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Game Over

Posted in Caligula-カリギュラ-, and テキスト

「おわり」。琵琶主7話。主人公=小鳥遊和詩です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もうすぐ全てが終わる。
 誰がいうでもなく、しかし誰もがそれを察していた。最初はささやかだった帰宅部と言う名の反逆の芽は、さまざまな運命と思惑の水を吸い上げ、あともう少しで「現実への帰還」という目的を大成させるだろう。
 そんな節目のときに、足が向いたのはやはりあの場所だった。
 夕日を浴びたカーテンが靡き、静寂に包まれた音楽準備室。帰宅部の部室としての歴史はほんの数ヶ月だけのことだったというのに、一歩足を踏み入れれば、あちこちに部員たちの痕跡が見て取れた。
 彼は、その一番奥で待ち構えていた。どこの教室から持ち出したのか、机を挟んで二つの椅子を向かい合わせた、それは即席の対戦テーブルだ。
 今日、机に広げられていたのはチェスだった。それがなにかの暗示であることにはすぐ気づいた。

“どうしていつもひとりでチェスをしているんだい”

 あの日、琵琶坂がそう問いかけたことがはじまりだった。それとほぼ同じシルエットが目の前にある。
 ただ一つ違うことは、和詩はチェス盤を眺めるばかりで、駒に触れる気配すら見せていないことだけ。
 彼は背筋を伸ばし、瞑想するようにただじっと盤面を見つめているだけだ。それはまるでなにかを待っているかのようにも見えた。
「琵琶坂先輩」
 戸を開けたところで立ち止まってしまった琵琶坂に、彼は……小鳥遊和詩は軽く笑ってみせた。
 心地よい風がカーテンを揺らし、夕日に表情が生まれる。それはやはり、あの街で彼を追いかけていたスポットライトを思い起こさせた。
「こんな日にもゲームかい。まったく君は最後まで変わらないね」
 やれやれ、という仕草をした。呆れたのは本当だ。
 もうすぐ全てが終わる。そんな日に「いつもどおり」ができる人間はそう多くない。けれどこの二人に限っては例外だった。
「先輩こそ、いつもどおりここに来たんじゃん。お互い様だろ」
 打てば響くような答えだ。そんなやりとりが心地いいと感じる自分は、きっともう重症なのだろう。
 自分も彼も、怖いくらいに落ち着いていた。明日が決戦だとわかっているのに、ちっとも感慨深さなど湧いてこなかった。
 あるいは、怪物というものは皆そうなのかもしれない。
「座って」
 ふと手を差し伸べられる。その白い手が、琵琶坂に席を勧めていた。
「……」
 迂闊にも、視線が泳いだ。
 思えばいつも琵琶坂は和詩の言葉を聞くより先にこの席に座っていた。まるで新雪を踏み荒らして遊ぶ子供のように、この場所が和詩にとって大切で、不可侵の聖域だと知ってなお……いや、だからこそ喜々として蹂躙しようとした。
 その傲慢な行いに、和詩も初めは牙を剥いた。幾度も言葉を重ね、琵琶坂が好敵手の地位を得たあとは看過していたが、それでも決して進んで「座ってくれ」と言い出したことはない。
 その彼の視線がもう一度「座って」と促した。戸惑いを察されたようで苛ついたので、琵琶坂はやや乱暴にその椅子に腰かけ不遜に足を組んでみせたが、和詩はそれをむしろ嬉しそうに眺めていた。
 指が、そっと労わるようにチェス盤に触れる。
「このまえ話したよな。俺の友達の話」
 ひどく落ち着いた声で彼は語り始めた。それは、あのゲームセンターで出会った相手との過去についてだ。
 といっても、付け足すことはほとんどない。
 世界大会の国内予選。和詩はやむをえない理由で棄権を選び、それを嗤った男の挑発に耐えられず、暴行に及んだ。そしてそれを止めようとした友人を巻き込み、結果として二人の重傷者を出した。
 それはこうして過去として語ってしまえば、あまりにあっけない出来事だ。
「ふたりは俺が殴ったせいで対戦できなくなったんだ。友達とも、それ以来、当然会うこともなくてさ……この対戦の続きもずっとできないまま」
 視線が琵琶坂へ向けられる……いや、きっと彼が見つめているのは琵琶坂ではなく、今彼が座っている席へ向けられているのだろうと察した。
 この席は、小鳥遊和詩にとって忘れられないその友人のものなのだ。空席に見えるのは見かけだけで、今もかの幻影がずっと座って、和詩とゲームを続けている。そんな予感はやはり間違いではなかった。
「俺なんかよりずっと強いやつだった。そいつの未来を、その時ただ虫の居所が悪かっただけの俺が奪った……それがずっと負い目で、二度とそんなことにならないように必死だった。だから『怪物』が出そうになったときはこの盤面を組みなおして、その後悔を忘れるな……って、自分に言い聞かせてた」

 回想する。
 誰かとの対戦を再現した盤面と、ひどく苦しそうな顔でこのチェス盤に向かう彼の姿を見た日のことだ。
 この椅子に本来座っていた人物と重ねられ、代わりにされていると気付いたあのとき、激情に任せ口づけたことをまだ鮮明に覚えている。
 物語をひも解くように、その一つ一つに答え合わせをするように、回想する。
「ずっと負い目だった?」
 はっと、和詩が顔を上げた。今度こそ琵琶坂本人と目が合い、互いが互いの視線に魅入られたように動けなくなる。
「それは違う。君がそんな殊勝なことを考えたわけがない」
 ゆっくりと時間が動き出す。
 滲むように、浮かぶように。あるいはつぼみがほころぶように。
 そして和詩の世界には琵琶坂永至という人間が現れた。
「……ああ、そうだな。本当はあいつの未来を奪った負い目なんて、俺は感じてなかった。たぶん今も、そしてこれから先も感じないんだろう」
 声が震えていた。ゆらゆらと、琵琶坂のことを見つめる怪物の目が揺れている。
 お互いに全く同じ種類の生き物であるがゆえに、その思考を隠すことは困難だ。
 俺はそういう生き物なんだよ、と、和詩は告白した。それはかつて琵琶坂が和詩に言った言葉の再現だった。
「ただ、強い相手と戦えなくなったことだけは後悔した。だから、二度とこんなことにならないようにしたかったのは本当だ」
 まっすぐに琵琶坂を見つめる目に、やはり嘘はない。
「ああ、わかっているとも」
 だから、あの日ゲームセンターで目を覚ました怪物は、琵琶坂を襲わなかった。血走り、暴虐の限りを尽くそうとしたあの瞳が、自分を見たときだけは理性を取り戻し安堵した。あの瞬間のことを思い出すと、またほんのりと気分が高揚する。
 ふわりと風が変わり、カーテンが一瞬だけ二人の視界を遮った。
「それで、君はそんなつまらない自分語りをするためにこんな場所で僕を待っていたのかい?」
 不敵に笑う。足を組み替え、挑発的な言葉を投げつける。
 和詩はそれに苦笑して見せた後、小さく首を横に振った。
「いいや、それだけじゃない。なんていったらいいかな……説明するの難しいんだけど」
 チェス盤を見つめるその瞳はたしかに怪物の色をしているのに、どこまでも優し気で感情豊かだ。その不思議な魅力に、無意識のうちに視線が吸い込まれる。
 そしてカーテンを揺らす風がまた穏やかになり、夕日が再び二人に降り注いだ。
「先輩にとどめを刺してほしかった……みたいな?」
 ようやく言葉を見つけた、というように和詩は言った。まるで愛の告白をするような、甘く甘い声音だった。
 沈黙が落ちたのは、その言葉の意味を琵琶坂がかみ砕くだけの時が必要だったからだ。それでも、彼がにやりと値踏みするような笑みを浮かべるまでにそう長い時間は要さなかった。
「……なるほど。この盤面の続きを僕に指してもらいたいと、そういうことだね」
 いいのかい?と問いかける。
 気を使ったわけではない。琵琶坂はそんな殊勝な人格をしていない。
 これは、例えるなら死ぬ前の人間に「なにか言い残すことはあるか」と問いかけるのに似ていた。
 ずっとこの席を……小鳥遊和詩の好敵手という立場を、その幻影から奪い取ってやりたかった。塗りつぶしてしまいたかった。
 けれどその願いがまさか、和詩自身から差し出される形で成就するとは考えていなかった。
 チェス盤に目を落とす。ようやく序盤の定石を終え、白が……和詩の色の駒がやや劣勢な形にみえる盤面だった。
 まるで、裁きを待つ罪人のように。
「ああ、先輩に指して欲しい」
 和詩はそう言って柔らかく微笑んでいた。

 

***

 

 対戦は思ったより長引いた。白のやや劣勢から始まったとはいえ、チェスは一度のミスが容易に大敗へ繋がるゲームだ。ゲーム開始時のハンデなど瞬く間にかき消え、盤面は接戦を描き始めた。
 互いに手心を加えたり、加えられたような手ごたえはなかった。そのうえでついた決着であれば、それがすべてだといえる戦いだった。
「……僕の勝ちだね」
 白いキングの喉元に確勝の剣を突き付け、琵琶坂は薄く笑って見せる。余裕を演出してはいるが、予断の許されない勝負を終えた後の疲弊はどうしても隠し切れないようだった。
 また和詩と目が合う。額に汗すら滲ませて、同じように微笑む顔がそこにあった。やたらと心臓の音がうるさいのは、勝ったという事実に脳が喜んでいるからだと言い聞かせた。
「うん、文句なしの完敗だ。いままででいちばん楽しかった」
 満ち足りた声だ。いつも気だるげで、楽しそうにゲームをするくせにどこか惰性が感じられた今までの彼とは何かが違っていた。
 椅子から立ち上がり、和詩の手が白いキングにかかる。そして、自らの手でゆっくりと倒される。それはチェスでの投了の証だ。
 コトン、と。木の触れあう軽い音のはずなのに、ひどく大きく聞こえた。弧を描いてチェスボードの上を転がるキングから、なぜか二人とも視線を外せなかった。
「……じゃ、帰るか」
 やがて、先に口を開いたのは和詩だった。いつもは丁寧に後片付けをして帰るはずの彼は、今日だけは駒にも盤にもそれ以上触れようとせず、出口に足を進める。
 自分たちがここへ戻ってくることは、おそらくもうない。
 だからなのだろうか。琵琶坂との最後の試合を、そのまま残しておきたいとでもいうのだろうか。
 それは未練を一つずつ断ち切る行為だった。まるで、もう二度と琵琶坂とは会えなくなるとでもいうような。
「待て」
 その手を引いた。軽い抵抗だけを残して、黒い髪の合間から勝気そうな瞳がいぶかしそうにこちらを見下ろしていた。
「約束は、守るんだろうな」
 口に出してから思い出した。いつか、琵琶坂に組み敷かれた和詩がこの言葉を吐いたことがあった。
 約束。あの海の向こうにある眠らない街でまた再会しようと、この場所で交わしたそれを忘れたことなど一度もなかった。
「……ああ、守るよ」
 静かに答えが返ってくる。だが、その声もどこかうつろで、確かに言葉で約束させたというのに、ますます不安を掻き立てるような色があった。
 だから、掴んだ手を放す気にはなれなかった。
 もうひとつ。もうひとつでいい、なにか保証を手に入れなければならないと琵琶坂のなかの声が叫んでいた。
「この僕が君の願いを聞いてやったんだ。こちらの言うこともひとつ聞いてもらう」
 口を突いて出たのはそんな言葉だ。和詩は不思議そうに首を傾げた。手加減なしで手を握っているはずだが、痛がる様子も嫌がる様子も見せない。薄々感づいてはいたが、どうやら怪物は痛覚が鈍いらしかった。
「現実の連絡先を教えろ」
 目を細める。まぶしかったからではない。その表情の変化を、一瞬たりとも見逃すまいとしたからだった。
 和詩は目を見張り、それから、数秒迷うようなしぐさを挟む。それだけで、彼が約束を守る気がないのを察するのは十分すぎた。
 ふざけるな、と心の中で唱え、強く手を引く。初めてキスをしたあのときのように。
「わ」
 また間抜けな声がして、少年が腕の中に飛び込んできた。反射的にもがくのを抑え込み、服越しに爪を立てるとさすがに低いうめき声が聞こえた。
「なにす、んぅっ……」
 文句が飛び出ようとするのを唇で塞ぎ、構わず蹂躙を始める。
 はじめはこの教室で。そして今ではベッドの上で、もう幾度も交わした行為だ。翻弄されつつも、和詩の反応はもうすっかり琵琶坂が教え込んだ通りのものになっている。それでも最後の抵抗のように、彼はしばらく腕の中でもがき続けていた。
(無駄なんだよ)
 心の中で嘲笑する。そんなことをしても無駄なのだ。なぜなら、小鳥遊和詩は琵琶坂永至を傷つけられないから。
 もうこの怪物は、絶対に食い殺したくない相手を見つけてしまった。
「ん……ん、ん……」
 ゆるゆると弛緩していく体を追うように、きつく抱きしめる。だが、本当はそんな必要がないことは耳元で聴こえる甘い声が物語っていた。
 抱きしめる力を慎重に抜いて、なだめすかすように軽く髪を撫でる。わざと音を立てて舌を吸い上げると、快楽のためか、はたまた羞恥のためかまた甘い声が上がった。
「……っは……せん、ぱい」
 気がすむところまで蹂躙し終えると、切なげな吐息を吐き出しながら少年は腕の中でぐったりと動かなくなる。琵琶坂はそれを見て満足そうに笑うと、追い打ちするように言葉を投げつけた。
「滑稽だな。そんなザマになっておきながら、僕から逃げようなんて思ってたのか」
 顔は見えないが、和詩が息を飲むのがわかった。今は少なくとももう逃げようとは思っていないようで、それには少し……ほんの少しだけ、安心する。
「……ごめん」
「まったくだ。もう少し真剣に謝りたまえ。僕は格下に足元を掬われるのが世界で一番嫌いなんだ」
 はは、と、乾いた笑いが聴こえた。
「わかった。ちゃんと教えるから」
 媚びるようなセリフだったが、反面でひどく疲れた声でもあった。控え目に琵琶坂の肩が抱きしめ返され、そこでやっと何かを得られたような気がして、小さなため息が漏れる。
 琵琶坂先輩、と、耳元でもう一度名前を呼ばれた。とっておきの秘密を教える子供のような、それはひそやかで軽やかな声音だった。
「俺、現実に戻ったら……世界大会、また出ることにするわ」
 その言葉を聞いたとき、意外にも動揺や戸惑いはなかった。もとより、彼と世界大会の因縁自体は琵琶坂には関係のないことだからかもしれない。
 琵琶坂と和詩を結び付けているのは、あくまでもあの不夜の街そのものだ。そして、再会の約束はすでに果たされている。
 あとに残されていたのは、それがいつになるのかだけだった。
「……なら、夏に」
 うん、と、短い返事が返ってくる。
 永遠に終わらない、ぬるま湯のような春の日差しのなかにあって、二人の瞼の裏にはもう、現実で迎えるであろう熱砂の情景が広がっていた。