……だからこうなっているのは、陽介が油断したからではなく。足立の方が一枚上手だったということだ。
「っつ……う……!」
最初に覚醒したのは痛覚だった。手のひらや膝、肘、最初に打ち付けただろう箇所がじんじんと痛む。しかし大したことはない。テレビに「落とされた」のは初めてだが、落ちる、と言ってもそう高い所から落ちるわけではないらしい。
空を見上げると、赤と黒のツートンカラーが広がっていた。テレビの中だ。周りはひたすら瓦礫の山。見覚えのある場所ではないと気付いて、心許なくなる。
足立を呼び止め、聞きたいことがあると言って呼び出した。足立が場所を指定して、そこは警察署の個室だったはずだ。
警察署内には人もいる。あの堂島もいるはずだった。だから足立がもし犯人だとしても、そう無茶な行動には出ないはず……という思惑が、見事に外れた。
俺が甘すぎた、と歯がみして立ち上がった時、背中側で誰かが砂利を踏んだ。振り返り見た顔は、予想通りの人物のものだ。
「やっぱりアンタが、犯人だったんだな」
足立透。陽介は目の前の人物を睨み付け、言った。しかし足立の方は余裕綽々で、いつもの軽薄な笑みを浮かべている。
「いやー、君って案外頭いいねぇ。まさか、甥っ子君より先に君が来るとは思わなかった」
陽介は足立の言葉には応えず、ただその笑みを睨み返した。
大丈夫、武器は持ってきた。前半に抜かりはあったが、ここからは五分、いや、ペルソナが使える分、こちらが有利のはずだ。足立はその事実に気付かず、話し続けていた。
「バレちゃったらゲーム終了、でもこのまま終わるのもつまんないし」
指先に掛かるクナイの感触を確かめながら、陽介は半歩、距離を詰める。
あと少し、間合いを狭めたい。あと少しでいい。
その瞬間、それまで人のいい笑みを浮かべていた足立が、にやり、と口元を歪めた。
「もう少し遊ぼうか、花村君」
「ッ!」
もう半歩、詰めた間合いのその鼻先で、カードが出現した。陽介のものではない。絵柄が違う。
「マガツイザナギ」
カードは間を置かずに砕け散り、紅黒く禍々しい光となって収束する。やがて瞬きするほどの間に、足立の背中に人形のような巨体が出現していた。
「ペルソナ!」
精神を守る鎧、受け入れた自分の影。陽介自身も持っている、ペルソナと呼ばれる力だった。
驚きで止まりかけた思考を揺り起こす。陽介は慌ててクナイを引き抜き自分もカードを召喚した。思い描いていた有利不利は覆った。これで完全に手札は五分、不意を突かれた分だけ不利といっていい。
「ジライヤ!」
全力を出さなければ負ける。顕現したジライヤを背に感じながら、陽介は再び足立と向き合った。足立はやはり、人の悪い笑みを浮かべてこちらを伺っている、ように見える。
そのとき、テレビの中の世界が大きく、ざわ、と蠢いた気がした。
ぞわぞわぞわ、と、背筋を妙な感覚が撫でた。ぬるい空気が、ごっそりと横を通り抜けていったような嫌な感覚だった。
「(なんだ……?)」
いい知れない怖気を感じながら、陽介は呟く。答えたのは、足立だった。
「僕はこの世界に気に入られたみたいでさ。君たちより色んなことが出来るみたいなんだよね。……君にバレたんなら、彼にバレるのも時間の問題だし? どうせなら最後に思い切り遊ぼうと思って」
答えになっていない答えだった。何にしても、足立が何か仕掛けてくることに違いはないだろうが。陽介は得体の知れない恐怖を振り払うべく、声を荒げる。
「ふざけんな! 何が遊びだ、いい加減に……」
「ああちなみに。遊ぶのは『彼』で、相手をするのは『君』だけどね?」
言われた意味を、また量りかねて声が詰まった。「えっ」という間の抜けた自分の声だけは、かろうじて聞こえた。
ぶわ、と、さっきの嫌な怖気が移動する気配を感じる。足立の後ろ。ちょうど、彼のペルソナが顕現している辺りからだ。
突然、無数の蠢く黒い手が一斉に鎌首をもたげて、陽介に殺到した。
逃げようとか。避けようとか。防ごうとか。考えもすれば、実践しようともした。
だが、相手が速すぎる。その「気配」の手達は、まるでこの世にもう一本とない希少な花だろうと無慈悲に手折る子供のように、無邪気に、残酷に、陽介を貫く。
かはっ、と、直後に漏れるのは声にもならない吐息。黒い手はまるで競い合うように陽介の腹辺りを貫いて、そして、それだけでは飽き足らなかった。
陽介は貫かれた衝撃に、前のめりになって地面に倒れ伏す。しかし、「もう一人」はそうはならなかった。
まるで引きはがされるように陽介の背中側から分離した「花村陽介の影(ジライヤ)」は、黒い手に手を、足を、腕を、股を捕らわれて、丁度背後にあった瓦礫に、縫い止められる。
『ぐっ……ぁ……!』
呻いたのは、影の方の陽介だった。自分がもう一度分離した驚きと、無数の「気配」の手に縫い止められた不快感がないまぜになっている。
手から逃れようと意識を集中させ、なんとかペルソナの姿を取り戻そうとする。不意を付かれたせいか、今の姿は陽介と瓜二つ……シャドウとしての彼のものだ。このままでは戦えない。
『っうああぁあッ!』
しかしそれを察されたのか、ギリギリと手足を締め付けられて痛みに悲鳴を上げた。取り戻しかけたペルソナとしての姿が一瞬でかき消え、耳障りなノイズと共に、またシャドウの姿へ戻される。
痛みのせいで焼き切れそうになる意識をなんとか繋ぎ止め、ジライヤは目の前で倒れ伏した陽介を見た。
ぴくりとも動かない。無数の「手」に貫かれたはずなのに、痛みに悲鳴を上げることすらしない。まるで生気の抜けた人形のように伏した自分を見て、それから少し考え、凍り付いた。
痛くないのだ。
壁に縫いつけられ、締め上げられるジライヤ(こころ)は痛みを感じるのに、現実の身体として、本体として存在する陽介には、一切の痛みがない。
それがどんなに異常なことか、少し考えればわかる。
「へえ、人のシャドウってそんななんだ。初めて見た。そっくりだね」
『て、め……え……!』
相変わらず軽薄な、意地の悪い笑みで足立は笑った。言い返そうときつく睨み返したが、自分を捕らえた手のせいで苦しげな声になってしまう。迫力など微塵もない。何度もペルソナの姿を取り戻そうとしては失敗し、バリバリッ、とノイズが乗る。
「(ちくしょう)」
尋常でなく気持ち悪い。不安感や不快感が一緒くたにされてぐちゃぐちゃになっている。今まで体験したことのない嫌な気分だ。
例えるとするなら、心という部分を素手で触れられ、掴まれているような。
「『そう』なんだよ。あとこのシャドウ、面白い特性持っててさー。接触したシャドウの暴走を助長するらしいんだよね」
その言葉に、ジライヤは思わず顔を上げた。
シャドウの暴走。ジライヤ自身も一度経験したことのある、理性を失って化け物になってしまう現象だ。本体に受け入れられたシャドウは暴走を起こさないが、足立の口振りからすると、そんなことは関係ないのかも知れない。
『ふざ、けんな……! 絶対、ごめんだ……!』
暴走したシャドウは本体を襲い、殺そうとする。自らを認めない主と共に消えようとする本能があるのだ。しかし、認められたならそんなことはシャドウの本意ではない。
ジライヤの脳裏に、「俺はお前だ」と言う陽介の声が残っている限り、絶対に望まない。もっとも、それを陽介本人の前で口になどしないが。
「はは、強気だね。でも、それの起こす暴走ってタダの暴走じゃないと思うよ」
足立はしかし、ジライヤのその瞳を嘲笑った。
『な……っぐ!』
その刹那、どくん、と、鼓動が波打った。
いや、心臓など存在するのだろうか。今やむき出しの精神でしかない自分に。では、波打っているのは、これから起こることを恐れているのは、花村陽介という矮小で代えのきかない心そのものではないのか。
「ま、原理とか難しいことはどーでもいいんだけどさ。そいつに取り憑かれたら、どのシャドウも普通じゃない暴れ方するから」
軽く、その辺を散歩してくる、とでも言うような口調の軽さで、足立が何かを言っている。しかしもう、ジライヤはその言葉をまともに聞いていなかった。
それは、先ほど感じた不快感をさらに上回るものだった。心を撫でていた手が、侵食を始めている。感情や思考を他人によって書き換えられていくような、底冷えのする感触。普段は押さえている全てのものがさらけ出される恐怖が、ジライヤを正面から襲っていた。
どんな暴走にも限度はある。暴走によって自らが瓦解しないようにと、生物には本能的なストッパーがあるものだ。殴った手が砕けないように、噛み締める牙が失われないようにする歯止めだ。だが、それすら容赦なく破壊されていく。しかも乱暴に壊されるのではなく、全てを解析され鍵を丁寧に開けられていくような恐怖感があった。
つまりこれは、支配されていく恐怖だった。自分で暴走するのとは違う。逆らえない。ただ侵されるだけで、何も出来ない。
『(まずい……)』
このままではまずい。抑えが効かない。なんの、ではない。全てのだ。この思考さえも、支配されていくだろうことが、ジライヤにはわかる。
多分もうじき、「まずい」とすら思えなくなる。
「ねえ、心を侵されるってどんな気分?」
驚くほどさらりと、足立は尋ねた。ジライヤに、ではない。地面に倒れ伏した陽介にだった。
朦朧とする意識の中、ジライヤが陽介の様子を伺うと、先ほどまで微動だにしなかった陽介が、拳を握って起き上がろうとしていた。やっとのことで上げた顔には、明らかな憔悴が浮かんでいる。
「ちく、しょ……なんで……こんな、こと……!」
苦しんでいるのは、痛みのためではない。ジライヤが感じているものと同じ、他人に心を陵辱される不快感からだ。
足立はそんな陽介を気遣う様子など、微塵も見せない。それどころか、その前髪を強引に掴むと無理やり自分のほうを向かせた。
「なんで? うーん、そういえばなんでだろうなぁ」
土で汚れ、消耗した陽介の表情を眺めながら、足立はやや考え込んだようだ。そして驚くほど邪気の無い声で、答えた。
「好きだから、かな? 君が」
「な…………」
予想外の答えに、陽介が目を見開いた。
「はは、面白い反応をどーも」
そして足立はそんな、思慮の足りない「コーコーセー」の条件反射な反応を、嘲った。
「いや、実際さあ。君って素直でわかりやすくって、好ましいよ。そう言う意味。あ、わかりやすいっていうか、似てるのかな、僕と君が」
似ている? この男と自分が? ありえない。朦朧とした頭に、一瞬で血が上った。
こんな、人の命を二つも奪った犯罪者と、自分が似ているはずが無い。
「ばかな、ことを……」
消えかかっていた反抗の意思をもう一度見せると、足立は逆に面白そうに笑みを深くした。
「馬鹿なこと? そうかなぁ、君だって、こんな田舎クソくらえって思ってんじゃない? 君の不遇を見て嗤うやつも、安全な所から石を投げる奴も、みんなブッ壊れろって思ってんじゃないか」
まただ。心を鷲掴みにされるような感覚に、陽介が悲鳴を上げる。瓦礫に縫い付けられたジライヤが、悲痛に呻き声をもらす。
陽介の内側を貫通し、精神を直接嬲っている手が、陽介の悲鳴を嗤うようにうごめいた。
覗かれている。
「君はさ、信用できるよ。だから好ましい。君がされて嫌なことなら、手に取るように分かる。似ているって、そういうこと」
出来の悪い生徒に言い聞かせるように、足立は言った。やめろ、とか細く陽介が告げるのを聞いて、また笑みを深める。
「で、『彼』も自分と同じ境遇のはずなのに、自分だけがみじめな場所にはいつくばってんのが許せないんでしょ?」
言うな、と陽介は懇願した。それを聞くほど、足立は慈悲深くはなかった。だから陽介は、足立が次の言葉を言う前に、激しくかぶりを振ってその手から逃れる。
「やめろ、やめろっ、言うな! お前が、お前が俺の気持ちを口にするな! 踏みにじるなぁっ!」
衝動に任せて立ち上がろうとする陽介を、再び黒い手が制する。足立が前髪を掴んでいた手を離すと、その衝撃にまた地面にうずくまるしかなかった。
不快感は続いている。心を踏み荒らされる屈辱感も終わらない。
「ま、いいや。僕が全部やっちゃったら面白くないし」
足立は下卑た笑みを浮かべながら、陽介を見下ろしていた。それは、暴力や強権を持って他者を踏みにじる、知的な蹂躙者の表情だ。
「自分が自分じゃなくなっていく、まったくの他人に心の中を踏み荒らされていいようにされるって、どんな気持ちがする?」
足立は最初と同じ質問を、繰り返す。
「身体を犯されるのと心を侵されるのに何の違いがあるの? 見られたくない、見られてはいけない部分を晒され暴かれて、背徳感で一杯にされながら尊厳を奪われるのなら一緒でしょ? ……ああ、心の傷は一生癒えないんだっけ? なら、こっちの方が残酷ってことになるね」
服を剥がされ犯されるのも、心を覗かれ侵されるのも、そこに実質的な違いなど無いのだ。取り返しがつかない分、後者のほうがより悪質だ。逃げ場を断たれ、無遠慮な手に押さえつけられ、本心という秘部を蹂躙されているのだから。
心だけは。本来なら、そうすがれる部分をこんなにぐちゃぐちゃにされて、いったいどこに寄る辺を求めればいいのか。
悠。
反転する意識の直前に浮かんだのは、彼の名前だった。その名前を口に出していたのかすら、自覚できない。もうこの身体と心の、どの部分が未だ自分なのか、それすらも曖昧だった。
遠くのほうで、足立が可笑しそうに嗤うのが聞こえた。だから、たぶん口に出ていたのかも知れない。
「ま、せいぜいお互いつぶし合えよ、相棒くんとさ」
ぐらり、とまた世界の空気が歪む。足立の後ろから、また黒い手が一斉に鎌首をもたげてこちらを狙っていた。
いやだ、と紡ごうとする最後の理性を、絶叫が、本能のまま暴走する意思が塗りつぶした。