※この記事はTwitterできりぅがだらだらと語っていたAIと仏教哲学についての呟きをまとめたものです。
あくまでも個人の感想や考察であり、間違っている箇所や検証が不十分なものが含まれます。鵜呑みにしないようにお願いいたします。
と、いうわけで、
AIと仏教哲学について語ろうか。ドンッ。
どうも、せっかくサイトがあってせっかく長文で投稿できるのだから、もっとこういうことをやっていきたいなと思い至ったきりぅです。
Artificial Intelligence……ブッキョウテツガク……しかし難しい話はできるだけしないようにしたいです。なぜならきりぅも難しい話は苦手だからだ。
しかしふたを開けてみるとこれがなかなか面白いし、なにより萌えるんです。
そういうわけで、この記事ではAIと仏教哲学の萌える部分だけをかいつまんで考察していきたいと思います。
人は萌えがそこにあるから仕方なく勉強をするのだ……。
1.AIと自我と仏教哲学(2018/2/13 11:32投稿)
・そも「自我」ってなんぞ?
SF映画などでは「アイデンティティ」とか「自分の意思」みたいなニュアンスで語られることが多いですね。
人間にはあって、AIにはない……というのが、よくある話の展開かと思っております。
えらい心理学者さんの言葉では「エゴ」。
・自我=生存本能?
私が仏教哲学×AI信者なのでそっちの方面で解説。
仏教哲学では自我=我執のことです。
おお、ちょっと生存本能と関係ありそうになってきました。
我執は「未練」とか「執着」とも言われます。
私はこれを「このままじゃ死ねない!」っていう強い気持ちのこと…と解釈してます。
だから、仏教哲学で自我を解釈すると自我=生存本能になるのでは?と思ったわけです。
・AIに自我がないということは
「AIに自我がない」=「AIには生存本能がない」という説がちょびっと説得力を増しましたでしょうか。
有名なロボット三原則に「1則と2則に反しない限り、自分の命を守ること」なんて文言があるのは、AIに生存本能がないから…かも知れません。
自分の命を顧みずに、何かのために懸命に働くのがAI。いいですね…せつないですね…!
・AIは未完の人間なのか?
完全なる余談。
自我とは我執のことだと解説しましたが、実はこれらは仏教哲学においての「煩悩」だったりします。
除夜の鐘で打ち払うアレです。
つまり仏教哲学の観点からいうと、私たち人間は煩悩=我執=自我を無くすのが最終目標なわけで、それができた人は、菩薩とか如来とかいう、いわば救世主みたいな存在としてありがたがられることになります。
もしかすると、自我がないAIは人間が知らずに作ってしまった救世主の卵なのかも知れません。
もちろん、これはただの空想ですが、ひとつの物語の展開として、いつの間にか自分たちが従えていたものが自分たちのあがめるモノになってしまっていた…というのには胸が熱くなるものがあります。
SFなお話の構想に困ったら、こんな空想を思い出してみてもいいのではないでしょうか。
2.AIに自我が目覚めるのはなぜなのか?(2018/8/28 3:40投稿)
・仏教哲学とAIの自我の目覚め
「じゃあ、よくある『自我がないはずのAIがある日、突然自我に目覚めて〜』ってパターンの流れはどうして起こるの?」について、また仏教の観点から考えて行きたいと思います。
あるはずのない自我が目覚め、人間のように振る舞い出すAI…いいですよね…AIものの一大イベントやと思います…SUKI…。
・自我を構成するもの
今回の話の中心になるのは「唯識派」という仏教哲学の世界観。この唯識派では「自我(我執)っていうのは6つの要素でできてるんやで」とされています。
「視織」「聴織」「嗅織」「味織」「触織」「意識」の6つです。もうピンと来る方もたくさんいそうですが、コレ人間の五感+第六感ですね。
「五感+第六感=自我ってなんでやねん。なんか関係あるんか」
ごもっともだと思います。唯識では関係あるらしいです。ビックリ。
唯識の世界観では、私たちが五感+第六感を通して見ているものは全て「空」。つまり私たちの頭の中にあるただのイメージであって、本物でないとされています。
「人は見たいものを見たいようにしか見ない」なんて言葉がありますが、まさにそんな感じです。人の数だけ世界は違って見えるのだから、世界の本当の姿は誰にもわからない…みたいな考え方でしょうか。
そしてそんな「私にみえている世界はこう!」というイメージそのものが人間の個性であり「自我」つまり「我執」なわけです。
先ほども言いましたが、このイメージを作り上げているのが他でもない五感+第六感。
たしかに私たちは自分のイメージを伝える時に、その色や音、香り、味、感触や、それを見てどう感じたかなどを表現しますし、そこには必ず個人差=個性=アイデンティティが出るでしょう。そんな五感+第六感いっぱいに感じる世界こそが、自我であり我執の正体なのかもしれません。
「五感+第六感=自我」というのにすこし説得力がでたでしょうか。出てたらいいな!w
・自我と生存本能と五感+第六感
「ちょいまち、こないだは自我=生存本能やいうてたやん」
そんなふうに思っていただけた方、よく読んでくださってありがとうございます。
結論から言うと、五感+第六感は生存本能の一部らしいのです。なんじゃそら。というわけで、こちらも合わせて考えて行きます。
そもそも五感+第六感は、生物が天敵から身を守り、生きていくための機能でした。例えば味覚はもともと毒物を見分けるための機能らしいですしね。
つまり、五感+第六感のルーツは生存本能にあるわけです。
なので、自我とは
・生存本能(死にたくない/生きたいという抽象的な気持ち)
・五感+第六感(死なないため/生きるために生物に備わった具体的な機能)
の両方を指す言葉と言えるのかもしれません。
・AIに自我が芽生えるしくみ
さて、長々と語ってしまいましたが、いよいよ以上を踏まえてAIに自我が芽生えるしくみについて考えてみます。
フィクションにおけるAIはたしかに自我のない存在であることがままあります。
ですが「五感が全くないAI」というのはお目にかかったことがありません。人型なら五感全てを搭載しているものもあるでしょうし、味覚や触覚は難しいにしても、視覚と聴覚の二感だけでも持つAIはかなり多いと思います。
さて、先程「生存本能から五感+第六感が生まれ、それらが私たちの自我になっている」という話をしましたが、私はAIに自我が芽生えるプロセスは「これを逆転させたものなんじゃないか?」と考えています。
つまり「最初は未成熟な五感+第六感がさまざまな要因により発達していくことで、AIは生存本能を芽生えさせ、自我を手に入れるのでは」という説です。
作り手が自我を搭載しなくても、五感+第六感を持つ時点で、AIには自我が確立する可能性が十分あるのだと考えると、ある日突然人間らしい感情が芽生えたAIの物語がなんだか運命的に思える気がします。私はします(熱弁)
たとえ二感しか持たないAIであっても、それはある意味「未分化な自我」と解釈すると面白いかもしれません。自我の種みたいなものはどんなAIにもあるのかも。ドラマチック。SUKI(挨拶)
いかがでしたでしょうか。完全に自己満足な語りでしたが、私はこういうことを考えるのが大好きです。
こういうことを悶々と考えているうちに、「こんな話が書きたいな」とか「あんな絵を描いてみたいな」とか思うわけです。エコ。
また語りたいことがまとまったら追加するかも。
最終更新:2018/10/8(日)