと思う。
白夜が黙ってカギPを見上げているからだろう。沈黙を肯定と取ったらしい彼は、嬉しそうに笑った。
「ううん。もう、いいんだ」
それを、優しく、拒絶する。
白夜の腕はまるで羽根のように軽く持ち上がり、何の躊躇いもなく、カギPの手を振り払う。
カギPが、眼鏡の向こうで目を見開いた。長い睫を瞬かせ、小さく息を飲む。
「ごめんね」
白夜が言った。それは謝罪の姿を借りた、追い打ちの拒絶だ。精いっぱいの笑顔と一緒に、それを彼にぶつける。それを言うために来たのだから。
あのとき。「忘れさせてくれ」と泣いた少年は、もういないのだと。それを伝えるために。
カギPは、楽士だった頃の鍵介は、白夜の言葉と笑顔にしばし言葉を失い、やがて、肩を落とした。
「なんとなく、こうなるような、気がしていました」
そして、苦々しくも、笑って見せる。その笑顔を見て、白夜の笑みにも少し苦いものが伝染する。
「あの日」のことは、まるで昨日のことのように思い出せる。
いや、残滓であるカギPには、本当に昨日のことだろう。現実に打ちのめされ、メビウスという理想の世界でさえ、安心して夢を見ることが叶わなかった少年。何度も何度も現実を思い出し、その記憶に怯え、最後は鍵介に全ての記憶を預けていった、「日暮白夜」という少年のことを。残滓の彼は、誰よりも鮮明に覚えているはずだ。
残滓は、永遠に今に留まる。そこから進むことはないのだから。
「ありがとう、カギP。俺を救ってくれて」
抱きしめられ、それを振り払った白夜は、今度は自分からカギPの手を取った。温かい指先と指先が振れ、軽く握られる。
甘いような、辛いような、不思議な痛みが、二人の胸を突いた。
「僕は、先輩を救えましたか」
「うん。確かに」
「でも、先輩が恋をしたのは『響鍵介』なんですね」
問いを重ねたカギPに、白夜は少しだけ間を置いて、しかしはっきりと「うん」と頷いて見せた。
そのあまりの明確さと容赦の無さに、カギPは思わず破顔する。
「あーあ。おわった。今、すっごいハッキリと振られましたね、僕」
好きな子に振られるのって、辛いですねと、なんでもないことのように笑い飛ばす。
だってそうするより他はない。最愛の人の心の中に自分がいないのだとわかったら、そうやって笑い飛ばすのが、一番傷が浅いのだ。
「もっと時間があれば、もっと一緒にいられたら。ずっと、そう思っていました。でも、そんな『もしも』は、『僕ら』にはないんでしょう」
残滓には今しかない。未来はやってこない。過去に間違えたのなら、間違えたまま、これからもずっと存在するしかない。
けれど、それも、もうすぐ終わる。この理想の世界ごと。
「現実に帰る『僕』が引き継いでくれるというなら……まあ、いい妥協点かな」
「響鍵介」がこの世界を壊し、現実へ帰って、白夜の手を取って歩いていくというのなら。
そう。それはきっと、これ以上ないくらい、いい妥協点だ。
「置いて行ってごめんね」
白夜が言った。その言葉に憂いはあれど、迷いはなかった。
「まったくです。この居心地のいい世界を捨てていくなんて、『僕』には理解できませんが」
「きっと、昔の『俺』がこの世界にいるとしたら、その『俺』も分からないと思うよ」
白夜は言った。カギPも頷く。
彼らは残滓。この世界に堕ちてきて、足りないものを与えられた自分たち、その時点の想い。想念、とでもいうのだろうか。
繰り返すが、なんにせよ、彼らに『未来』という概念は、きっとない。それが鍵介の残滓であろうと、白夜の残滓であろうと同じだ。
「でも、俺たちは帰るって決めたんだ」
白夜は力強い声で言った。
現実へ帰る理由や、決意の仕方は人それぞれだ。
けれど、『進む』という意思だけは同じ。それが帰宅部という集まりだ。
成果には対価を。達成には犠牲を。罪には罰を。
どんな物語もそうだ。全てを抱えたまま、先に進むことは出来ない。自分たちは進むと決めた。だから、メビウスという居心地のいい世界を捨てることを迫られた。
『μを殺さなければならないかもしれない』
そう維弦が言ったように。例え身を切るような痛みに苛まれようと、自分たちはμの愛情を弑し、メビウスを壊し、その対価として、あの地獄へ帰る。
きっと、現実に帰っても、自分たちの現実を変える魔法は存在しない。現実は、眠りについたときのまま。あるいはそれよりも悪くなって、自分たちに降りかかるだろう。
目を覚まし、そんな現実と対面したとき。ここで支え合った仲間はいない。いつか会えると信じてはいるが、そのときまではみんな独りだ。
けれどきっと、そんなのは、誰だって同じことなのだろう。
自分の未来という名前の、狭き門をくぐるとき。その決断をする瞬間だけは、誰もが独りだ。持って行けるのは、一緒に過ごした記憶という名前の、灯火だけだ。
しかしその灯火の、なんて尊いことだろうか。なんて優しいことだろうか。
「……どうやら、僕に王子様は荷が重かったみたいです」
冗談めかした言葉に、白夜は少しだけ俯いて、肯定も否定もしなかった。
カギPは、そのまま、少しだけ背伸びをして白夜に顔を近づける。
そっと。労わるように、唇が一瞬だけ、触れた。
「ありがとう、白夜」
そうして、カギPだった頃の呼び方で、白夜を呼んだ。白夜は少しだけ驚いたように目を見開いたが、それだけで、苦笑してみせる。
しょうがないなあ。そんな風に笑ったように、見えた。
本当に綺麗なひとになった、と、カギPの鍵介は思う。カギPだった頃、彼はこんなに複雑に、鮮やかに笑う人ではなかった。
恋をすると人は綺麗になるというけれど、もしそうなら、彼を綺麗にしたのは「自分」なのだろうか。
いつもぼんやりと、空想の世界を見つめていたあの彼が、今は目を輝かせ、現実へ向かって歩き出す。それはとても素晴らしいことで、価値のあることに思えた。
「さよなら、ですね」
けれど、自分はさよならを言う側だ。隣を歩くことは出来ないのだ。だって自分には、未来がないから。
それが今は、ただ、悔しくて、悲しくて。
重い音が再び響くのを、聞いていた。白夜の背後で扉が開き、その先に、自分と全く同じ姿の、けれど、もう全く違う「響鍵介」が立っているのが見えた。
「さあ、先輩の王子様が来ましたよ」
もう一度、冗談めかして言う。白夜は晴れやかに、もう一度、最後に笑ってくれた。
白夜は踵を返し、「響鍵介」の方へと歩き出す。軽い音を響かせ、カギPである鍵介から遠ざかる。
ありがとう。ごめんね。だいすき。
――さよなら、理想のあなた。