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影遊

Posted in 再録

 赤と黒のツートンカラーと、瓦礫の山に囲まれた異界。テレビの中で、悠はただ一人、立っていた。手には武器である日本刀が握られている。
 『先輩、聞こえる? 花村先輩の反応、もうすぐ近くだよ!』
 頭の中で少女の声がした。久慈川りせだ。通信用のペルソナを通じてこちらとコンタクトしている。悠は驚くことなく頷いた。
 「ああ、分かった。もう少し探してみる」
 『無理しちゃだめだよ、危なくなったらすぐ逃げて』
 念を押すりせに、悠は少し苦い顔をして生返事を返す。
 無理せずに陽介が見付かるなら、そうするよ。

 陽介が行方不明だと分かったのは、最後の聞き込みが終わった翌々日だった。花村家から堂島家に連絡があった。昨晩から陽介が帰っていない、そちらに行っていないかというものだ。当然堂島がすぐに捜索願を出すよう進言したし、町の中の捜索もなされたのだが、いっこうに見付からない。
 まさかと思い、りせとクマにテレビの中を調査してもらった結果、中に人の気配があると分かったのだった。
 「ヨースケ、だと思うクマ……でもなんか弱くって、絶対って言えないかも」
 「近くまで行けば分かると思う。でも、気配が一つじゃないの。花村先輩のほかに、もう一人くらいいると思う。もしかしたら……」
 真犯人かもしれない。
 サーチから帰ってきた二人の表情は浮かなかった。どう考えても楽観視できる状況ではない。このままにしておけるはずもなかった。
 かくして特別捜査隊はもう一度テレビの中へと入り、陽介の気配を追うことにした。しかし、陽介の気配に近づけば近づくほど霧が濃くなり、元の場所へと戻されてしまうのだ。
 「なにこれ……普通じゃないよ、ここ」
 辺りを伺っていたりせは、明らかに恐れていた。力ではなくサポートに特化している分、他のメンバーに分からないこと、見えないことも敏感に察知しているのだ。
 「ダメ……なんか、こっちがサーチされてる感じがする。ペルソナ使いの気配を察してるの? 私たち、迷わされてるのかも」
 「向こうにも、りせちゃんみたいな力を持ってる奴がいるのかな」
 千枝の言葉に、りせは首を横に振った。わからない、の意だ。
 「それにしては雑っていう気もする。適当に、大きな反応があるところを狙って足元をすくってる感じかな。たぶん、向こうに近づく気配や反応が小さければ、気付かれないかも知れない」
 まるで地震の前に生き物が異常な行動を起こすように、より原始的で本能的な生物が、知りえない自然現象を察知することがある。そういう力の使い方だった。
 特捜隊が知るはずも無いことだが、彼らを迷わせているのは特殊ではあってもシャドウなのだから、雑なのは当然だ。
 とにかく、近づく気配が小さければいいのだ。つまり、このままの大人数で進むことは出来ない、ということだ。
 悠が単独で奥へ進むことを、仲間たちは当然反対した。けれど、陽介をこのままにはしておけない。
 何より、普段はあまり強い要望を出さない悠が、がんとして譲らなかった。そうなれば、最終的に反対出来るメンバーなどいない。
 結果、さんざん「気をつけて」や「無理はしないで」という言葉をかけられて、悠は一人で奥へ進むことになったのだった。

 紅く崩れかけた町を進んでいくと、どこからか声が聞こえた。悠は思わず立ち止まり、耳をすませる。
 「陽介?」
 それは陽介の声のように感じたが、遠すぎてはっきりとしない。あるいは、りせ達が感じ取った「もう一人」か。
 「もう一人」。悠はそのもう一人に、心当たりがあった。特捜隊の誰にも、あの陽介にさえ、話していない心当たりだった。
 足立透。恐らく、この連続殺人事件の犯人。
 「(陽介、無事でいてくれ)」
 もし、この事態が、足立透を放置しようとした悠が招いたことなら、どうすればいい。彼を犯人だと確信しながら、打ち明けることなく先延ばしにした。それを、陽介が察さなかったと言えるだろうか。陽介は決して頭の悪い人間ではない。むしろ、頭の回転は悠よりも速いかも知れない。
 もしも、陽介がこの事件の被害者に名を連ねることになったら、自分は。
 悠はぎゅっと日本刀を握りなおすと、軽くかぶりを振って声のするほうへと進み始めた。
今は、それを考えている場合ではない。
 そうやって心を奮い立たせて進んだが、進むに連れ、悠の表情は不快に歪んでいくことになった。先ほど微かに聞こえた声を辿っているのだが、原因は、その「声」そのものだ。

 ほら、あの子でしょうジュネスのとこの息子って。

 都会からわざわざ引っ越してきて、ご苦労ねえ。

 へーそんな金持ちなの? 御曹司ってやつ?

 そりゃそうでしょーあんな大きな店の店長なんでしょ?

 さぞ儲かっているんでしょうよ、影でこんなになってる商店街のことなんて、知ろうともしないでねぇ。

 結局他人のことなんてどうでもいいんだろ。

 金儲けばっかり考えて、嫌らしい。自分達が潰してるようなものだって自覚、あるのかしら。

 都会から突然やってきて、何もかも滅茶苦茶にして。恥を知れ。

 「これは……」
 悪口。興味。陰口。羨望。嘲笑。
 あらゆる悪意がミキサーにかけられ、丁寧に濾されて染み出してくる。それを四方八方から浴びて、思わず立ち止まりそうになった。
 しかし、こちらが正解だ、と悠は確信した。なぜなら、湧き出す悪意は全て、陽介とその周囲に向かって放たれていたものだからだ。
 やがて、声は一軒の店に悠を導いた。「小西酒店」と看板が立ったそこは、他の瓦礫を見れば嘘のように傷一つなく建っている。陽介と二人で、初めて訪れたテレビの中。陽介が自分の影と向き合った場所だ。
 がらり、とその引き戸を開ける。その先には、酒瓶に囲まれた店内が広がっているはずだった。
 しかし、その予想は悠を裏切る。悠の目の前に広がっていたのは、小西酒店の内装ではなく、長く長く続く木造の廊下だったからだ。
 「学校?」
 悠たち特捜隊が通う、八十神高校の廊下だった。田舎らしい古めかしい廊下の両端には教室のドアがあり、突き当りには別校舎への道が続いている。廊下の中央には、屋上へと続く階段があった。声は、どうやら屋上のほうから聞こえてくるらしい。
 声はさらに現実味を帯び、すぐ耳元で囁かれているように感じた。それに耐えながら階段を登り、踊り場を越え、屋上へ続くドアに手をかける。
 錆びかけたドアノブが悲鳴のような音を立てて回り、ドアが開いた。室内にこもっていた空気が一気に外へと殺到し、視界が開ける。
 屋上には赤黒い空が広がっていた。禍々しい空の下、広がる屋上は悠の記憶よりもずっとずっと広い。人が落ちないようにと高く設置された柵。飲食店が掲げる旗に、白く丸いテーブルと椅子。端のほうに設置された屋根つきの長椅子と机は、見慣れた場所だった。
 「ジュネスの、フードコート……」
 八十神高校の屋上ではなかった。ここは特別捜査隊の特別捜査本部……ジュネス屋上の、フードコート。そこにたどり着いたとたん、悠を導いた声は役目を終えたようだった。あんなに煩く耳元に囁いていた悪意が嘘のように消えている。
 ぐるり、と悠は辺りを見回した。陽介はここにいるのだろうか。しかし、見当たらない。そして、ちょうど最初と反対側を見渡していたとき、その声はした。
 「なんで、こんなところに居るんだろうな」
 陽介の声だった。はっ、として視線を反対側に移すと、陽介が忽然と姿を現していた。
 「陽介! よかった、無事だったのか……!」
 思わず名前を呼んで、悠は駆け寄った。ずっと探していたその青年の肩を抱き、その顔を見ようとした。しかし、陽介は動かない。顔を上げようともしない。あんなに仲の良かった相棒が自分を迎えに来たのに。
 ただ、彼は問いを繰り返す。
 「なんでこんなに苦しいんだ? どうして何もかも、上手くいかねーんだよ」
 悠の手の温もりも、気遣わしげな声も、何も感じていない様子で、陽介は言う。そして、大きく肩を落とした。
 「なあ、もう、いいだろ? なんで、俺ばっかりこんな目に遭うんだよ。もうたくさんだ」
 「陽介……?」
 不安が悠を襲う。目の前にいるのは本当に陽介なのか? 陽介の姿をしていて、陽介の声をしているのに、何かが違う気がしてならなかった。もう一度、確かめるように名前を呼ぶと、陽介は突然顔を上げ、悠を睨み付ける。
 「なんで、お前なんかが傍にいるんだよ」
 底冷えのする声で、陽介は言った。言われたことを一瞬理解できず、悠は言葉に詰まる。
 陽介の顔で。陽介の声で。俺は今、何を言われた?
 そんなことを考えていると、唐突に手の中の感触が霧散した。抱いていた肩も、覗き込んでいた表情も、全てが黒い霧となって崩れ落ちる。まるで、今まで見ていたものが全て白昼夢だったように、跡形もなく消えた。
 「陽介っ! いったい、これは」
 「あれ、珍しく察しが悪いね? 何度も見たでしょ、こういうの」
 人影が失せ、悠一人になったはずの屋上に、また別の声が響く。声のほうを見やると、屋上の入り口、その屋根部分に腰掛けて、意地悪く笑う足立を見つけた。
 「……足立さん」
 自分でも意外なほど、悠は驚かなかった。やはり、という思いと、後悔が深くあるだけだ。
 行方不明になり、テレビの中に落ちた陽介と、この人が一緒にいるなんて偶然は、絶対にありえない。やはりこの人が犯人だったのだ。
 悠の予想通りだった。やはり、あの時口をつぐむべきではなかった。
 「ここはテレビの中。この世界とシャドウは、落とされた人の心に強く影響される。今は、花村君の精神を反映しているってわけ」
 足立はそんな悠の心中を知ってか知らずか、講義じみた解説を始める。
 「でも、もう陽介のシャドウは……」
 「もしかして、一回受け入れれば終わりだと思ってるとか? はは、甘い甘い。人の心なんて、すぐ揺らいじゃうもんだよ」
 当てになんてしてらんないね、と足立はせせら笑う。その途端、今までフードコートを形作っていた世界がぐにゃりと歪み、景色が変わった。足立がひょいと屋根部分から飛び降りると、そこも変質し、虚空に変わる。
 そして瞬きすら追いつかないうちに、そこはただの瓦礫の山に変わっていた。立っているのは悠と、その正面に向かい合う足立。悠の視線は、その傍らに集中した。
 倒れた陽介と、そこに群がる黒い手。そして、その手に縫いとめられた、陽介の影。
 「陽介、ジライヤ!」
 二人とも、ぐったりとして動く様子は無い。生きているのかさえ、分からない。最悪の予感を否定したのは、足立だった。
 「生きてはいるよ。まあ色んな意味で負荷はかかってるだろうけど。ま、ペルソナ使いって言っても、こうやって負荷がかかっただけで、このザマってわけ」
 足立が言い終わるかどうかというところで、ざわり、と悪寒が通り抜けた。生ぬるい空気がどっと移動するような違和感。
 直後、足立の隣で倒れていた陽介が、びくり、と身体を震わせる。
 「ッ……あぁああぁっっっ! や、め……ッ、あ、ああぁああ……ッ」
 絶叫が、空気を震わせる。完全に、周りの見えていない悲鳴だった。陽介はもはや、自分がどこにいるのか、なぜ叫んでいるのかすらわからないまま、ただその不快感に、他人に心をかき回される不安と違和感に、声を上げる。
 これならいっそ、純粋に痛みを与えられたほうがどれだけかマシだろう。
 「はは、こういう悲鳴もなかなかオツだよね。怪我くらい誰でもしたことあるから、そういう痛みなら耐えられるだろうけど。心の中をかき回されんのは初体験だろうしねぇ」
 地面を指でかきむしりながら、いやいやと首を振る陽介を横目に、足立は笑う。
 一瞬で顔が熱くなり、頭に血が上った。
 「やめろ!」
 思わず悠も叫ぶ。とにかく止めなければならないと、混乱する頭を無理やり冷やしてカードを召還する。
 「イザナギ!」
 悠の呼び声に、ペルソナの力はすぐに応えた。カードが音を立てて割れ、背後にイザナギが顕現する。激しい雷撃が辺りを舐め、足立に向かって収束した。
 しかし、雷撃はことごとく足立を通り抜け、その背後にある瓦礫を吹き飛ばしただけだった。
 「熱くなっちゃって、珍しい。そんなにショックだったわけ? この子がこんなにぐっちゃぐちゃにされてんの。あ、ちなみに本体はここじゃないよ。まだ君と戦う気分じゃないしね」
 傷一つ負わない足立のシルエットは、ゆらりと揺らいでノイズと共に霞んでいく。
 「さて、そろそろ僕は消えようかな。最後に面白い遊びも出来たしね。人の心の中って存外面白いよ。特に、陽介君みたいなため込んでるタイプはさ。さらけ出させて泣きわめいてるとこなんて特にそそる」
 無理矢理冷やした頭は、その言葉でまた沸騰した。
 この男は、一体何を言っている。そして自分がここにたどり着くまでに、陽介に一体何をした。
 これでは陽介が目の前で犯されているのとなんら変わりない。
 「絶対に、絶対に許さないッ!」
 そう気付いたとき、声が枯れるかと思うくらいに叫んでいた。
 「別に、君に許してもらいたいとは思ってないよ。相棒君、助かるといいね?」
 しかし足立は驚くほど乾いた言葉を返す。そして、またね、と曖昧な再会の挨拶を残して、今度こそその姿を消した。
足立が消え、統率するものが居なくなったせいなのだろうか。周りの空気がより歪んだ気がした。
 悠はぎり、と強く歯噛みする。やはり、迷うべきではなかったのだ。みんなにすぐに話すべきだった。
 足立が犯人だ、と確信したあの日。悠は彼と過ごした時間を思い返し、思わず立ち止まった。停滞はもう終わりにしなければならない、と、あの青い部屋の住人にも言われていたのに。
 しかし、何よりも今は陽介を助けなければならない。悠はぐったりと倒れ伏した陽介に駆け寄ろうとしたが、その行く手を黒い手が遮った。
 陽介の背後でジライヤを捕らえていた手が一斉に離れ、反転し、悠の行く手を阻むように突き刺さったのだ。
 「っ、陽介!」
 無茶苦茶に伸び地面に突き刺さった手は、籠のこちらとあちらを隔てる網目のように二人を遮っていた。その籠の向こうで、ジライヤがふわりと、いっそ不安になるほど、重みを感じさせずに倒れていく。
 そして地面に倒れる前に、その姿は見慣れたカードの形を取る。そして次の瞬間、激しい音を立てながら割れた。
 カードの欠片が、ぱらぱらと光の粒になって消えていくのが見える。何か取り返しのつかないことが起こった、と直感した。とにかくこの籠を破って向こう側へ行かなければ。
 さらに厚くなろうとする籠に向かって、悠が攻撃を加えようとしたその時だった。
 「もう、いい。全部、消えればいい」
 陽介の声が、それを遮った。思わず動きを止めた悠の目の前で、一瞬で黒い手の籠が破裂する。
 ものすごい勢いの風が、内側からその籠を砕いた、ように感じた。烈風が辺りに吹きすさび、周囲の瓦礫を黒い手もろとも吹き飛ばす。
 思わず顔を覆い、それから驚愕した。
 確かに陽介は、仲間の中でも風系の力に特化した戦いをする。けれど、こんな無茶な使い方をすることはなかった。いや、それ以前に、こんなに大きな力を振るえただろうか。
 「あんな声をこれ以上聞くのも、これ以上苦しい思いをするのも、もうたくさんなんだよ」
 戸惑う悠を置いていったまま、陽介は声をますます荒げて言い放つ。陽介がこんなに激昂するところを見たのは初めてだった。
 先ほどの幻想の続きだ、と直感で気付いた。足立の言葉とテレビの中の性質を考えれば当然だ。あの幻は、陽介の今の精神を反映している。だから、あの幻が口にした言葉は、全て陽介の本心なのだ。
 「それとも、俺はもっともっと苦しんで当然だって、しょうがないって言うのか! なら、ぶっ壊してやる、全部、全部! お前も!」
 先ほどとは違う、言葉による悲鳴を上げながら、陽介が地を蹴った。振り上げられ、自分を傷つけようとするクナイに反応できたのは、半ば以上反射行動だっただろう。
 鋭い金属音が眼前から響き、耳障りな音と共に離れる。陽介の一撃は、やはり普段のそれよりも何倍も重かった。
 「(操られてる、のか? いや、でもこれは、多分前と同じ)」
 かつて、陽介の影が陽介に向かって言っていたことと、本質は同じだ。
 退屈なものも、邪魔なものも、全部ぶっ壊す。
 花村陽介という存在を侵すものは全て。
 紅く黒く地面に落ちた陽介の影に、黒い手が伸びるのが見えた。カードになって砕け散ったはずの「影」が、まだそこにいるかのようだ。やがてそれは膨らみ、大きくシルエットを変え、具現化する。
 黒い影に覆われたその姿は、見覚えがあった。カエルにも似た肢体と、いびつに伸びたマントのような服装。陽介のペルソナにも共通する部分が多いそれは、まさしく暴走した「陽介の影」だった。
 ただし、以前と全く同じ姿ではない。そこかしこには暴走を助長する「手」が絡みつき、禍々しさを増している。なにより決定的に違うのは、暴走しているのが「影」だけではないということ。
 目の前に立っているのは、ペルソナごと暴走したペルソナ使いだった。
 「こんなところ、全部壊れればいい。胸糞悪い声も、手の届かない理想も、全部ぶっ壊れろ!」
 「っ!」
 陽介はまた悠に跳びかかり、クナイと刀が何度も重なり音を立てる。
気は進まないし、陽介を傷つけたくも無かった。が、相手はそんな悠の事情など察してくれそうにもない。
 数度斬り結ぶうちに、このままでは埒が明かないと思ったのだろう。陽介は突然後ろに飛び退くと、大きく跳躍した。それはおおよそ人間が出せる脚力を超えている。「黒い手」に精神を侵食された結果、身体の限界さえ無理に超えさせられたのか。
 「ジライヤ!」
 暴走した自らの影を喚び、ジライヤが翳した手の先に烈風が生まれる。頭上から襲い掛かってくるそれを、悠は寸前で受け止めた。
 ガッ、と金属が悲鳴を上げる。衝撃に目を一瞬閉じてもう一度開くと、そこにはもう陽介の姿は無い。
 「(下!)」
 気付いたのと反応したのはほぼ同時。ジライヤだけをその場に残し、宙でくるりと身を翻した陽介はそのままクナイで足下を狙ってきた。しゃがみ込み刀を立てて防御したが、ギリギリだった。
 分かってはいたが、速い。普段の戦闘でも人一倍速く動いて敵を翻弄する陽介だが、それから考えても段違いだ。先ほどの風の威力を考えても、暴走によって能力のタガが外れている。
 「――――――――、」
 息を付こうとしたその耳元で、陽介が何事か呟く。その途端、陽介の周りを風が包み込んだ。
 何を、と考えてからすぐ直感する。スクカジャだ。
 ひゅ、とすぐ近くで風が唸る音がして、陽介の姿がかき消える。ぐんと増したスピードに、今度こそ反応が間に合わない。
 「ぐあっ!」
 背中から浅く斬られる痛み、続いて強引に蹴り上げられ、軽く吹っ飛んだ。それでもなんか受け身だけは取り、追撃に備えて陽介に向き直ろうと顔を上げて、
 「ッ!」
 目の前で、鳶色の瞳が自分を見つめていた。驚く無かれと言うのにも無理がある。加速効果をかけているとはいえ、吹っ飛んだ悠に一瞬で陽介が追いついたのだ。
とんっ、と、嫌に軽い挙動で陽介が跳ぶ。肩に重み。視線は合ったままだった。
 陽介はそのまま悠の肩に手を突いて、そこを支点にくるりと逆立ちの要領で位置を変える。そして、自分の身体という死角からクナイの一撃を見舞った。
 痛みよりも先に焼け付くような熱さが全身を貫く。その熱さが収まらぬうちにもう一撃、続いて陽介の背中側に戻ったジライヤが風で悠を吹き飛ばした。
 「うああああっ!」
 反射的な悲鳴と共に地面に叩き付けられ、空気を無理矢理肺から吐き出させられる。
瞬間的な酸欠で頭が朦朧としたが、ここで意識を失ったら本当におしまいだ。反射的に身を転がすと、今まで倒れていた場所にクナイが突き刺さる。
 ……冗談抜きでひやっとした。見えていたわけではないが、直感に助けられた。さすがにあれを食らったら、気力とか根性では生きていられない。
 しかしその時、ざわ、とまたあの黒い手が動いた。ジライヤに絡みついていた分も含めて、悠の方へとその鎌首を向けたのだ。しぶとく逃げ延びる獲物に焦れたのか。
 一斉に襲いかかる「手」に、なんとか応戦する。しかし、すでに傷を負った身体は重い。何度か受け流すのが精一杯だった。襲い来る手の何本かが悠の足下を掴み、肩を掴み、地面に叩き付けて拘束した。
 「ぐっ……は……」
 脳が揺れて再び意識が飛びかける。動きを封じられた悠の元へ、陽介の足音が近づいてきた。
 「同じような思いをしているやつは、星の数ほどいる。みんなが恵まれているわけじゃない、だからしょうがない、俺だけじゃないって。時間が解決してくれるって、住めば都だってさ」
 陽介の声は嗤っていた。感情の灯らない声で、無責任な誰かさんが言う心ない一般論を、零れる水のように口にしながら。
 「馬っ鹿馬鹿しい。当事者じゃない奴はなんとでも言えるぜ。じゃあ、俺が素直に耐えていれば、あの耳障りな悪口も、陰口も、悪意もいつか収まるのか? 痛い目を見ているからもういいだろうって? んで、全部解決ハッピーエンドか?」
 ぎゅっと陽介が拳を握った。声に感情が灯り、一瞬で爆発する。
 「そんなわけない! 結局みんな、石をぶつけるのが楽しいだけ、相手は誰だっていい! 自分が被害者面出来て、自分はそっち側じゃない、強い、正しい側にいるって思えればなんだっていいんだ! こんなとこ、誰が好きになるってんだよ、誰が居場所にしたいって思う?」
 以前にも、同じような光景を見た。思い出すまでもない、陽介が初めて自分の影と向き合ったときだ。けれどその時と違うのは、今語っているのが陽介自身であること。その口から語られる本音が、黒い手によって理性のタガを外されたものであるということだった。
 陽介の瞳が、悠をまっすぐに見下ろした。悠はそれを、見つめ返すことしかできない。
 もう悠には何も出来ないと高をくくっているのか。獲物を手に近づく陽介の足取りはゆっくりとしていた。
 「お前ならこんな風に腐ったりしないんだろうな。でも俺はダメなんだよ」
 は、と、陽介の口から自嘲の溜息が漏れた。
 「なんでなんだよ、なんで、お前も最初は同じだったはずなのに、どうして俺だけこんな苦しいんだよ。お前は何でも出来て! みんなに慕われて、頼りにされて! 俺にはないものばっかり、俺が欲しいものばっかり、持って……なんでそんなお前が、俺の、傍にいるんだよ……!」
 声に宿る感情が、少しずつ塗り代わっていく。それを気配だけで察していた。悠の目の前まで近づいてきた陽介が、その足取りを止め、手にした獲物を振り上げる。その表情は苦しげだった。
 「よう、すけ……」
 そんな表情を見てしまったら、どうすればいいのか、悠にはもう分からない。
 怒り、悲しみ、苦しみ、憧れ、羨望、尊敬。全部が混ざって区別さえ付かなくなった怨嗟。それに一番苦しんでいるのは、陽介自身だった。
 もちろん、抑えの効かなくなった剥き出しの本音は、必要以上に強い言葉に変換される。それでも語られる本音はやはり本音だ。思ってもいないことは、口には出来ない。
 「お前が傍にいると苦しくてしょうがねえよ……もう許してくれよ、お前なんか、嫌いに、」
 だからこそ、悠はその言葉だけは聞きたくなかった。押さえつけられていなければ、耳を塞いだかも知れない。
 しかし、耳をふさげなかったのは幸いだった。
 「嫌いに、ならせてくれよ……!」
 目が、合った。その目は苦しげで、微かに涙に濡れて、声はとても小さかった。
 でも確かに聞こえた。その瞬間、恐れが吹き飛ぶ。力一杯、拘束された手に力を込める。陽介がびくりとその身を震わせ、ひるんだ。すると「手」もそれに臆したようにゆるみ、悠の手足に自由が戻る。
 「手」を強引に振り払い、悠は身を起こし、前へと進む。
 「イザナギ!」
 もう一度ペルソナを呼ぶ。具現したイザナギが、ジライヤに向かってその巨大なナイフを振り上げた。
 「っ、ジライヤ!」
 そこで陽介も我に返り、もう一度悠を睨み付ける。
 距離は至近。手は、伸ばせばすぐに届く距離だった。陽介は振り上げたクナイを振り下ろし、そのままぐっと引いて突き刺そうとする。
 しかし、悠は刀を持つ方の手ではなく、空いた手で陽介を抱き寄せた。
 脇腹に激痛が走る。暖かいものが身体を伝う感触。しかし、それ以上はなにも無かった。ぽたぽたと、自分が振るった獲物から滴る血を見て、呆然と立ちつくしたのは陽介の方だった。
 ひやりとしたが、浅い。あまりの至近距離で、手元が狂ったか。それともわざと狙いを外したか。
 ぎゅっとさらに強く抱きしめると、陽介が、自分のしたことに怯えたように震えた。
たぶん、後者だなと悠は思う。
 「悠、」
 「ごめん、陽介」
 陽介の言葉を遮って、悠は言った。
 「苦しいのは、わかる。独りで耐えなきゃならない時は、なおさら。俺も、独りで耐えるのは苦しいから。陽介が俺の傍にいると、苦しいっていうのも、わかった」
 だから、と悠は続ける。
 「だから、ごめん。例え陽介がそれで辛くても、俺は、陽介を手離せない」
 思ってもいないことは口には出来ない。他意があったにしても、陽介が悠の傍にいて辛いと感じていたことは事実だろう。
 でも、ダメだ。悠はいっそう強く抱きしめる手に力を込める。
 この男が自分の傍から離れることだけは許したくないと、悠の本音が訴える。
 陽介が悠にとってどれだけ大事で、どれほど大切にしたいと思っていても、他のことならいくらでも叶えてやろうと思えても、そこだけは譲れない。
 あんな風に別の誰かに奪われるところは、二度と見たくない。奪った奴を、殺したくなる。そんな激情が、悠の中に宿るくらい、譲れない存在になってしまった。
 「なんで、だよ……お前には、他にもいるだろ。こんな、馬鹿なやつより、他に……」
 か細く呟いた陽介に、悠は黙って首を横に振った。
 「陽介しかいないよ。俺は、陽介がいないと嫌だ。例え陽介が苦しくても」
 だから、ごめん。と、もう一度だけ謝ると、悠は刀を持った手を振り上げた。悠が振り上げた分だけ、イザナギがその手に持ったナイフを振り上げる。そして、陽介と同じように立ちつくすジライヤに向かって、それを一閃した。
 絶叫。それは人の声ではなく、水が高音で蒸発していくような、耳障りな断末魔だった。
イザナギのナイフは過たず、ジライヤに絡みついていた「黒い手」を切断していた。「手」は切断された傷口から黒い泡を吐き出し、やがてそれすら黒い霧となって、虚空に薄れて消えていく。
 からん、と、日本刀が地面を転がった。悠がその手で捨てたのだった。武器を捨て、完全に自由となった左手で、悠は今度はジライヤに手を伸ばす。イザナギの手が、それに合わせて、異形となったジライヤへと伸びていった。
 するり、と抵抗を感じさせず中に埋もれたその手が、やがて陽介と瓜二つの顔をした影を救い出した。未練がましく絡みついた「黒い手」も、ぼろぼろと崩れて霧散していく。
 陽介の影がイザナギの腕に抱かれる頃には、全ての異形と手がその場から消え去る。
 再び、辺りが静まりかえる。静謐の中で、腕の中の陽介が立てる息づかいだけが現実だった。

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