自宅主人公・日暮白夜。
鍵介×主人公。楽士堕ち要素あり。
手嶋さん(@cg_ntbr_etc)にデザインして頂いたイラストをイメージして書かせて頂きました。
* * * * *
白夜は自分の出せる全速力で走っていた。荒い呼吸が自分の中で反響している。時折苦しさが限界を迎えて、空気を飲み込みながらまた荒い息を繰り返していた。
「逃がすな!」
後ろの方でノイズがかった怒声が聞こえる。まだデジヘッドが追ってきているのだ。足を止めてはいけない。
周りにいつもの帰宅部メンバーはいない。白夜独りきりだった。この状況ではイマジナリーチェインはさしたる効果を発揮せず、かつ、複数のデジヘッドに追われたのでは、勝ち目はない。最良の策は隙をついて逃げることだった。
しかし、逃げれば逃げるほど、学校や自宅といった安全圏からは遠ざかってしまう。それでも、とにかく今はこの追っ手から逃れなければいけなかった。
苦しい。心細い。こんな思いは、あの入学式で正気に戻り、パニックに陥って以来だった。
「(鍵介……)」
思わず心の中で呼んだ名前の人は、ここにはいない。
はっ、と息を詰まらせたその瞬間、足がもつれた。勢いは殺せずにそのまま前へ倒れ込む。呼吸のリズムが乱れ、咳込みながら白夜は顔を上げた。疲労のために重くなった手足に鞭打って、立ち上がる。唇はきゅっと結んだ。
「(今更、何を期待してる)」
自分で遠ざけておいて、こんなときだけ呼ぶなんて本当に浅ましい。
記憶を取り戻したことを鍵介に相談できないまま、数日が過ぎた。勇気は出ないまま、他の仲間にも相談できないまま、白夜の単独行動はますます増えていく。
何か聞きたげな鍵介や仲間の視線は感じていたが、時が経つにつれ、それが苦痛になっていった。気付けば人気の少ない場所を選んで歩くようになり、この有様だ。完全な自業自得だった。
「っはぁ……はぁ……」
逃げて、逃げて、とうとう耐えきれずに膝をつく。振り返ると、追手の影は見えなくなっていた。やっと諦めてくれたらしい。ほっと溜息をついて、汗びっしょりになった額をぬぐう。
逃げ込んだその場所は、とても暗く、静かだった。
木造の、古めかしい建物だった。今まで訪れたどんな場所とも違う。街の中のような街灯は見当たらず、照明もない。陽が沈んでしまえば、他に明かりは存在しないだろう。
なにものも区別なく暗闇に落とすその場所は、何故かとても落ち着いた。ふらり、と何かに誘われるように、白夜はその場所に足を踏み入れ、そしてその場に蹲る。そしてぎゅっと身を縮めた。
しばらくここで休んで、完全にやり過ごしてしまえば帰れるだろうか。けれど、帰ったら帰宅部のみんなに……鍵介に会わなければならなくなる。それを考えると苦しい。
彼は怒るだろうか。悲しむだろうか。自分などを思って彼が悲しむのは耐えられない。しかし、全てを話すのも苦しい。
ここ数日、一人で何度も考えたことがまた頭の中で巡り始める。
現実での自分はメビウスでの自分とあまりに違いすぎる。性別も、境遇も、何もかも違う自分をもう一度好きになって貰える自信などない。
そして、彼が言った「現実でも会いたい」という望みを、きっと叶えることは出来ない。現実に戻ることとは、「あの家」に戻るということだ。両親が鍵介に会いに行くのを許してくれるとは思えなかった。特に父親は絶対に許さない。
「(いまさら……帰りたくない、なんて……言えない)」
そう思ってしまう自分を押さえつけるように、さらに身を縮めた。
メビウスから帰れば、鍵介には会えなくなる。でも、帰らなければ、この世界はいつまで保つかわからない。現実に残した身体が、一体どうなっているかも分からない。仲間と、何より大切な彼を想うなら、一刻も早く帰るべきだ。
帰りたくない。帰らなければ。二律背反の想いがぐるぐると回る。取りたい選択肢と取るべき選択肢が、心を締め上げた。
「もう、いやだ」
気が付けば、無意識にそう声に出して呟いていた。目頭が熱くなり、瞳にうっすらと涙の膜が張る。
もう嫌だ。疲労と悩みと迷いが、白夜の体力と精神力をじわじわと削り取っていく。
――恋はもっと甘く、幸せなものだと思っていたのに。
その人を想うだけで優しくなれるような、明日が来ることを信じられるような、そんなものだと思っていた。でも現実には全く違う。苦しい。胸がずっと、何かで炙られ焦げ付いているような痛みが続く。
あの人を、鍵介を見ているだけでいい――そんな清らな願いなんて長続きはしなかった。甘やかな物語がこぞって語るプラトニックな想いが維持できたのは、ほんのわずかな間だ。自分が見つめれば相手に見つめ返して欲しくなり、それが叶えば、次は言葉が欲しくなる。最初はただの言葉を、こちらに興味を向けた言葉を、そして最後は、睦言を。どんどん欲深になっていく自分が恐ろしかった。
言葉を重ね、心を重ね、唇を、身体を重ねて、これ以上何を望むのか。自分にもわからない。けれど、もっと望みたくなる。
幸せで、望み、望まれることが何よりも嬉しくて、だから、忘れかけていた。
『結局あなただって、この世界で与えられた姿を愛してもらっているだけじゃないの』
あの水族館で、楽士の女性に言われた言葉がよみがえる。
そうだ。その通りだ。この姿もこの場所も、与えられたものと譲られたものに過ぎない。白夜の力で手に入れたものなど何一つないのだ。この世界を出てしまえば、鍵介とのつながりは絶えてしまうかも知れない。いや、その可能性はとても高い。
与えられたものはいつ奪われてもいいように、心の準備をしておく。期待はしない。それが賢い。そんなことはとうの昔に分かっていたのに。
「(止められなかった)」
じわり、とまた瞳に涙がにじむ。
好きになってしまった。憧れのドールPとして、手の届かない希望としてではない。白夜にも手の届く一人の男の子として、響鍵介としてのあの人を好きになってしまった。それが致命的だったのだ。
白夜はふらふらとまた立ち上がり、歩き出す。戻る道ではなく、その見知らぬ場所の奥へと進んだ。木造の建物は半分くらい朽ち果てていたが、施された装飾は美しく、逆に荘厳な雰囲気を感じさせる。
やがて、開けた場所に出た。平らに敷かれた木目の床と、天鵞絨の幕。そして眼前に広がる客席。照明の類はやはりなく、陽の落ちかけた空から、薄紫色の淡い光が差し込むばかりだ。やはり朽ちかけた、そこは舞台の上だった。
本来なら人で埋め尽くされるべき客席には一人の人影もなく、舞台上には役を演じるべき役者もいない。いるのは白夜一人だけだ。
ここで初めて気づいた。ここは、白夜が写真で見たことがある場所だ。遠く海を越えた外国の、今も現存している木造劇場。いつか自由を得たら行きたいと、そう考えていた頃もあった。
……この世界はそんなことまで叶えてくれるのか。現実では何一つ叶わないのに。そう思ったら無意識に微笑んでいた。
「いやだ、なぁ」
今度は意識して呟く。堪えていた涙が零れ落ちていった。
せっかく見つけたのに。せっかく出会えたのに。せっかく愛してもらえたのに。どうしてこのままではいけないのだろう。
まるで世界中から、その幸福は、その恋は、悪いことだと言われているような気がするほど、どうしてこんなにままならないのか。
そんなのは、おかしいじゃないか。そうおかしい――――
じわり、と体中から熱が逆流してくるような思いがした。陽が落ち涼しいはずの空気が、一転している。それはなんとも言えない感覚で、例えて言うならそう、今まで、心の中で押さえつけていたものが、鎌首をもたげて白夜を「見ていた」。
それはギリギリと白夜の中の「理性」だか「抑圧」だとかを締め上げながら、出てこようとする。あえて定義するなら、それは形も質量もない、ただの「感情」だ。
俺が俺の幸せを願って何が悪い。
どうせ現実なんて俺の願い一つ叶えてはくれないのだから、
そこを捨てて何が悪いんだ。
ばちん。
そんな音が聞こえた、ような気がした。心の中で何かが千切れる音だった。思わず目を見開いて息を吐く。その目で見た世界はあまりに鮮やかで、その鮮やかな視界を、黒い何かが覆っていく。
「――――あ、」
か細い声を上げた時にはもう遅く。心の中からあふれ出したそれは――右胸から具現した白夜の「抑圧から解放されたもの」は、容赦なく彼自身を飲み込んだ。
本来二丁の銃に具現化するはずのそれは、それだけでは飽き足らず無数に千切れ分かれて伸びあがる。何かの触手か、そうでなければ植物の蔦を思わせる黒いものが、次々と白夜に殺到し巻き付いて締め上げた。
この世で最も希少な花を手折る人の手のように。その無慈悲さと容赦の無さは、幼い子供を思わせる。
黒い手が触れた場所から、自分が致命的に変わっていくのがわかる。抵抗することは出来なかった。だってそれは白夜自身だから。
果たして悲鳴は上がったのか、それさえも判別できないままに、すべては一瞬で終わった。
***
見上げたそこは、巨大な木造劇場だった。
「………………」
鍵介は悟られないように、ため息をついた。眼鏡のレンズ越しに見るそこは、言い知れない怖気を感じさせる。
ついこの間までメビウスには存在していなかったその場所を前に、帰宅部の他のメンバーも不安げな表情を隠せない。
「本当に、先輩がここにいるんでしょうか」
その不安を最初に言葉にしたのは、美笛だった。視線の先には、いつもの場所を失って所在無げに浮かぶアリアの姿がある。
「……ごめん、確証はないんだけど」
「って言ったって、他は全部探したろ。ここじゃなかったら、それこそもうわかんねーよ」
鼓太郎が半分以上ヤケになった声で言った。美笛も黙る。確かにその通りだったからだ。
昨日から、帰宅部部長である白夜は姿を消していた。放課後に姿を消すことは最近多かったが、翌日、学校が始まり、再度放課後を迎えても、一度も姿を見ないなどということは一度もなかった。
帰宅部の活動は、急遽白夜の捜索に方針を定めた。学校を始め、他の場所はメンバーで手分けして探したが、白夜は見つからない。
最後に残ったのは、アリア曰く「昨日から唐突に現れた」という、この場所だった。状況的に見て、最も白夜がいる確率が高い場所になる。
「入口に何か書いてあるな」
そう言って、入口らしい門の部分を見上げたのは維弦だった。近くにいた笙悟も、維弦の視線の先に焦点を合わせる。
「英語、か?」
アルファベットで、ここにいる全員にある程度単語が分かるとなればそれ以外にない。同じように門を見上げた鈴奈は、左端からそれを読み取って呟いた。
「これ……シェイクスピア、でしょうか」
「シェイクスピアって、えーと、あの海外の有名な作家?」
鳴子が眉間に皺を寄せながら言った。鈴奈が頷く。
「はい。大昔の……作家というか、劇作家です。この文章、見覚えがあります」
劇作家。なるほど、木造劇場にはふさわしい文言というわけだ。鈴奈の横を通り抜けて、鍵介が門の前に進み出る。
「中に入りましょう。どのみち、そうするしかありません」
短く言葉にしたのはそれだけだったが、鍵介はほとんど確信していた。
白夜はきっとこの中にいる。鈴奈が名前を挙げた劇作家もまた、白夜がかつて、お気に入りだといって語った名前だった。そして、彼が生まれた場所にある劇場に、いつか行ってみたいのだとも。
中に足を踏み入れると、御伽噺の中に出てくる城を思わせるような、優美で上品な内装が目についた。しかし勿体ないほどに雨風に晒され、あちこちが朽ちかけている。木造の装飾は日に晒された部分が腐りかけており、床も体重をかけるたび、ギシギシと悲鳴を上げた。
「ここ、ちょっとした部屋になってるみたい。見てみましょう」
琴乃がそう言って指した部屋は、何かの書庫のようだった。ぎっしりと本棚が並び、その中にもまたぎっしりと本が詰まっている。本、というより台本なのだろう。
「……後半が全部無いな」
無作為に本棚から台本を一冊手に取り、めくってから笙悟が低い声で言った。
彼の言う通り、収められた台本は、いくつか裏表紙から半ばまでがざっくりと切り取られ、無くなっていた。台本の後半部分はペーパーナイフか何かで乱雑に切り取られたようで、痛々しい切り口を晒していた。
琴乃がそれを聞いて、何か考え込むような仕草をしてから、床に落ちていた別の台本を拾い上げる。
「こっちのは大丈夫みたいだけど」
めくっていくと、琴乃の台本は傷一つなく、裏表紙まで綺麗に残っているようだった。
何か法則性があるのか、それとも気まぐれに誰かが切り裂いたのか。意味があるのかを考えていた帰宅部の中で声を上げたのは、やはり鈴奈だった。
「これ、全部悲劇です」
言った彼女の手にはまた、別の切り裂かれた台本が乗っている。
「悲劇の後半だけ、切り取られてます」
口元に手を当てて少し青ざめているように見える彼女にも、その意味が分かるのだろうか。鍵介は視線を逸らした。
「先輩……」
無残に裂かれて結末を喪った物語の骸。あの日、酷く悲しい表情で、幸せは長くは続かないものだと言い切った白夜の言葉が蘇る。
やはり一人にするべきではなかった。いくら拒絶されても、傍にいるべきだった。今更後悔しても遅いことだが、そう思わずにはいられない。
その時、耳障りなノイズが帰宅部のメンバーの耳を貫いた。
「何?」
美笛がびくりと顔を上げて、ノイズの元を探す。よく見れば、古めかしい劇場に似つかわしくないスピーカーがあるのがわかった。景観を損ねないようにか、装飾品の間にまぎれるように設置されている。
しばらく試行錯誤をするようなノイズが流れたが、やがてそれもふつり、と途切れる。そして次に流れ始めたのは、涼やかなピアノの音色だった。
「これ、μの……曲? でも」
アリアが困惑した表情で言う。この状況で流れる音楽は、十中八九楽士が作ったμの楽曲だ。しかし、それにしては聞き覚えのない曲だった。嫌になるほど毎日、それも街中に溢れているはずの、μの曲なのにだ。
『……それ以上、進まない方がいい』
流れ出るピアノと透き通る歌声に重なって響いたのは、今度こそ聞き覚えのある声だった。その場の全員の顔色がさっと変わる。
「白夜先輩……」
鈴奈が震える声でその名前を呼んだ。どこかでこの部屋の様子を見ているのか、スピーカーの向こうで声の主が少し息を呑んだように思える。
「そう言われて、大人しく僕らが帰ると思っているんですか」
鍵介がスピーカーを睨み付けて、前に出た。声は、その言葉にしばし沈黙する。反応を示さない声に、鍵介が今一度、先輩、と強く呼びかけた。
『進んだって、あなたたちが望む結末は、ここにはないよ。期待はあらゆる苦悩の元、だ。それでも進むって言うのなら、もう止めない』
気落ちした様子の悲しい声で、白夜は続けた。それ以降、スピーカーから彼の声が流れることはなかった。
ピアノの旋律に包まれて、帰宅部はそこに立ち尽くす。鍵介はただ、強く拳を握りしめていた。予想はしていた。だが、実際に目の前に突き付けられるのとは衝撃の重さが違う。
それでも、進まないわけにはいかなかった。
***
そうしてその舞台の上に辿りついた時、鍵介は一人きりだった。
迷宮と化した劇場の内部は複雑で、手分けをして装置を動かすことで扉が開くようになっている。最終的に、舞台に上がれるのは一人だけ、という構造だった。
「……舞台上に、大勢で押しかけるものじゃない」
その場所で小さく呟いた白夜のその言葉が、まさしく理由なのだろう。役者は出るべき幕に、演じるべき役として現れるものだ。
舞台、と言っても、もうそこはかつての客席が並ぶ舞台ではない。星空のような空と無数のスピーカーに囲まれた、楽士の領域だった。
そこはかつて鍵介が立っていた場所で、今や二度と戻ることはないと思っていた場所だ。そこに今は、白夜が立っている。
「進まない方がいい、って俺は言ったよ」
「そうですね。でも、それに従う僕じゃないのも、先輩は分かっているでしょう」
鍵介と視線を合わせようとはせずに、白夜は言った。
その姿は、見慣れた制服姿からは明らかに変化している。塗れたような黒髪には泡を模した髪飾り。ループタイがされていた首元には、代わりにフリルのついたスカーフ。そして下半身を覆うパニエ。本来ならその上には大きく膨らみ流れるスカートがあるべきだ。しかし実際に在るのは骨組みとしての装飾具ばかりで、それがひどくアンバランスに思えた。
コツ、と靴音を鳴らして白夜が前に出る。靴音がよく響くのは、彼が履いているのがいつもの靴ではなく、高いヒールのついたものだから。
そこかしこに少女めいた、あるいは貴婦人めいた欠片を散りばめながら、しかし彼は男性で。倒錯的なその雰囲気と憂いの表情に、呑まれそうになる。
「鍵介」
白夜は鍵介の名前を呼ぶ。酷く甘く、酷く悲しい声で呼ぶ。
「来てほしくなかった。こんなの見せたくなかったよ。こんなことしたくなかった」
――でも俺の望みを叶えるには、もうこうするしかないんだ。
まるで美しい悲劇のワンシーンのように、悲痛な声で白夜が叫ぶ。それと同時に、白夜の手に長い杖が出現した。魔法使いの杖を思わせるそれを白夜が一振りすると、虚空に真っ黒いナイフがいくつも現れる。
「先輩、何があったんです。どうしてこんなこと」
違う。こんなことを聞きたいのでも、聞くべきなのでもない。ただ、今の白夜に届く言葉が思いつかない。言いながら、鍵介も自らのカタルシスエフェクトを具現化させた。
白夜は鍵介の言葉に、眉根を寄せる。そして苦しげに俯いてから、顔を上げた。
「鍵介には……あなたには、わからない」
わかってほしくない。
その言葉が、戦闘開始の合図だった。
今まで憂いを帯びていた白夜の表情から、不自然に感情が失せる。灰から鮮やかな赤へと変わった瞳が、鍵介を見据えた。
「……来い」
囁くような声と共に彼が両手を前に突き出すと、黒いナイフが一斉に鍵介の方にその刃を向けて空を切った。
「くっ!」
唐突な攻撃に半拍遅れながらも、鍵介は寸前で防壁を展開する。淡く光る壁に遮られ、白夜の放ったナイフが次々弾かれていく。カラカラと乾いた音を立てながら、目標を逸れたナイフは黒い泡になって消えた。防壁もまた同時に消滅する。展開が速い代わりに強度は脆い。
「先輩、止めてください! 僕は戦いに来たわけじゃ」
……ない。そう言おうとした鍵介を、赤い眼光と白夜の冷えた声が遮った。
「落ちろ」
白夜の頭上に振り上げられた手が振り下ろされる。はっとして頭上を見ると、ぼこぼこと耳障りな音を立てながら無数の泡が増殖しているのが見えた。あの一つ一つに内包されているのは、無数のナイフ。
殆ど反射行動として再度防壁を頭上に築いた。一粒一粒が殺傷能力を持つ黒い雨が、その上から容赦なく降り注ぐ。その猛攻は鍵介を傷つけることはなくとも、その機動力を十分に奪っていた。
黒い雨を縫うように、さっと影が躍り上がった。地上と宙で視線が絡み合う。地を蹴った白夜が空中で杖を振った。
「貫け」
空間が腐食したのかと錯覚するほど暗い色が泡としてあふれ出し、そこから錐に似た形状の刃が現出する。それは容赦なく鍵介が作った光の盾を貫き、無数のヒビを刻んだ。硝子が割れるような音を立てて、盾が砕け散る。衝撃で体勢が崩れ、鍵介はその場に仰向けに倒れ込んだ。
幸いだったのは、盾を貫いたことで狙いが狂ったことか。錐は鍵介をわずかに逸れて肩口を割いただけに留まって、地面に突き立った。
どろりとした、生温かい感触が肩を伝う――ことはない。カタルシスエフェクトと同質のその力が、人の肉体を傷つけることはない。しかし、傷ついたのと同じ痛みは与えてくる。そして、つい昨日まで自分の隣を歩き、微笑みかけてくれていた人が、自分に刃を向けているのだという衝撃も。
「じゃあ何をしに来たの」
カツン、と小気味いい靴音を響かせて、白夜は優雅に地面に着地する。髪飾りとパニエがしゃらりと涼やかな音を立て揺れ、耳元のピアスが僅かな光を反射させて煌めいた。
それを、なんとか上体だけを起こして見上げた。赤い瞳が――真っ白な雪の上に散った血のような赤が、鍵介を悲しげに見下ろしている。
「俺を止めに来た? 俺を連れ戻しに来た? それとも……鍵介も、力づくで言うことを聞かせに来たの? 俺に、現実に戻れって」
あんな地獄のような場所に。
そう言った白夜の声は、今まで聞いたことのないほどの激情を孕んでいた。
「あんなところ、戻ったって何も叶わないじゃないか。好きな場所へ行くことも、好きなものを手に入れることも、好きな人と一緒にいることも!」
鍵介が息を呑む。あれだけ一緒に過ごしていながら、それでも初めて見る恋人の表情に、驚きを抑えることが出来なかった。白夜が自分に刃を向けた衝撃と、その驚きに心が麻痺し、何も出来ない。
「思い出すんじゃなかった。ずっと忘れていれば良かった! やっぱり、思っていた通りだったよ、思い出したら、あんな場所に帰りたいだなんて思えない!」
『みんなで現実へ戻ったとして――もしかしたら、俺だけは一人で、ここへ戻ってきてしまうのかも知れない』
いつか、まだ鍵介が帰宅部に入って間もない頃、白夜が言っていたことを思い出す。
あの時も、夕暮れの赤に染まりながら、白夜は言ったのだ。覚えていないから、どうして帰りたいのかも分からない。もしかしたら、自分は帰りたいとは思っていないのかも知れないと。
不安は、その通りだった。
やっぱりハッピーエンドは夢物語だ。少なくとも白夜の現実ではありえない。せめて空想の中でくらいは優しい世界を見ていたくて、白夜は物語をめくり続けるのだ。美しく甘く優しい世界を、物語に、音楽に見るために。
本に綴られる文字も、音楽が聴かせる音も、パソコンの四角い画面も、鍵介が作った歌も。白夜があの鳥かごの中で許されたささやかな希望だった。逆に言うなら、許されたそれ以外のものは全て、取り上げられ奪われ続けた。
「お願いだから……これ以上俺から奪わないでよ」
メビウスでなら、奪われることはない。好きな場所へ行き、好きなものを見て、好きな人と一緒にいられる。
バッドエンドは嫌だ。泡になり消えてしまうくらいなら、そんな結末ごと刺し貫き切り落とせばいい。そのための力ならここにある。そうすれば、円満な結末を得るまではいかなくても、手の中に残った思い出を愛でながら、停滞していられる。
幸せにはなれなくても、少なくとも、不幸に逆戻りすることもない。
「わがままは言わない。全部は、望まないから。一番欲しいものが手に入らないなら、それも諦めるから。だからもう、放っておいて」
再び杖が翳される。耳障りな音を立て、黒い泡が現れた。そこから現れた黒い刃先は、一本残らず鍵介を狙っている。
白夜の言葉をただ聞きながら、鍵介はずっと考えていた。白夜が叫んだことの意味。彼が鍵介たちの元を頑なに離れ続けた理由。
そして、白夜の一番欲しいもの――それは。
それに気づいた瞬間、鍵介の瞳に生気が戻る。刃が煌めき翻る。三度、淡い障壁が目の前に展開し、ナイフを一つ残らず撃ち落とした。しかし今度はそれだけでは終わらず、障壁はひときわ強く輝いて、光が鍵介の大剣に吸い込まれていく。
白夜が何かを察したように目を見開き、後ずさった。刹那、まるで重力を感じさせずに鍵介がそのまま大剣を振るった。それは、たった一太刀にしてはあまりに強い衝撃と威力だ。障壁に遮られた白夜の力までも取り込み、反射する力。
「…………!」
白夜が地を蹴り大きく跳びすさる。先ほどまで白夜が立っていた場所が破壊に凪がれ、冷たい汗が背中を伝った。
再び、軽い靴音と硝子が触れ合う音を立てながら、白夜が地面に着地する。そうやって距離を取り鍵介と向き合うと、鍵介はゆっくりとその場で立ち上がるところだった。
「じゃあ、僕も言わせてもらいますよ」
眼鏡越しに、まっすぐに白夜を見て、鍵介は口を開いた。
「勝手に一人で話を進めないでください。本当に、先輩はなんでも一人で考えて、一人で決めて、一人でやろうとする。そういうところ、悪い癖ですから直してくださいって何度も言いましたよね」
あなた人の話聞いてないんですか、といつもの皮肉気な口調で、鍵介は続ける。白夜は答えない。ただただ、悲し気な瞳で鍵介と見つめ合うだけだ。鍵介の言葉は届いているのか、いないのか。それだけでも確かめたい。
……いや、届かせるのだ。そうしなければ、勝機も、白夜の望むものも、何より鍵介が望むものも、本当に一生手に入らなくなる。
そんなのはまっぴらごめんだ。
「僕は、先輩から何かを奪ったりしませんよ。奪っているのは先輩の方だ」
「………………」
鍵介の言葉に、白夜がぴくり、と眉を動かした。その表情は苛立ちか、憤りか。どちらにせよ、鍵介は構わず続ける。
「自分は奪われたくないくせに、僕からは奪うんですね。あなたを」
今度こそ白夜の目が見開かれ、表情に戸惑いが広がった。
届いた。通った。鍵介はそれを確かめてから、もう一度大剣を強く握り直す。
「(なんとか前に出ないと、勝ち目がない)」
防戦一方ではいつか体力も気力も底をつく。そうなれば、倒れるのはこちらだ。なら、いちかばちか――
白夜は先ほどからずっと、自分から間合いを詰めることはせず、常に一定の距離を保っているように思えた。ナイフを生む黒い泡は、その高低差はともかく、常に白夜と鍵介の間に出現するらしい。
「行けっ!」
鍵介の戦意をようやく感じ取ったのか、白夜が再び言い放ち、杖を振る。やはり黒い泡が白夜の眼前に出現し、ひときわ大きな刃が生まれ出た。それはまるで狙いを定めるように一瞬、ぴたりと動きを止める。そして一気に射出された。
「ッ!」
刃が止まったその一瞬。鍵介は身をかがめながら地面を蹴った。そのまま身体を地面に投げ出すように、一気に前に飛び込む。
ナイフの方にあえて向かってきたのは意外だったのか、白夜の表情が引きつった。鍵介は大剣を右手で掴んだまま、左手とカタルシスエフェクトが生む浮力だけで身体を支えて身をひねる。頭上でナイフが空を切り、行き過ぎていった。左手に力を入れて飛び上がるように体勢を立て直し、顔を上げたら……もうすぐそこに白夜の身体がある。
「……っ、跳ねろ!」
狙い通り、間合いを詰められれば自分が不利だと分かっているのだろう。明らかに焦りの滲んだ声で、白夜が叫ぶ。がくん、と鍵介が立つ地面が揺れて、ぼこぼこと黒い泡が湧きたった。鍵介は即座に地面を蹴って宙へ身を躍らせる。カタルシスエフェクトが生み出す浮力がしっかりと身体を支え、直後、鍵介が立っていた場所から真っ黒な凶刃が突き出した。
これを避けたのは完全に予想外だったのだろう。白夜が今度こそ完全に驚愕で表情を染めた。それを殆ど真上から見下ろしながら、鍵介は大剣を振りかぶる。
「はああぁぁっ!」
呼気と共に振り下ろしたそれを、白夜が黒い泡で受け止める。複数の金属が擦れ合う耳障りな音を立てて、つばぜり合いが起こった。
しかし本来攻撃に使われるその泡が、強固な盾に化けるわけもない。びしりとヒビが入ったのはほんの一瞬で、それは卵の殻を割るかのようにあっさりと破られる。
泡が舞う。割れた殻の欠片のように、黒い泡があちこちに浮かび、はかなく割れて消えていく。鍵介は迷わず手を伸ばした。黒い泡の隙間に消えようとする白夜の姿を捉え、その腕を掴む。
「っいや!」
悲鳴が上がる。その声は男性にしては高く柔らかく、今までと同じ白夜の声なのに、全く違っているような気がした。でも、もうそんなことはどうでもいい。
「先輩!」
掴んだ腕を、思いっきり引っ張る。引き寄せる。華奢な体が泡の海を抜けて、鍵介の胸に飛び込んでくる。
……白夜は鍵介に尋ねた。何をしに来たのか。戦いに来たのか。止めに来たのか。連れ戻しに来たのか。白夜がそれを望まないとしたら、力づくででも?
そんなわけはない。まして力づくでなんて、白夜がそれを最も恐れ嫌うことを、鍵介だけは知っている。対象が自分であろうが他の誰であろうが、身体の自由や自由意志を奪われ、否定されることは、彼が何よりも許せないことだ。たとえ白夜でなく鍵介がそんな状況になったって、彼は哀しみ、憤るだろう。
鍵介がここまでやってきた理由は、もっとシンプルだ。
「僕は、あなたに話さなきゃいけないことがあるから来たんです」
「…………!」
白夜が鍵介から逃げたように、鍵介もまた、白夜と向き合うことから逃げていた。白夜が、忘れていた現実での記憶を取り戻したことは、薄々気付いていた。そのせいで、白夜が自分を避けていたこともわかっている。
かつて、メビウスで過ごしていた白夜の記憶を奪ったのは、オスティナートの楽士であった頃の鍵介だ。それが故意でなく、かつ白夜自身が望んだことであっても、それを隠したまま彼に告白し、手を取ったのは鍵介の「間違い」だった。
でもそんなことが原因で、白夜を失うのはまっぴらだ。
「先輩が僕に話せないことがあったように、僕にもありました。それは謝ります。……すみませんでした。でも、先輩も謝ってください。それで、もう黙っていなくなるのはやめてください」
白夜がもぞりと腕の中でもがく。それを、きつく抱きしめて閉じ込める。
「黙って諦めるのは、やめてください。ちゃんと話してください。前に言ったでしょう、僕は先輩みたいに出来た人間じゃないから、望むんです。諦められないんです」
白夜にとって、現実はとても恐ろしい場所なのだろう。かつて、「もう思い出したくない」と鍵介に縋った白夜を思い出す。でも、たとえそれが白夜にとってひどく辛いことだとしても、鍵介は諦められないのだ。
それがひどいエゴなのだと分かっていても、絶対に譲れないものはある。
どんなに賢く清廉に恋をしたいと願っても、結局恋なんてエゴなのだ。自分のエゴで相手を望み、相手のエゴが自分に向かうことを望む。
「けんす、け」
もがいていた白夜が、やっと顔を上げた。その顔に、影がかかる。はっと息を呑んだ時には、もう唇が重なっていた。
びくり、とまた震えた身体を、抱きしめ直された。今度こそ、白夜の身体から力が抜ける。
……互いにエゴを振りかざすのが恋ならば。せめて出来るのは、互いのそれを許すことだけだ。
『たとえ、本当の姿がどんなにみすぼらしく、どんなに唾棄すべき境遇にあっても、自分を好きでいてほしい』
『たとえどんなに恐ろしい地獄だったとしても、自分ともう一度出会うために、立ち向かってほしい』
そう願うことを、互いに許すしかない。
ぴしり、と。腕の中で何かがひび割れるような音がした。