第3話。
蒔苗くんがパピコにいくそうです。
やっと笙主の気配がほんのりと。
「もう一人の自分と生きていくというのは、なんとも楽なものだな」
父がそう言っていたことをふと思い出した。
思考も、嗜好も、なにも探らなくていいからと。
もうひとりのじぶん。
俺は、父が画面の中に写した彼自身だった。
ふたりの関係はそれ以上でもなく、それ以下でもなく。
* * *
「蒔苗部長、今日は息抜きしましょう!」
ある日、いつものように皆に招集をかけた部室の中心で、帰宅部員・篠原美笛は叫んだ。
机に両手を付き、細い身体でめいっぱい机の上に乗り出す。
相手はこの部活の部長である蒔苗実理だ。
「……どうして?」
しかし、たっぷり数秒の間をおいて、ようやく帰ってきたのはそんな素っ気ない一言だった。
がたーん! と派手な音がして美笛は机の上へダイブする。
「み、美笛ちゃんー!」
鈴奈が慌ててそれを抱き起こし、赤くなったおでこをさすってくれた。
やはり手強い。しかし、ここで退いてなるものか。美笛はそうみずからを鼓舞すると、すっくと立ち上がった。
「部長、わたしたち、ここ最近ずっっっと部活にいそしんでます!」
「そうだな」
「それはもう、全国大会にでも出るのかってくらい、頑張ってます!」
「帰宅部に全国大会というものはないけれど」
「そ、それくらい頑張っているっていう『たとえ』です!とにかく!」
もう一度美笛の手が机に叩きつけられた。
「部長、わたし、遊びたいです! 青春を謳歌したいです!」
そこでまた沈黙が落ちた。しかし、実理の目は先ほどより僅かに見開かれていて、かろうじて彼が今、驚いていることを教えてくれている。
相変わらず表情が乏しい少年だ、と美笛は思った。
以前誰かが彼のことを『ロボットみたい』と言ったことを思い出す。自分の言葉が果たして彼の心を揺さぶれているのか、いまいちわかりにくい。
だがきっとあと一押しだ、がんばれわたし。そう言い聞かせ、美笛はさらに続ける。
「だから今日くらいは、オフってことにしてみんなで遊びに行きましょう!」
言い切った。その達成感にしばし酔う。あとは野となれ山となれだ。
実理はやはり目を僅かに見開いたまま、答えに詰まっているようだった。
「でも、みんな早く現実に戻らないと……」
「いいじゃねえか、たまには」
そして、やはり否定の言葉を紡ごうと開かれたその口を、別の声が遮った。
隣にやってきたのは、元部長の佐竹笙悟だ。
「根を詰めすぎるのもよくないだろ。今日くらいは息抜きしても良いと思うぜ。それで次の活動に力が入るかもしれないだろ」
意外な援軍だった。美笛の顔が輝く。そしてそれを皮切りにほかの部員達もそれに賛成していった。
そうして気が付けば、反対派は実理ひとりだけになっていた。
「……わかった。じゃあ、今日は、『おふ』で、息抜き……」
生まれて初めて学んだ言葉を口にするように彼が言う。
それを合図に、美笛の「やったー!」という悲鳴に近い声が部室に響き渡った。
それからは流れるように予定が決まった。
一旦解散して、各自自宅で支度をすること。行き先はパピコにするなど、女子を中心に次々と案が出る。
久々の息抜きに、リアクションの大小はあるものの、全員が心を躍らせているようだった。
「……?」
ふと、笙悟はそれを見守る実理に目をやった。
「…………」
そこにあるのはいつもと同じ仏頂面だ。先ほどは美笛の勢いにすこし驚いていたようだったが、それも今はすっかり元に戻っている。
長いまつげの向こうにあるその朝焼色の瞳はまるで硝子玉のように美しく、それでいて無機質で、悪く言えば底が知れない。
いくら言葉を交わしても、心の底が見透かせないのがこの蒔苗実理という少年だ。
だがそのうかがい知れないはずの表情が、今は僅かに翳っている気がした。
視線に気付かれていないのを良いことに、じっと見つめる。
まるで硝子球に光が反射するように、ほんの僅かだけ、ゆらゆらとその瞳が揺れていた。
なにかに戸惑っているような、それとも恐れているような……そんな表情だ。
しかし、どうして部長の顔にそんな表情が張り付いているのか、そのときの笙悟には判らなかった。
***
そして次に見かけたとき、蒔苗実理は所在なさげにパピコの入り口で立ちつくしていた。
「ま、蒔苗くん……なんで制服のまんまなの……」
取り決め通り一度解散してから集まったはずなのだが、なぜか彼だけは制服のままだった。
鳴子が愕然とした声と表情で思わず突っ込むと、実理は少しだけ目を泳がせてから小さな声で答える。
「これ以外、持っていなくて」
「んなわけあるかー! 昔の漫画か!」
綺麗にツッコミが決まったものの、それで服装が変わるわけもない。
「ごめん……」
表情に乏しい部長が、珍しくばつが悪そうに眉根を下げた。
『しょんぼり』という擬態語がぴったりのその様子に、鳴子は慌てて「冗談だって」とフォローを入れる。
「まあ、本人がそれでいいなら、構わないんじゃない?」
微笑ましそうに琴乃が笑う。どうせ学校帰りにここへ立ち寄る人間はみな制服姿だ。
ようはみんなで楽しめればそれでいいのだからと、大人な意見が場を和ませた。
「よーし、では行きましょうー! 今日は思いっきり楽しみましょうね!」
目一杯のオシャレをしてきたのだろう、顔を紅潮させながら、美笛が張り切ってそう宣言する。
それに追従するメンバーもいれば、苦笑しながらも見守るように付いていくメンバーもいる。
この部の人間は皆個性が強い。メンバーが増えた今もそれだけは変わらない。
(でも、コイツは一段と、だな)
ちらりと、隣を行く実理を見る。
彼は帰宅部の活動中以外の行動が全て謎で、部員との関係づくりも、特別上手いわけではない。
それどころか、時々ズレた発言の所為で仲がこじれていたりもする。元・部長である笙悟が取りなしたことも少なくはない。
だがそんなマイペースさが功を奏してか、どんな場面でも決断に迷いはないし、感情に流されずに部員を導く力には長けていた。
戦闘においての集中力や、戦略の建て方も緻密で安心できる。
実際、彼が部長になってから帰宅部の活動は急速に前進していた。
それこそ少し前までは夢物語だった『現実へ帰る』という悲願が、現実味を帯びてくるくらいには。
(『早く現実に帰らないと』か……)
すべては彼が現れてから動き出した。まるで、帰宅部に足りないピースを埋めようとするように。
もしかして彼は『帰宅部を現実に返す』ために自分の前に現れたのではないか。
さすがにそれは考えすぎか、と苦笑を漏らした。だが、それくらいあの出会いは笙悟たちに都合が良すぎたのも事実だ。
確かに蒔苗実理は『帰宅部の部長』として必要なものをあらかじめ持ち合わせている。
けれどその代わりに、それ以外のものをごっそりとどこかへ置いてきてしまったのではないか。
実理を見ていると、ときどき笙悟はそんな考えに囚われてしまうのだった。
「僕はときどき、彼がデジヘッドのような存在なんじゃないかと思うことがあります」
鍵介が帰宅部に入ったばかりの頃、そんなことを言われたことがあった。
「なに言ってんだ。そんなことは……」
「わかってますよ。僕が言いたいのは、先輩の行動には迷いがなさ過ぎてちょっと怖いなってことです。まるで、誰かの命令を忠実に守っているみたいにブレがない」
眼鏡の奥で、元楽士の鋭い目が自分の目を見つめていたのを思い出す。
「誰かって……誰だ?」
その視線に耐えかねるように問いを返した。だが、返ってきた表情もまた、戸惑いと困惑のそれだった。
「それは僕にもわかりませんよ。ただ『そういう印象を受けた』というだけですし」
蒔苗実理の裏には、糸を引いている第三者がいるかもしれない。
彼が暗に提示していたのは、つまりそういうことだ。
それは、笙悟自身にも確かにあった予感だったが、今まで決して口に出すことはなかった。
「俺が、必ずみんなを現実に返すから、安心してほしい」
帰宅部の新部長に任命されたあの日、実理は迷いのない視線で全員の顔を見てそう言った。
それは使命に燃える人間の目だった。大役を前に、あの無機質な瞳が興奮の色をはらんでさえいたのを覚えている。
その誠意を裏切るような真似ができるはずもない。少なくとも、蒔苗実理は今日まで部長として全力を尽くしてくれている。
だが、それゆえに。
笙悟が彼に部長を任せたことは、実理にとっても寝耳に水のはずだ。実際、鼓太郎ほどではなかったがほかの部員からも戸惑いの声が上がっていたのを覚えている。
なのにまるで彼は、それを見越していたように動揺することなくその任を受け入れたのだ。
予想通り……いや思惑通りだとでもいうのか。
だとすれば、誰の?
「……まあ、忘れてください。先輩、楽士だった頃の僕に容赦なかったですし、ただの被害妄想ですよ」
険しい顔をした笙悟に気を遣ったのか、鍵介はそれ以来その話を振ってくることはなくなった。
* * *
「わあ、このピアスかわいい!」
「あら本当ね。この色、私好きだわ」
「ほんとだ。琴乃先輩に似合いそうですね」
そんな笙悟の不安はつゆ知らず、女性陣はテンション高めにショッピングを楽しんでいるようだった。
きらびやかなアクセサリーショップを見掛け、足が自然と止まる。
メビウスの店はひやかしを気にしたりはしない。しばらくはここに釘付けになるだろうなと、肩をすくめた。
「俺は赤だな! ヒーローといえば赤だろ!」
「鼓太郎先輩は単純だなあ」
なんだかんだで男子も楽しんでおり、男性用のアクセサリーを手にとったりしておのおの楽しんでいるようだった。
もともと、今日の目的は気分転換だ。効果としては上々というところだろう、と小さなため息が出る。
笙悟自身はそれほど装飾品に興味はないので、足は自然と店から離れた場所へと向いた。
店の正面が見えるところにちょうど寄りかかれる柱があったので、そこに背中を預けて部員達の様子を伺う。
しかしそこで、部員の数がひとりぶん足りないことに気付いた。実理の姿がないのだ。
きょろきょろと辺りを見回してみるが、他の店にも制服姿の少年は見あたらない……が、最後に視線を下に向けると、あっさりとその姿を見つけることができた。
「……お前、そんなところでなにしてるんだ?」
「……」
実理は笙悟の寄りかかっている柱の側で座り込んでいた。そしてそこから、同じように店ではしゃぐ帰宅部たちを見ていたようだった。
「おまえはいいのか? せっかくなんだから、なにか好きなモノ見てくればいいじゃねえか」
しかし、そう声を掛けても実理は俯くばかりで答えない。
「……笙悟。『好き』ってなんだろう」
「は?」
いきなり、足元からそんな言葉が飛び出してきて、思わず笙悟は間の抜けた声を上げた。
「みんな『好き』な色や好きなものがあるんだって言ってた。それでさっき、『部長の『好き』なモノはなに?』って聞かれたんだけど……」
ゆっくりと実理が立ち上がり、膝の埃を払う。目線が近くなると、ちょうど彼の朝焼け色の瞳がよく見えた。
彼の目を見つめるたびに不思議な気持ちになった。典型的な日本人であれば、あんな色の目を持つことはまずない。
「そんなもの俺にはないから、どう答えたらいいかなと思って」
彼はそういうと目を細める。それは酷く達観したような、しかし同時に幼い子供がなにかに迷っているような仕草だった。
「……」
そんなもん、俺が知るか。
心の中の第一声はそれだった。
それがそのまま口をついて出なかったのは、佐竹笙悟という人間がある程度、人の機微を汲める人間だったからだろう。
そんなもの俺にはないから。
そう言って遠くを見つめる実理の表情は、ひどく悲しそうに見えた。
いつも能面のような、感情の読めない顔ばかりしている少年のこんな顔をハッキリと見たのは初めてだった。
まるで、誰かの命令を忠実に守っているみたいに────。
そして鍵介の言葉も蘇る。
『彼の後ろには誰かがいる』。それが真実だと断じるのはまだ早い。
けれどいつもの……帰宅部の活動を行っているときの実理は、もっと決断力があって冷徹な人間なはずだ。
それが今、目の前で不安げな表情を浮かべている少年のイメージとどうしても重ならない。
思えばこの『息抜き』の話が決まったとき、彼は同じような顔をしていた。まるで親に突然手を離された子供のような。
(もし、コイツの裏に誰かがいたとして……今はそいつの命令では動いてないってことか?)
そんな想像が頭を過ぎった。
そして同時に、所在なさげに立ちつくすこの少年が突然哀れに思えてくるのだった。
「なんて言っていいかわからんが……自分の好きなモノがなにかなんてそんなに深く考えるようなことじゃないだろう」
結局、最初に浮かんだ言葉をそのまま投げつけることを笙悟はしなかった。
代わりに口をついたその言葉に、実理はじっと聞き入っている。
その顔がまるで授業を聞く生徒のように真剣なので、思わず笑みが浮かんでしまった。
「ないなら手当たり次第に試してみたらどうだ? ほら、みんな移動するみたいだぞ」
そう言いながら、視界に映った美笛を指さす。みれば、頬を紅潮させた彼女が一生懸命に手を振っていた。
「せんぱーい! みんなでおやつ買いに行きましょー!」
その手にはいつの間に買ったのか、それなりの数の紙袋が下がっている。
「ほら、いくぞ」
「うん」
駆け寄ると、後輩の少女は大きな目をさらに大きく輝かせながらある店を指した。
「あそこのお店のチョココロネ、すっっっごく美味しいんですよ! いきましょう!」
言い終わるより前にきびすを返し、店内に飛び込んだ美笛は、言ったとおり真っ先にチョココロネのある棚へ向かう。
「美笛ちゃんはホントに好きなんだね」
「えへへー。もちろんチョココロネ以外も好きなモノいっぱいだけど、やっぱりこれが一番美味しいんだよね~」
鈴奈が少し呆れたようにいうのも気にせず、お目当てのものをトレーに2つも乗せる。
と、そこで後ろから視線を感じて振り返ると、そこにはやや居たたまれない表情の部長がいた。
その視線の先には美笛の手元……チョココロネの乗ったトレーがある。
「……部長もチョココロネ食べます?」
何度かチョココロネと実理の顔を往復して見つめたあと、美笛はぱあっと顔を輝かせてそう提案した。
驚いたのは実理の方だ。ぎょっとして一歩後ずさるが、その手を美笛ががっちりと掴んでしまう。
「よし、買いましょう部長! このチョココロネの味なら、青春の謳歌の価値を部長にも理解させてあげられるはずですっ!」
気が付くと実理の手には、美笛の手にあるのと同じ、甘い匂いのするパンが握られていた。
「ほらほら、食べてください! きっと部長の今まで食べてきたどのチョココロネにも負けないおいしさですよ!」
「……ちょこ、ころね」
なぜかオウム返しに呟くと、彼はおっかなびっくりといった様子で一口、柔らかいパンを囓ってみせた。
柔らかい感触が口に広がり、破れたパンの中から甘いチョコレートが舌に触れる。
「甘い」
無意識に、思ったままを口にした、という感じだった。美笛はそれを聞いて満面の笑みを浮かべる。
「でしょう!? とっても甘くて美味しいんです!」
その言葉にこくりと頷くと、実理はそのまま二口、三口とチョココロネをかじり続けた。
「……おいしい」
そして全部食べ終わったあと、小さな、しかし確かな声でそう呟く。
その口元がかすかに笑っているように見えて、笙悟は思わず目を見開いた。
「……『好き』か?」
そして、無意識にそんな質問が口をついていた。美笛と実理が同時にこちらを振り返る。
視線が痛い。だが、答えが聞きたくて二の句が継げない。
やがて、実理は瞬きをひとつだけしたあと、それに答えた。
「うん、たぶん。でも、これが好きってことでいいのかな」
不安そうな顔に、思わず吹き出す。
「だから、そんなに難しい顔するな。食い物の好き嫌いなんて、『もう一回食べたいと思うかどうか』くらいの判断基準でいいだろ」
そう言うと、実理はとたんに『うーん』と考え込んでしまった。
「……もう一度、か。それには……ちょっと甘すぎるかも」
「そんなあ!」
彼としては率直な感想だったのだろうが、このチョココロネの大ファンである美笛には残念な結果だったようだ。
しかし、その大げさな反応が可愛らしくて、その場にいる全員が思わず笑顔になる。
「むー。じゃあ、次は先輩が絶対に『好き!』って言うようなものをご馳走しちゃいますから、覚悟しといてください!」
世の中、甘いお菓子ばっかりじゃないんですよ! と言いながら、美笛はさっそく立ち直ってにこりと笑った。
「……次の『息抜き』の予定が決まっちまったな?」
「え……」
笙悟がいたずらっぽい表情で実理をみやると、実理は何故かきょとんとして、チョココロネの影に隠れようとするように肩をすくめる。
「そうだ、なら一緒に服も見に行っちゃえばいいんじゃない? 制服以外持ってないんでしょ?」
言葉を聞かずにひょこっと現れたのは鳴子だ。そうしていつの間にか、次の『息抜き』はどうしようか。いつにしようかという話題がその場に溢れる。
しかし、今度は実理の表情は翳らなかった。相変わらず少し居心地悪そうに、恥ずかしそうにはしているが、話を振られると小さく頷いたりしている。
それを見て、笙悟はいつの間にか自分が笑っていることに気付いた。思わず口元に手をやってそれを隠す。
(『お互いのことに踏み込むな』って部員連中には言ってるのにな……)
自制の心が働いた。
このメビウスには、現実から逃げてきた人間しか存在しない。その心に踏み込むことは、その心の闇を共有するということだ。
ここにいる人間は皆、自分のことだけで精一杯なのだ。一見、他人に与しているように見える人間も、その代わりに自分の何かを犠牲にしている。
創造主の意志に反抗し『現実へ帰る』という目的を掲げる帰宅部の道は、はっきり言って険しい。
目的のために手を結ぶのは良い。だがそれによって互いに近づきすぎて、何かが裏目に出ることを笙悟はずっと恐れてきた。
実理の後ろに、帰宅部とも、μや楽士とも違う別の意図をもった人間がいる。それが証明されたわけでも、否定されたわけでもない。
もしかしたら、この先に進み続ければ見なくても良い何かを見てしまうことになるのかも知れない。
(でもまあ、アイツがこのままの場合は帰宅部の活動に支障が出かねないから……)
仕方がないんだ、と自分で自分に言い訳をして、彼は思考をそこでうち切った。